それでも生きて

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それでも生きて

強烈な寒波という宿敵のお陰で私は自分の身体すら暖める事が出来ないほどに弱りきった年の暮れ。十月には、生涯で二度目の緊急手術を受け、なんとか一命を取り止めたばかりだった。  辛うじて続けてきた仕事だけは慣性と惰性、そして楽しさから今も変わらずいられるけれど、その仕事ですら私の命を削っているのかも知れないと時々思う。  寒さは時に脅威となって私の生命を吸い取ろうとする。    私は夏が好きだ。どろどろに溶けてしまいそうになるほど暑い夏の方がよっぽど元気をくれる。背中をつたう汗が心地よい。生きていると教えてくれる太陽の灼けるような暑さ。セミの声すら聞こえない猛暑がいい。   あの大好きなアニメのように、セカンドインパクトが起こって季節が夏しかなくなればいいと本気で思う。    車のバックシートにうずくまるように座り本を読んでいて思わず身震いがした。  寒い。それはそうだ膝掛けは隣に鎮座していて、私のふくよか過ぎる太ももはそのまま元旦の冷たい空気にさらされている。  慌てて飲んでいたホットココアのペットボトルをドリンクホルダーに置いて膝掛けをたぐり寄せた。ほっとする心地よいぬくもりが私の冷えた足を包み込んだ。  寒いのと歩くのがしんどいという情けなくも罰当たりな理由から私だけ初詣に行かずに車に残っていた。ぞろぞろと神社に向かう人が波に呑み込まれてゆくようだ。  ふっと何かの視線を感じたように顔を上げた私の視界に飛び込んできたのは、雲間から差し込む太陽の日差しと、それに似合わないフロントガラスを叩く雨の粒。天気雨だなんて冬には珍しいんじゃないのかな。分からないけれど、多分。    私が子供の頃は、天気雨が降ると狐の嫁入りがあるといわれたものだった。何を根拠にそういう事を言ったのかはよく分からないけれど、大好きなおばあちゃんに聞いた言葉だったのを覚えている。腰の曲がった、大好きだったおばあちゃん。    晴れているのに雨が降っている、それはとても幻想的な風景に見える。誰かが空の上で泣いているのかもしれないな、なんてちょっとセンチメンタルに浸ってみる。  泣いている?  そうきっと母が私を心配して泣いているのだろう。こんなに何度も死にかける弱い娘の行く先を嘆いているのだろう。    目覚めた時、集中治療室のベッドの上だった。あの日、耐えがたい腹痛と高熱で私は自分の体に起こっているであろう最悪の事態を確信した。  腹膜炎。  このまま放っておけば数時間で私の死体が出来上がるだろう。けれど運良く長男が休みで家にいた。長男に連れられてかかりつけ医に着いた時にはもう自力で立っていることすら出来なかった。  その時のレントゲンの結果は腸閉塞。そしてやっぱり嫌な予感ほどよく当たるもので腹膜炎に感染しているとの診断。  先生は手術が必要と判断し、すぐに総合病院に電話をしてくれた。  そこからの私の記憶はほとんどが水の中をのぞき込んでいるみたいにゆらゆらとして正体がない。     ただ寒かったのと、お腹が痛かった事だけ覚えている。検査の過程で何度かお腹を押されて、魚がぴちぴち跳ねるように痛みで私の体は飛び跳ねた。  病院に着いて二時間あまりで今から手術をするよと言われてもそれは誰の事かしら、とまるで白昼夢をみているかのよう。    そばにいた女の人に身につけていたアクセサリーを全部外してと言われた。この時の女の人が医師だったのだと知ったのは、集中治療室で無理やり起こされた時だったと思う。  どうして起こすの?私は眠いのに、そんなこと頭のどこかで考えていただろう。    この時の私は、それこそ生と死の間を行ったり来たりの状態だったとあとで聞かされた。  家族は、この二日間が山でしょう、覚悟はしておいて下さい、と主治医に言われていたらしい。  夢を見ていただけのような気がするのに。  どこからか赤ちゃんの泣き声が聞こえていた。それをずっとベッドの上で聞いていた。  あれは夢だったのだろうか。     集中治療室で目ざめて生まれて初めて私は、自分の意志でその体を動かすことができない、という衝撃を知った。  それまで当たり前に無意識にしていた寝返りすらも打てない。困惑する気持ちと裏腹に、体は悲鳴をあげる。お願いだから向きを変えて。でも腕一本足ひとつぴくりとも動きやしない。    加えて手術の傷あとが猛烈に痛む。そのための痛み止めはボタンを押すと点滴から流れるようになっていた。医療用麻薬の強烈なものだった。  しかしへそから下を二十センチも切った上に、五本のドレーンのチューブが刺さっている。痛くないわけがない。息をしても痛むのだ。痛み止めなんて、その時だけしか効きやしない。  他の誰かがそんな状態なんだと聞いただけで痛いだろうと思うのに自分の身に降りかかっているのだ。どれだけ私は運が悪いのだろう。  死に損ない、なのだろうか。  あと一日遅れていたら助からなかったと言われて、そうだろうな、と当たり前に納得した。    あの日私は自分の命をあきらめようとしていたのだから。  生きていくのに疲れてしまうことって誰だってあるんじゃないのかしら。  でも死ねない、そんな毎日の繰り返し。  そこにひょっこりと「死」という遠く手の届かないものが舞い降りてきたのだ。  掴んでもいいんじゃないかなって思ってもおかしくないでしょう。  私にとって死とは、唯一母に逢える手段に他ならないのだ。     そして私がこんなにも母に恋い焦がれているのだから、私の子供達だってもちろんそう思ってくれているのだろう。  だからあの日、長男は私を心配して病院に連れて行ってくれたのだ。  そんな子供達を残して死ねるわけがない。だから母は私を連れて行ってはくれないのだろう。まだ早い、あなたの役目は済んでないでしょう?そう言われたような気がする。    母は急性骨髄性白血病だった。五年半もの間、入退院を繰り返して闘病生活を続けた。それは言い換えれば、残される私達に覚悟の時間をくれたのだと思う。   抗がん剤の副作用で、毎日吐きどおしで、髪の毛は抜け落ちて、目も見えなくなってそれでもただのひと言も泣きごとすら言わなかった、とても芯の強い人だった。 大好きな母。  終末期には体中に痛みが走るらしく、モルヒネを終日投与されていた。  そこまで生きて母は、もう死なせて、それだけを繰り返し言うようになっていった。  私は母の旅立ちの時に間に合わなかった。ひとりぼっちで逝かせてしまった事と、どんなに看病してもうめ尽くす事なんて出来ないんだと、敗北にも似た焦燥感が漂っていた。涙で視界が滲んで何も見えない。    私は、自分の身勝手さから子供達にもっともつらい現実を突きつけてしまうところだった。  子供達と、それから生涯かけて愛したただひとりの男、人生という坂道を一緒に登ってきた、それが私の魂の片割れ。    私が死んだら泣いてくれる?  「お前より俺は先に死ぬ。残されるのは嫌だからな」  じゃあ一日だけ先に逝っていいよ。私もあなたのいない世界では生きてゆけないもの。次の日に追いかけてゆくからね。   「それもダメだよ。お前には生きててもらわないと困るだろう」  そんなのずるい。私だって置いていかれるのは嫌よ。でも私にあなたを置いていくことはおそらく出来ないでしょうね、とても心配で。だから一日だけ長く生きる事にする。あなたを見送ったら次は私の番よ、それでいいでしょう。  「俺が死んだあとの事は何も言えないのか」  ほらね、私の勝ち。 でも人の命なんて一秒先も分からない。現に私はあの日、確かに一度、死んだのだ。  それじゃあ今の私は何なのだろう?  傀儡。  マリオネット。  そんなところじゃないかな。  私は生きているという実感がない。何かに魂を吸い取られるような、そんなギスギスとした命のやり取りがあればいいのに、などと考えてしまう。  生きてる実感なんて誰もが持っているわけでもないのに、なぜ私はそんな事を思うのだろう。きっとまだ、死にたいからなのだ。こんな不自由な体になってまで生きているのが嫌なだけ。    それでも生きているだけマシなのだろうか。 それでも私は生きている。
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