栗原さんの大事なもの

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 栗原さんはその箱をいつも大事そうに抱えていた。理科の授業で教室を移動する時も、職員室で先生に何か質問をしている時も、休憩時間中に花柄の小さなポーチを持ってトイレへ小走りに駆けていく時だって、その箱はいつも栗原さんのそばにくっついていた。薄い緑色にヒラヒラと白いレース模様があしらわれたその小さな箱は、多分どこか僕の知らない国のクッキーか何かの箱で、英語の少しだけ得意な僕にもよく分からないアルファベットが綴られていた。栗原さんは、授業を受けている間はその箱を自分の机の左上に必ず置いていて、時折左手の人差し指で箱の表面だったり縁だったりを撫で、ぼんやりと窓の外に目をやった。栗原さんが授業中に指名されて「もし明日晴れたら、ジョンは学校へ行くでしょう」の英訳を黒板にさらさらと書いている間、彼女の後ろの席からその机の上を覗き込んでみたら、長い間持ち運ばれ、撫で続けられたせいで角が丸まり、端っこが少し黒ずんでいるその箱がよく見えた。ピンク色のマスキングテープで封がされていて、「誰にも中を見せるものか」とその箱は腕組みして主張しているみたいだった。  じわじわと暑い日だった。帰りのホームルームが終わり、僕は祐太郎のところへすっ飛んで行った。祐太郎が先週発売されたばかりの「サバイバル・プラネット」の新作を手に入れたと知っていたからだ。 「おまえ、まだ貸してやんねえぞ」  僕を見た途端、祐太郎はあからさまにニヤニヤと意地悪そうな顔をした。 「え、何で分かるの、ゲーム貸して欲しいって言おうと思ったこと」 「顔見りゃあ分かるわい」  祐太郎はおもむろにカバンからキラキラした銀のカバーのゲームソフトを取り出し、僕に見せつけた。 「どーん。まだ俺もクリアしてねえから。まあ、すぐ終わるだろうし、ちょっと待ってなって」  僕は従順な子犬のようにこくこくと頷いた。 「何で持ち歩いてるの?学校でやるわけじゃあるまいだろうに」  見せつけるために持ち歩いているなら、呆れるほど意地が悪い、と思った。 「そりゃあ、大事なものだからだよ。今の俺にとっては、命より大事。おまえには分からんのかこの気持ちが」  大げさだなあ、とため息をつきながら考えてみたが、今の僕には特に大事なものは思い付かなくて、やっぱり良く分からない、と言った。離れたところで、掃き掃除を終えた栗原さんがリュックサックをうんしょ、と背負い教室を出て行くのが見えた。机の上に、あの箱を置き忘れたまま。 「あ」  僕と祐太郎は同時に小さく声をあげた。二人で目を合わせた。あれ、何なんだろうな。何なんだろう。中身、気になるよな。目だけで言葉を交わし合い、僕たちは誰もいない教室の中で挙動不審にソワソワと体を揺らせていた。 「忘れ物…」  ガラリと扉が開いて、栗原さんが戻ってきた。僕たちを見て、箱が机の上にあることを確かめて、口元を緩ませ、箱を胸元にぎゅっと抱えてまた教室を出ていった。  クーラーが壊れて、オンボロの扇風機を3台教室の中で回しながら授業をしていた日のことだった。栗原さんが倒れた。「熱中症だな」と先生が言った。汗くさい教室の中、汗くさい学生たちは、栗原さんのことを心配しながらも、突然に起こったアクシデントや「自習してなさい」という先生の言葉に興奮を隠せないようだった。栗原さんを抱えて教室を出ていった先生は、まもなく戻ってきて、僕に「栗原帰宅するから。荷物持ってきてくれないか」と頼んだ。僕は急いで一つ前の机を整理し、荷物を詰めた栗原さんのリュックを背負い、黒ずんだ箱をそっと指の先で持ち上げ、保健室へ向かった。  その箱はとても軽かった。揺れるたびに、中に入っている何かがカタ、カタと音を立てた。階段を降りる僕の足音に合わせて、カタ、カタと箱が鳴る。そっと鼻を近づけてみた。学級日誌の茶色い紙とおんなじ匂いがした。踊り場で足を止めて、その箱を頭の上に掲げてみた。窓から差し込んでくる光がその箱を柔らかく包んだ。僕は、宝箱を持っていた。  ピンクのマスキングテープをそっと、そっと剥がしていった。丁寧に剥がしていったつもりなのに、テープは思いのほかしっかりとくっついていて、箱の縁もペリペリと汚く剥がれていった。息を止めて、唇を噛み締めて、心臓の鼓動に落ち着きなさいと念じて、箱のふたをあけた。中に入っていたのは、手のひらにちょうど収まるくらいの大きさの紺色の小箱だった。 「平和」  刻まれていた英単語の意味が分かって、呟いてみたけれど、何で栗原さんがこんなものを大事そうにしているのか分からなかった。それはタバコの箱だということを僕は知っていた。中には1本だけ白いソレが入っていたけれど、やっぱりそれはただのタバコでしかなく、幼い僕たちだけでなく近頃は多くの大人が敬遠すべきもので、「カッコつけな奴らが吸う、体に悪いもの」以外の何でもなかった。近所のコンビニの吸い殻入れの周りに似たようなものが散乱しているのを見たことがあるから、僕は知っていた。  しかし僕の手は知らず知らずのうちにその紺色の小箱をスラックスのポケットに押し込めていた。僕は空っぽになった薄緑色の箱とリュックサックだけを保健室に送り届けた。扉の隙間からちらりと見えたベッドの上の栗原さんは目を閉じて、顔を真っ青にして唇を震わせていた。僕は逃げるように保健室を離れた。  次の日の朝、登校してきた栗原さんは、日陰に押しやられて枯れてしまった花のようだった。顔には生気がなく、同級生に声をかけられると「うん、もう大丈夫だよ」と涙を精一杯堪えているかのような表情で応えた。僕はまともに顔を見ることができなかった。  僕の一つ前の自分の席に腰を下ろした栗原さんに、「おはよう」と小声で挨拶をした。栗原さんはまた、同じような顔で「おはよう」と返事をした。ほんの一瞬、栗原さんの瞳が僕を見据えた。すぐに栗原さんは前を向いたので、僕は、彼女が何か言おうとしていたのか、自分が何か言うべきだったのか、そうでもなかったのか、何だか全てがよく分からなくなった。  栗原さんが「もし明日雨が降ったら、僕は学校へ行かないでしょう、とジョンが言った」の英訳を黒板に書いていた。机の上には、綺麗な文字が並んだノートとシャープペンシルと赤いペンケースだけが乗っかっていた。  あのタバコの箱は、スラックスのポケットに忍ばせてこっそり持ち帰ったあの日に捨ててしまった。何か秘密があるのかもしれない、と自分の部屋で穴があくほど観察し、1本だけ残っているタバコの匂いをすんすんと嗅いでみたりしたけれど、声の低いおじいさんがやっている、怪しいお店に売っている怪しいお香の匂いが想像されるだけで、変な夢を見そうだと思った。なんだ、こんなもの、と思い、すぐに興味をなくして、キッチンで母が縛っていたゴミ袋にねじ込んだ。どこででも買えるあんなものに執着している栗原さんの気持ちが理解できなかった。  栗原さんは日に日に元気をなくしていった。点呼に返事をする、はい、という声も、聞き取れないくらい小さく掠れたものになり、卵型だった顔の輪郭は丸みを失い、頬のやつれからか目の大きさがくりくりと目立つようになった。夏休みが近付いてきて体の色を黒くしていく同級生たちの中で、風が吹いたら飛んでいきそうな、白い顔をした栗原さんは一人だけ雲の上を歩いているようだった。人の変化に鈍感な祐太郎でさえ、「栗原さん、最近どうしたんだろ」と心配そうに話しかけてきた。僕は声を震わせながら「どうしたんだろうね」と答えた。  夏休みが始まる前の、最後の登校日、僕は隣に住む大学生のおにいさんに頼み込んで買ってもらった紺色のタバコを持って学校へ行った。謝らなければならないと思った。体をやつれさせるほどに栗原さんを悲しませてしまったことが、ずっと僕の心を引っかいていた。近所のコンビニのタバコの陳列棚の前で、声を潜めて「あれ、216番」とおにいさんにお願いしている僕を、トイプードルみたいなパーマをかけたおばさんが不審そうに見ていた。「ありがとう、本当に」とお礼を言うと、おにいさんは「よく分からないけど、頑張って」と笑った。箱を開けて、1本残して残りは全部コンビニのゴミ箱に捨てた。怪しいお店のお香の匂いが右手に染み付いて、ワイシャツでこすっても取れなかった。  その日は時間が過ぎていくのがとても遅かった。いつまで経っても時計の針は進まず、休憩時間は終わらず、帰りのホームルームは永遠に続くかのようだった。「では、夏休み明け、元気で会いましょう」と言う先生の言葉を聞いて、沸き立つ同級生たちの中で僕と栗原さんだけが声を潜めていた。  同級生が解散し始めた。目の前の静かな後ろ姿を見つめて大きく息を一つ吸い、栗原さん、と声をかけようとした矢先、祐太郎に肩を叩かれた。 「おい、クリアしたぜ。サバイバル・プラネット」  貸してやるよ、と祐太郎がカバンをごそごそと探り出したので、僕は慌てて「ごめん、ちょっと待って、また後で」と遮り荷物をまとめて駆け出そうとした。足が椅子に絡まって盛大にこけた。祐太郎はぽかんとしていたが、僕の視線の先をたどって「ああ、うんうん、なるほどね」と分かったように腕組みをして頷いた。「頑張ってくれ。君の春はすぐそこだ」と言う祐太郎に曖昧な返事を返して、僕は栗原さんを追いかけた。  栗原さんは先へ先へと歩いていった。いつものように、風に吹かれたら飛んでいきそうな様子だったけれど、その足取りは確かだった。確固たる目的地を決めている人の足取りだった。僕は声をかけるタイミングを見失い、ストーカーのように栗原さんの数十歩後ろをついていった。栗原さんは、川をまたぐ大きな橋を渡り、河原へ降りた。家へは、帰らないのだろうか。僕は橋の上から栗原さんの様子を見た。栗原さんは大きな石の上に座り込み、まっすぐ川の流れを見つめていた。何かおもしろいものがあるとは思えなかった。川はただの川だったし、栗原さんはそこで一人だった。僕は意を決めて河原へ降りた。砂利を踏みしめ栗原さんの方へ近づいていった。  栗原さんは僕を見た。その目は訝しんでもいなかったし、怒ってもいなかったし、僕を歓迎してもいなかった。しばらく何も言えなかった僕は、やっと、「栗原さん」と声を絞り出した。 「無理して話しかけなくていいよ」  栗原さんは言った。言っただけだった。僕はその言葉に傷つけられなかった。話しかけていいのだ、と思った。僕はポケットからタバコの箱を取り出した。 「栗原さんの箱、開けたのは僕です。勝手に中身を盗って、本当にごめん。返しにきました」  栗原さんは初めて、驚いたような顔をした。少し落ち窪んで前よりも丸くなった目をさらに丸くさせて、僕の手の中にある紺色の箱を見た。立ち上がった栗原さんに僕は近付いていって、その箱を手渡した。栗原さんは真っ白な手を少し震わせながらそれを受け取った。箱を開けて、中に1本入っているタバコを見て、また箱を閉じて、重さを計っているみたいに両手でそれを包み込み、目を閉じた。僕は瞬きもできずに栗原さんの様子を見ていた。栗原さんは目を開けた。大粒の水滴を目の端からこぼしながら栗原さんは笑った。 「知ってた」  そして、栗原さんの体はすぅ、と透明になっていって、白い光を反射させながら、冷凍庫の中で冷えすぎた氷が昇華するときのイメージみたいに小さな粒になって消えていった。栗原さんが手に持っていた紺色の箱だけが、ストン、と彼女の足元だったところに落ちた。  栗原さんの体があったところには、もう何もなかった。汗ばんだ手を伸ばしてみたけれど、ただ宙を掴むことしかできなかった。僕は腰から崩れ落ちて、何も考えることもできずに、手のひらに伝わる石ころの冷たさを感じていた。  銀杏のにおいが町のにおいになった。実をつけなくて臭わない木もあると聞いたのに、なんでこの街にはわざわざ実をつける木ばかり植えられているんだろうかなあ。植物の好きな友達があごをさすりながらぼやいていた。でも僕は銀杏のにおいが嫌いじゃなかった。季節が変わったことを、ちゃんとはっきりと、ごまかすことなく教えてくれるのは、日本中探しても銀杏の実くらいしかない。  気持ち悪いくらいに表紙が真っ白い「高校入試の手引き」を放り投げて家を出て、歩いていた。コートのポケットに突っ込んだ右手の中には紺色の箱があって、指の先でボコボコした「平和」の文字列をなぞった。  僕が行きたかったところには先客がいた。河原の砂利に腰を下ろして、白い煙を口から吐き出していた。その人は髪の毛がとても長くて、横顔が白くて、しかも深い赤色のマフラーを巻いていたから、僕は初め女の人だと思った。近付いていった僕をその人はちらっと見た。針葉樹の葉っぱみたいに鋭い目だった。男の人の顔の作りの良し悪しは正直よく分からないけれど、僕は、なぜかその人の目や鼻や、タバコをくわえる薄い唇から目が離せなかった。 「座らないの」  その人が言った。僕に話しかけているのだと気付いて、少しびくっとして、意味もなく周囲を2、3回見回してその人の隣に座った。その人も僕もずっと無言で、僕はただ、隣から流れてくるフクリュウエンを恐る恐る吸い込んだりしてみていた。  手持ちぶたさになった僕は、ポケットから右手を引きずり出して紺色の箱を手のひらの中でくるくる弄ぶことにした。あの日、この場所で、運良くこの世界に置いてけぼりにされたこの箱は、僕の手のひらの中で順調に「潰れた汚いハコ」に育っていた。 「吸うんだ」  その人が言った。僕はブンブンと首を横に振った。その人は薄い唇を横に広げて、「別に怒ったりしないよ」と言った。その表情が笑顔だったということにしばらくしてから気付いた。 「しかもピース。1本ちょうだい」  僕の返事を待たず、その人は「今ちょうど切れたから」と言って僕の手から箱を奪い取り、1本しか入っていないそのタバコを容赦なくつまみ上げてくわえた。僕は抵抗するのも忘れて、その人がタバコに真っ黄色のライターで手品師のように華麗に火を付ける様子を見ていた。ライターをこすった時の、湿り気のある「ジュッ」という音に、なんだかお腹のあたりがむず痒くなるような照れ臭い気持ちになった。  栗原さんは、タバコを吸っていたのだろうか。栗原さんと「喫煙者」という言葉がうまく結びつかなくて、僕は、頭の中で栗原さんをコッテコテのギャルにしてみたり、流行らないスナックのママにしてみたりしていた。僕は栗原さんについて何も知らなかったのだなあ、と思った。僕が知っていることといえば、黒ずんだあの箱と、今この人がただの吸い殻に変えようとしている「ピース」とかいうタバコのことだけだ。 「あなたは、よく来るんですか。ここに」  そう尋ねると、その人は「よく来てた」と答えた。 「友達に会いに来てた。でも最近見なくなったから」  その人はそう言っただけだった。寂しそうでもなく、怒っているようでもなく、不思議がっているようでもなかった。僕はこの口ぶりを知っていた。  学校帰りに栗原さんは当てもなく散歩する。流れる川の音と、揺らめく葉っぱの間からこぼれ落ちる光に誘われて、河原へ降りる。座るのにちょうどいい、大きな石があって、そこに腰掛けて、日々の色々なことに思いを巡らす。あるいは何も考えず、ぼーっとしているだけかもしれない。髪の毛が長くて、色の白い、不思議と見惚れてしまう姿の男が気付けばそこにあって、二人はなんとなく、なんとなく言葉を交わす。会えない日もある。だけど、会える日もある。何がきっかけだったんだろう。「タバコ好きなんですか?」「まあ」「なんていうタバコなんですか?」「平和、だよ。1本残ってるしあげる」  栗原さんにとって、トイレにまで連れて行くほど大事なもの。手に取って、涙を流しながら笑っていた。光の粒になって消えていった。僕はこの世界で一番美しいものをきっと見たのだ。 「だけど、やっぱりスーパーライトは軽いな」  その人が言った。 「スーパーライト?」  突然野球の話を始めたのかと思い、「僕、野球は疎くて」と答えた。 「いや、タバコの話」 「え?」 「これ、ピースのスーパーライト、俺が好きなのはただのライト」  その人は紺色の箱を僕に示しながら、「ここに、super lightsって書いてある。英語、分かるでしょ」と言った。 「やっぱり君、吸わないんだな」  その人はそう言って、また薄い唇を横に広げた。空箱を僕の手に押し付け、赤いマフラーと長い髪を揺らせて河原を去っていった。  
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!