第1章 しあわせとは (篤志)

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第1章 しあわせとは (篤志)

 第1話 ふつうじゃない  珠里(じゅり)と知り合ったのはハタチの春のことだ。  大学二年の時に見つけた大手塾のバイトを見つけた。その前にやってたコンビニのバイトよりずっと割が良かったからだ。  塾の本部はデカいビルで、集められた現役の大学生はそこで塾のテキストの問題作成をしていた。と言ってもいわゆる『過去問』で、どこかの大学の過去問から良問を選んで適当に切り貼りするだけの仕事だった。  大学生はみんな当然アルバイトだったし、そんなところにも『仕切り役』がいて、まるでサークル活動のように時には「わっ」と嬌声が上がった。  そして俺はいつでもそういうみんなの輪のようなものになじめなくて、適当に相づちと愛想笑いをしながら仕事をしていた。  そんなある日、アルバイトと社員の講師を仕切る低い棚の向こうから上司に呼ばれた。返事をして急ぎ足でそこへ向かう。  ――そこにいたのはふつうの女性ではなかった。 「岩崎さん、アルバイトの三上くん。入ったばかりなんだ」 「岩崎珠里です、よろしくお願いします」  小首を傾げて俺に挨拶をした彼女は、いままで見たどの女性とも違っていた。  大きな瞳、ぽってりした唇に細い顎。気だるい顔でディスクチェアに座る姿はまるで高級娼婦のようで、そうでなければさながら社長秘書のようだった。差し出された手に触れていいのか、一瞬、ためらわれた。 「三上です。こちらこそよろしくお願いします」  ひと思いにそう言って、彼女の手を取った。白い、小さな手はひんやりしていた。  それからバイトに行く度に彼女がいるか気になった。姿が見えた日には低い棚の向こうにいる彼女につい目が行った。見るたびに彼女は背筋をピンと伸ばした姿で座っていたが、瞳はいつも憂いを帯びているように見えた。  神経のすべてで彼女の存在を感じていた。他の学生がどんなに大学の話で盛り上がっていても一緒に笑えなかった。彼女しか目に入らなかった。  仕事が終わって、役職付きの社員にしか使えないエレベーター横の階段を下りる。と、階段を下りていく彼女の後ろ姿が見えた。俺たち以外、前後には誰もいない。  声をかけようか迷う。  ここまで気になっているならもういっそ声をかけたらどうかと考える。そうやって考えてるうちに、彼女はコツンとヒールの音を立てて、踊り場に下りた。 「岩崎さん」  ゆっくり彼女は振り向いた。  ゆるやかにウェーブのかかった髪が、ふわっと揺れる。  大きな瞳でこっちをじっと見つめている。声をかけた俺が何を言うのか、待っていたからだ。どんなふうに言ったらいいのか。彼女を誘おうと決めたくせに覚悟が決まらない。手に汗をかく。 「よかったらこれからちょっと飲みませんか?」 「……わたしでいいの?」 「ほかに誘いたいひとはいませんから」 「わたしなんかといると、笑われるわよ」 「そんなこと」  彼女のようなひとを連れていたら笑われるどころかきっと、うらやましがられるに違いない。彼女の隣に立つことは度胸のいることだと思ったが、それは望むところだった。  それとも遠回しに断られているのかと戸惑う。口をきいたのは挨拶をしたあの日以来だ。  彼女はまた靴音を響かせて、ゆっくり俺の立っている段のすぐ下まで上ってきた。顔が近い。 「いいわよ」  俺の目を真っ直ぐに見て、彼女はそう言った。吐息がかかりそうな距離だった。  あっ、と途端に財布の中身が気になったが、バイト代は出たばかりだった。彼女の分までおごっても足りそうだと安心する。 「じゃあ、行きましょう」  不意に彼女の手が伸びて、「うわっ」と反射的に手を避けてしまう。 「ごめん、わたしすぐに手を出しちゃうの、良くない癖だってわかってるんだけど。パーソナルスペースって言葉知ってるのって、よく友だちにも笑われたの」 「いや、突然だったから驚いただけで。岩崎さんはなにも悪くないですよ」 「そっか、じゃあ行こうか」  手はつながなかったけれど、その時、ふたりの間の空気がふっとやわらいだ。  そして俺たちは塾の裏口を出て、駅前の雑踏に飛び出した。この街に住んで一年経っても慣れない人々の喧騒が、彼女と一緒だと小さなノイズにしか聞こえない。  信号が青に変わると彼女は「どこに行くの?」と言った。「あの店で」と、駅前の角にあるビルの、チェーン店の居酒屋を指さした。そんなに飲む方ではなかったので気の利いた店は知らなかった。彼女も一緒にその看板を見上げたが、特に反対しなかった。  とりあえず、彼女とふたりになってみたかった。 「岩崎さん、なににしますか?」  そうねぇ、と彼女はドリンクメニューをめくった。ひとつずつ几帳面に見ているところは、背筋を正して仕事をしている時を思わせた。小さなことにもきっと丁寧なひとなんだ。 「わたし、ジントニックで」  円筒形のグラスに注がれた透明なジントニックは、大人の女性に似合う気がした。  軽く乾杯をすると彼女はグラスを揺らしながら話を始めた。 「本当にわたしなんかと来ちゃってよかったの? かわいい大学生の子、いっぱいいるじゃない」 「いや、そういうのは興味ないっていうか」 「年上がすきだっていうことなのかな? でもわたしなんかと一緒に飲んでるの見られたら、なにか言われちゃうよ」  それはおかしな話だろうと思った。けど確かにあの職場でいちばんキレイな彼女を誘う男を見たことがなかった。それどころか、グループでの飲み会にも誘われていないように思えた。職場を出る時、彼女はいつもひとりだった。ひとりがすきなのかと思っていた。 「どうしてですか?」 「さあ、と思ってるんじゃないかなぁ」  彼女がグラスを傾けると、白い首筋があらわになった。その肌の白さにぐっと来る。直視できなくなって下を向く。 「そんなことないですよ」 「そうかなぁ。だって知ってる? あの職場のひとたちより、わたしの学歴は低いの」  その予想外の言葉になにも気の利いたことは返せなかった。  
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