葵編【第六話】

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 日野家へ兄が通うようになってから、彼女の容態は少しずつ良くなっていった。長年寝たきりだった身体の指先が、不意に動くことがあるのだという。俺はその瞬間を見たことはないが、皆の心の中に、もしかしたら目を覚ますのではないか、という希望が生まれつつある。  その日を願い、兄は近くに引っ越すことにした。今の家と同じくらいの設備で、日野の家に近ければ近いほどいい、理想は数分で着くところ。などとストーカーじみたことを平然と言っていて若干心配になった。彼女の両親が歓迎してくれていることが救いだ。  結局、今日見た物件も見送ることになった。近い場所という条件が譲れない以上、数ヶ月単位で探す覚悟は必要そうだ。 「じゃあ、俺戻るから」  不動産屋の女性と物件前で別れ、日野の家に向かおうとする兄に言った。当然一緒に行くと思っていたのだろう、え、と驚いて俺を見る。 「行かないのか」 「先週行ったばっかだし、兄ちゃん一人のほうがいいだろ」  暗に二人きりになりたいだろうという意味で言ったが、その表情を見るに分かってなさそうだ。 「それに俺、これからデートだから」 「うわ、やめろよ……。お前からその言葉が出てくるとドキッとするんだよ……」  まるで悪いことでもしているかのような言われっぷりだ。適当に流して兄と別れ、駅に向かって歩き出す。静かな住宅地に、人の影はない。この辺りの空気はゆったりとした穏やかさを感じる。日野がいる場所というだけで、そう感じているのかもしれない。  最近、自分の身体に異変が起きるようになった。物を生み出した直後、酷い疲労感が出るようになったのだ。大した物を出したわけでもないのに、半日ほど動けなくなることもある。ここのところ、他のことに思考が奪われて力を使う機会が減っていたから、なまっているのだと思った。  けれど、それと同じ頃から日野の身体に良い兆しが見え始め、悟った。なんとなく自分の行く末が分かってしまったが、兄や三上先生には黙っていた。  もう、力を使うのは止めよう。因果関係は分からないが、もしかしたら、それで彼女の回復が早まるかもしれない。そうなったら嬉しい。サンタの力は喜んで返す。保育士になるという目標が消えるわけでもない。  広い青空を見上げ、煌めく光を思い出す。最後に一度だけ、と周囲を見回し、両手を目の前に出した。頭の中で想像し、そこに現れる様を思い浮かべる。そうやって数え切れないほど繰り返した一連の動作が、突然、記憶が抜け落ちてしまったかのようにやり方が分からなくなった。  何も出ない。感覚が思い出せない。ただそこにある自分の手のひらを見つめ、あぁ、と心の中に暖かいものが流れていく。こんなに早くこの日がくるなんて思っていなかった。携帯を取り出し、先ほど別れたばかりの兄にメッセージを送った。 『もう家に着いた?』  すぐに、『まだ。あとちょっと』と返事がくる。 『ひのりん、起きてる気がする』  それに対する返事はこない。ふざけているとでも思ったのかもしれない。再び駅への道を歩き出した。自分の靴音だけが小さく聞こえ、時折吹く風がどこかで木の葉を揺らしている。  携帯が着信を知らせた。通話ボタンを押して耳に当てれば、兄の震える声が聞こえてきた。 葵編・完
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