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「彼女じゃなかった。──キース」
そう呼ばれた男は、細く鋭い目を隣の少年にちらりと向ける。
年の頃は40代前半。灰色の瞳に灰色の髪、黒のコート。肌の色さえなければ白黒写真から抜け出して来たような風貌の男は、すぐに少年の見ている先に目を戻した。
車のナンバーを確認する。
「通報だけ……」
少年がぼそりと呟いた言葉に頷き、キースと呼ばれた男は、ポケットから携帯電話を取り出して110番にかける。
その精悍な顔つきに似合わないおどおどした声で、さも慌てふためいたようなぎくしゃくした言葉。眉1つ動かさない顔で、誘拐としか見えなかった先の出来事を報告する。
──車のナンバーだけは見えたんですそれで。ええ。番号は──
少年はその声を聞きながら、赤茶けた瞳で遠ざかるテイルランプを睨み続けていた。
Gパンと大きめのモスグリーンのジャケット。そのポケットに無造作に手を突っ込んだ少年は、見た目は10歳前後に見える。日本人にしては少し色素の薄い茶髪は子供らしく短く刈り込まれているが、手入れが悪くあちこちてんでにはねていた。
もう余韻だけを残して消えたライトは、5mは離れた川の向こう岸にあった。
時刻は夜に入りかけている。薄暗い街灯だけが連なり、川の周りには既に収穫の終わった田が広がる田園風景。
普通ならそんな距離の車のナンバーは読み取れない。だが少年は、キースにはそれが見えたであろうことを疑っている様子はなかった。
電話を終えたらしい長身が振り返る。
「──今夜は」
「いいよまたあの駐車場で」
少年はキースの方を見ないままぶっきらぼうにそう言って歩き出す。
「……ってことは今回も彼女かな」
少年は、ついて来るキースに向けて振り返りもせず言葉を投げる。
「恐らくは」
「ってことはあと2日……」
「そうです」
うんざりした様子でうなじの後ろを撫でつけている少年を、キースはただ無表情に眺めていた。
ぽつぽつとしか家のないその地域の中では、2階建てであってもそれは妙に目立っていた。
一応は金融機関であるらしい白いコンクリートの建物。あまり警備が厳しくないのは、この辺りののんびりした土地柄のせいなのかも知れない。2人は脇にある通路から、申し訳程度に渡されているチェーンを乗り越えて地下駐車場に入った。
交通機関の乏しそうな立地のためか、地上の建物よりもはるかに広い駐車場。Lの字に曲がって奥に続く構造になっている。
2人はまるで来慣れた場所であるかのように迷うことなく奥へ入った。
灯りのない暗闇だった地下の中で、2人だけがぼんやりとした光をまとっている。辛うじて歩くのに支障がない程度の弱い光は、全身からから滲み出しているかのようだった。
打ちっぱなしのコンクリートの壁を少年がちらりと見上げる。何気なく目線を隣に立ったキースに向けると、彼はわずかに頷いてから目を閉じた。
光が強くなる。
灰色の壁にぼんやりと、スライドを投影したかのごとく浮かび上がる雑誌の記事。片隅に書かれた日付は3日後のものだ。
誘拐された挙句に山中で発見されていた少女──何かしらのショックで記憶が曖昧になり、言語障害も残っていたという。その少女の身元、最後の目撃情報。それらの情報を頭に焼き付けるように少年は凝視している。
「リィ?」
呼びかけられて少年は生返事だけを返した。それは名前というにはあまりに短い音。それでも彼がそう呼ばれていることに間違いはない。
少年──リィは、軽く手を挙げる。それを合図に記事は消える。
「疲れたからもう寝る」
リィが溜息とともに言葉を吐き出す。
キースが壁にもたれかかって地面に座った。足を伸ばしたその膝の上に、しごく当然のことのように少年も座り込み、キースの側も何のためらいもなく少年の体を抱きしめた。
その表情さえ見えなければ、一見仲のいい親子に見えなくもない。リィは目を閉じた途端に気絶するかのように眠り込む。それを見守る長身の男の顔には、何の感情も浮かんではいなかった。
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