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1.
木下由紀はその日、朝から嫌な胸騒ぎに悩まされていた。
残念なことに彼女の勘はよく当たる。こんな類の苛々が消えない日には必ず何かが起こる。
問題なのは、その『何か』がとんでもなく大きなことなのか些細なことなのかまでは判断がつかないことだ。お気に入りのストラップが切れた程度のことから、車に轢かれて入院するほどの怪我をすることまで、みんな予感の感触は一緒。
だからこそ、それが来た時はいつも必要以上に警戒してしまう。些細なことで終わってくれればそれに越したことはないのだけれど。
通い慣れた高校から駅までの道を、辺りに気を遣いながら歩いていると、ふと自分を見ている視線に気がついた。
駅から申し訳程度に伸びている小さな商店街。ほとんどフランチャイズ店が並んでいる中で、昔から変わらずに営業している花屋の前。小学生ぐらいの男の子と、由紀と同じ年頃の男の子の2人連れ。小学生の方はGパンにモスグリーンのジャケットを着て、眉をしかめて睨みつけている。高校生の方はまるで白黒写真から抜け出して来たように全身モノトーンで、何の感情もなくぼんやりと視線を投げている。
少なくとも知り合いではない。そう確認出来た後はさっくり無視することにする。
高校生ぐらいの子の方はなかなかの美少年だったけど、こんな胸騒ぎの日に出会う相手であれば運命の恋人とかいう展開にはなりえない。何が危険の元なのか判断出来ない限り、見慣れない物事は避けるべきなのだ。そんな妙な確信でそそくさとその場を離れた──つもりだった。
「無視すんなって」
道の向こう側から、ありえない速さで声が近づいて来た。
『無視』までが少し遠くから。『すんな』からはすぐ目の前で。
咄嗟に何が起きたのか判らない由紀の目の前に、さっきの2人が立っている。何が不満なのか口のヘの字に曲げた小学生と、その隣の無表情な高校生。
小学生の方が片眉を少しだけ上げて由紀の顔を覗き込む。由紀は呆気に取られたまま言葉が出せない。
こんな年なのにかなり綺麗に脱色された短い茶髪に、明るい栗色のカラーコンタクト。元々そういう色かとも思ったが、日本語に不自由な感じはしなかったから日本人だろう。この小学生の親は一体何を考えてこんな子供にそこまでしているのだろう。
ちらりと見上げた高校生の方は、黒というより微妙に青っぽい髪だ。ヘアマニキュアだろうか。長めの髪だが手入れは行き届いているし、とても似合っていた。
瞳も少し青い。少しでもにこりと笑えば女の子が放って置かないだろうと思える綺麗な顔。まるでマンガから抜け出して来たようなクールビューティー。
微笑まれたら一目惚れしそうなぐらい、由紀の好みのタイプではある。
そうちらりと思った途端、そのクールビューティーがにっこりと微笑んだ。
まさに一撃。
自分の意志とは関係なく鼓動がどんどん大きくなる。予想通り物凄くカワイイ。男の子に対してそれは失礼だと判っていても。
「良かったらお茶でも」
声変わりしたて、みたいな声。あろうことかその声までも予想通り、そして理想通り。
「わ、私とですか?」
うわずった由紀の頭の中から、その瞬間、茶髪にカラコンの小学生の存在は完全にフッ飛んでいた。
「ええ、あなたとです」
「あの、ええ、わ、私なんかでいいんでしたら」
「良かったら奢って欲しいんですけど。今、持ち合わせがなくて」
困ったように俯くその顔の微かな憂いですら今の由紀にはたまらない。こんな出会いはマンガかドラマでしかありえないと思っていたのに。幾ら奢らされるのか、その危惧をする暇もなく由紀は頷いてしまっていた。
「──奢るって……」
駅近くの喫茶店の窓際の席。目の前でオムレツを頬張っているのは、そう言えばいたっけ、とだいぶ経ってからその存在を思い出した小学生。
でもお陰で胸騒ぎの正体が判明し、それが怪我だの死ぬだのという大事でなかったことに少々ホッとした。
バイト代が入るまでにはまだ数日あるのに、財布の中がかなり寂しくなってしまった。でもその「投資」も、この出会いで帳尻は合うかななんて由紀は思ってしまったのだけれど。
その肝心の美少年はまた元の無表情に戻っていた。とりあえず一番安いコーヒーを頼んだものの、それに口をつける様子は全くない。
これじゃあ彼にではなく茶髪小学生に奢ったに近い。かなり理不尽だ。
小学生はオムレツを平らげると、いきなり由紀を拝み倒し始めた。
「……なんなのよ……」
「悪い、マジで。こいつで釣られてくれてありがと」
「釣られ……」
餌ですか、この美少年は。
「うんまあそういうこと」
「……は?」
話がつながらない。そう首を傾げた由紀に、小学生はバツが悪そうに笑って見せる。
「こいつ餌だし。おねーさん惚れたでしょ、完全に」
「……」
図星なだけに何も言えない。
「いや、でも、俺が話があるっつっても付き合ってくんないでしょ? だから仕方なくね」
「……私、あんたにナンパされたの?」
理不尽度さらにアップ。由紀は内心泣きたくなって来た。
「ナンパっつーか……」
小学生は、少しだけ天井を見上げて何事か考えていたが、やがて頬杖をついて店内に顔を向ける。
「とりあえず外見ないようなフリして」
「……へ?」
「いいから」
由紀は同じように頬杖をついて店の中の方を見るような体勢になった。
「これでいい?」
「上出来。で目の端っこだけでちらっと外見て欲しいんだなー」
意味あり気ににこにこ笑う小学生は、目だけが笑ってないように見える。
ちらりと見た外にあるのはいつもの風景。2車線の車道、何台かの路上駐車、その向こうに駅舎。
「……白いセダンがいるだろ。窓がマジックミラーで中が見えない」
「うん」
そんなの、特に珍しいものでもないのに。そう思った由紀の耳にとんでもない言葉が滑り込んで来た。
「今朝からずーっと尾けられてる。あんた気づいてないでしょ」
「……嘘……」
「嘘じゃねーって」
由紀の頭の中に浮かんだのは、いくつかのTVニュースだった。
小中学生の女の子が身代金以外の目的で連れ去られる事件が最近多発している。たいていは自力で逃げ出したり近所から通報があったりして無事に戻って来ることが多いが、逆に言えばそんな程度で無事解決に至る程度に稚拙な犯行だということだ。身代金を目的に念入りに準備された誘拐には程遠い、まるで家の庭先から花でも持ち出すように人を車でさらう----。
由紀は確かに、同じ年の子に比べれば小柄で、中学生ですと言い張れば疑われないほどだった。せめてもの自己主張で大人っぽいショートボブを目指してはみたものの、顔つきも幼いせいか、おかっぱが伸びただけみたいで今ひとつ決まらないのが悩みの種だった。
中学生と思われたかも知れないショックに、自分が被害者になりかけていたかも知れないというショックが重なり、由紀は暫く言葉を探せなかった。
「学校居る間は離れてたけど、下校時間見計らったように戻って来た。車の多い道を選んで、あんたが通る道の先で待ち伏せてる感じの走り方をしてる。あの様子だと、何日か前から行動パターン把握するために尾けられてた可能性が高いと思う」
小学生は無邪気に笑っているような表情のままですらすらとそんなことを言い出した。
「つまりあいつらは、誰でもいいんじゃなくてあんたを狙ってるってことだ。しかも、行き当たりばったりな連中とは違い、随分と用意周到。捕まったら、最近の事件みたいにあっさり逃げられるかどうか怪しい」
何故自分が狙われるのか。心当たりはまるでない。用意周到ということは、最近久しいが身代金目当ての本格的誘拐なのだろうか。由紀の家は金持ちでもなんでもないのにどうして。
「まあそんなわけでさ」
小学生は頬杖をやめると、食後にやって来たオレンジジュースをストローでくるくるかき回し始める。
「このまま電車乗って、フツーにいつも降りる駅で降りると、多分あいつらが待ち構えてるような、そんな気がするわけだ」
由紀の家の近くの駅は小さい。街灯もあまり多くなく、駅から少し離れている家までの間はかなり危険だと思われた。
「一駅ずらして降りてタクシー使って、あいつらをまいた方がいいと思う。家族に、ここ3日ばかり尾けられてて何だか怖いとかちらりとでも相談しておきな。そうすればコトが起きた時に少しでも早く動ける」
「……怖いこと言わないでよ……そんなことあるはず……」
由紀も手をテーブルの上に下ろした。自然と握り締められた拳が震えているのが自分でも判る。
「別に俺を信じろとは言ってねーし」
少年は軽く肩をすくめてから、おいしそうにジュースを啜り始める。
「尾けられてるのはあんたってことはないの?」
まだ信じたくない一心から、そんな言葉が口から出る。
「……疑うなら俺たち出てってみる? 駅の北口改札で待ってるから、しばらくあの車の動き探ってから来てよ」
小学生は、ただ満腹した子供にしか見えない笑顔で由紀に微笑んで見せる。
由紀は小さく頷いた。
──20分後。
さすがに由紀も認めざるをえなくなって来た。
彼らが出て行ってから、何人もがこの喫茶店を出入りしているが、あの車が動く気配はまるでない。
この状況からすると、自分を待っているのだとしか思えない。
携帯をいじるフリを続けるのも限界に来ていた。じわじわと沸き上がって来る怖さが止められない。
由紀は荷物を手にするとそのテーブルを後にする。支払を終えてドアから出る。
気にしないフリをしながら駅舎に入って行くと、例の車は妙にゆっくりした動きで走り出した。
その方向は、由紀の自宅がある駅と同じ。ただの偶然と自分に言い聞かせようとしても、一度芽生えてしまった疑惑はどうしても消せなかった。
あのまま由紀の降りる駅で張るつもりか。そしてそこで「決行」されるのか。
北口改札まで歩くうちに、全身から湧き出した震えが止まらなくなってしまった。
「──信じる気になったっぽいね」
改札口近くの柱に寄りかかっていた小学生が、子供らしからぬ緊張感を漂わせて由紀に近づいて来た。
何故よりによって今日なんだろう。消えかけていた悪い予感が再び胸の内に湧き上がって来る。
「だから、駅ずらして降りてタクシーで……」
「そんなお金、もうない……」
由紀は消え入りそうな声で呟いた。届くとは思っていなかったのに、小学生は言葉を止めて由紀を見上げて来た。
「オムレツのせい?」
「……うん」
ただでさえバイトの給料日前だというのに。言外にだが非難のニュアンスを感じたのか、小学生はバツが悪そうに目を逸らす。
そしていきなり。
「……責任取るか、しゃーない」
そう言って頷いた。
「は?」
「俺が送る」
自信たっぷりに胸を張られても。
「……ギャグ?」
「いや冗談抜きで」
今にも笑い出しそうに由紀の唇の端が引きつった。小学生はまるでひるむ様子もなくにやりと笑ってみせる。
「ま、騙されたと思って電車賃奢ってくんない?」
「……いや、見ず知らずの小学生にそれはちょっとヤバいって。こっちが誘拐扱いされるし」
半ば笑いながら由紀が手を振って見せると、小学生は背伸びして由紀に顔を近づけて来た。そして。
「──今日、親が家にいないんじゃなかったっけ?」
由紀の心に引っかかっていたことを簡単にえぐり出して来た。
「……なんで知ってるの……」
見かけの年齢より数段大人びた皮肉な笑顔。
「……いいから黙って送られてくんないかな。俺、そのためにかなり遠くからここまで来たんだけど」
由紀の親は──正確には親代わりをしてくれている叔母は、今朝出発して旅に出ている。これから3日間は、由紀は独り暮らしだった。だからこそ、何か事件に巻き込まれるならせめて3日後にして欲しかったのだが、誘拐犯が待ってくれるはずはない訳で。
何かを見通したような大人びた小学生。電車の中でその横顔を見ながら、由紀は小さい頃に数度だけ会ったことのある従弟を思い出していた。彼もまた、年の割に不思議と大人びた口を利く子供だったが、それは彼が大病を患っていたせいだと由紀は何処かで思い込んでいた。
幻のように儚く逝ってしまった従弟は、小さかった由紀にとっては天使のような存在だった。本当に何度かしか会ったことがなかったのに、そのたびに由紀が悩んでいることを見透かして、的確なアドバイスをしてくれた。
その従弟の母親が、今の由紀の親代わりだ。彼女は子供を失い、由紀は事故で親を失った。他に親戚のいない由紀を引き取った時、叔母は「またこれで誰かのためにご飯が作れるのね」と寂しげな微笑を浮かべていた。
「……名前、なんていうの?」
由紀の声に、窓の外を睨んでいた小学生が顔を向けて来た。
……かと思うと、何かを必死に思い出そうとするように眉をしかめて悩み始めた。
「……あ、あの」
「あんたならなんて名前をつける?」
「へ?」
まるで予想外の展開。
「ぱっと、第一印象で」
「……そういう問題じゃないと思うんだけど……」
「いいから」
変なことを言う少年だ。でもその時には既に由紀の中に一つの名前が浮かんでいた。
「──優(すぐる)」
天使になった従弟の名前。
一瞬驚いたように目を瞬かせた少年を見て、由紀の中に不思議な懐かしさが沸いた。
そんなことがまさかありえる訳がないと思いながら、もしかしてこの少年はあの従弟の生まれ変わりか何かだろうかなどと思ってしまったのだ。
「どういう字書くの?」
「優しい、って」
「……ああ」
少年はくすくす笑った。
「似合わねー」
「……そうね」
目の前のこの少年の見た目には確かに似合わない。それでも、何故かあまり後悔はしなかった。
「まあ、悪くないかもね」
笑ったまま小学生は窓の外に目を戻した。
「──本名は教えてくれないわけね……」
「いいじゃん優で。そう呼んでよ。どうせ短い付き合いだし」
確かにそうだ。「送る」間だけなのだし。
「そういえば、あの人はどうしちゃったの?」
由紀もまた窓の外をぼんやりと目で追いながら尋ねる。
「あの人って……餌?」
一瞬がっくり来ながらも
「そう、餌……」
他に呼び方が見つからないので、とりあえず。
「あれは餌だって。今んトコ必要ないから」
小学生──優は事もなげに言い切った。
まるでモノであるかのようだ。あまりに謎めき過ぎているが、それ以上質問しても答えてくれそうになかったので、由紀は黙って電車に揺られることにした。
定期券の関係もあり、いつもの駅の一つ手前で二人は電車を降りる。
その駅の近くには大きなショッピングセンターがあり、時々買い物に来ていたため、由紀はこの辺りでも土地勘は少しあった。
降りた途端に優はまず、例の車がいないかどうかを確認する。大丈夫と判ると、近くに公園がないかと由紀に訊いて来た。
ショッピングセンターの裏手に小さな公園があることを伝えると、二人でそこに向かう。
既に暗くなった公園には人気がない。ブランコと滑り台と砂場がおざなりに並んでいるだけ。街灯も薄暗く、昼間子供が遊ぶにはいい場所かも知れないが、今の時間帯では少し怖い雰囲気だ。
優は公園の隅に立って空を見上げている。何分かすると、空に小さな影がよぎる。カラスだろうか、と由紀が思った瞬間、優の小さいながらも鋭い声が響いた。
「ニーナ」
まるで名前のようなその単語に、空の影が反応する。カラスがホバリングしているところなんて由紀は初めて見たが、優は特に驚いていない。
「仲間を連れておいで。一羽でいいよ」
その言葉とともに、カラスは元来た方向へと飛び去って行く。
……その光景はまるで。
「カラスと……知り合いなの?」
薄明かりの中で優が呆れたように瞬いた。
「そんなわけないだろ。変なこと言うなあ」
「いや、だって話してた……」
「あ、来た」
由紀の疑問は羽音でぶった切られた。カラスが2羽、優のすぐ近くに舞い降りて来る。
一羽は優を伺うように見上げている。もう一羽は降りはしたもののすたすたと歩き出し、また羽を広げて飛び上がろうとするかに見えた----瞬間に、
「ゾイ」
優にそう呼びかけられて、足が止まった。
由紀は言葉を失っていた。目の前で起きていることにうまく説明がつけられない。名前らしきモノを呼びかけることでカラスを操っているようにしか見えないのに。
今や、二羽のカラスは大人しく並んで優を見上げている。その様子は可愛らしいペットのように見えなくもない。
「もしかして、飼ってる?」
「カラスはそういう意味で人慣れはしないだろ」
そう言いながらも優はしゃがみ込んで二羽の背中を撫でている。
「いや、その状態は飼ってるって言わないの?」
「言わないだろ、餌やってる訳じゃないし。──ヨクザ」
優が呟いた言葉は今度は意味不明だった。そして、それによって引き起こされた現実はもっと意味不明だった。
音も光もなく、いきなり別のフィルムをつないだようにそのカラスがいなくなった。そこに現れたのは巨大な鳥。全身真っ黒なそれはよく見れば拡大されたカラスだ。
慌てて周りを見回してみるが、由紀の体が縮んだ訳ではないらしい。
「な……」
思わず後ずさりした由紀を、優が手招きしている。
「乗せてくれるってさ」
「はぁ!?」
「乗って。大丈夫だから」
さっきまでゾイと呼ばれていた巨大カラスが、すとんと尾を落として由紀に背を向ける。
「……こんなの、冗談だって言って欲しい……」
「早くしろって。あいつらが来る前に」
優は既に元・ニーナの背中にまたがっている。
由紀は恐る恐るカラスの背に乗った。友達に誘われて一度だけやったことがある乗馬が、まさかこんな時に役に立つとは思わなかった、と内心で独りごちながら。
空の旅は思ったより快適だった。地を走る馬よりもむしろ、縦揺れがないだけ穏やかにも思える。ただ、由紀にはカラスという生き物が人を乗せ慣れているとはどうしても思えない。
これは果たして現実なんだろうか?
叔母の家の小さな庭に降りてからも暫く、由紀には実感が沸かなかった。
続いて降りて来た優は、二羽のカラスを招き寄せ、首を叩いて労りの言葉をかけているようだ。まるでファンタジー小説か何かに紛れ込んだような光景。
優は二羽に向けて何かを呟く。
するとまた、ぶつりとフィルムが途切れるように唐突に巨鳥の姿が消えて、そこにカラスが現れる。
じっと何かを待つように優を見つめている2羽に、優がまた何かを話しかけると、突然糸が切れたようにカラス達は飛び立った。
「……あの……優、くん」
「あ?」
「……説明……してもらう訳には行かない?」
「何を?」
優は素で不思議そうに首を傾げて見せる。
「いや、普通、カラスは人を乗せないと思うんだけど……」
「あれカラスじゃないって。ヨクザ。体はカラスを借りたけど」
「……」
説明する気がないというより、優にとっては当たり前過ぎることだから説明しなきゃならないとは思ってないように見える。昔の人に携帯電話やMDプレイヤーの説明をしなきゃならなくなったら自分もこんな風かも知れないと由紀は思った。
「家入れって。折角あいつらを撒けたんだし」
ひらひらと手を振って優も玄関の方に回り込む。由紀も後に続く。
──しかし何なんだろうさっきのは。こんなもやもやを抱えたままでいるのは気持ちが悪過ぎる。
「ねえ」
「何だよ」
「上がってってよ。お茶でも入れるから」
「は?」
玄関先から塀の外へ出ようとしていた優は、片眉を上げて由紀を睨んだ。
「……俺さ、オムレツから電車代からあんたにたかってるよーなヤツなんだけど」
「いや、でも、送ってもらったし」
「こんなの」と優は自分の鼻先を指差して「家に入れたらなんか盗まれると思わないわけ?」
正常な防犯意識があればそうかも知れない。でも。
「あなたはそんなことしない」
由紀がそう言い切ると、優は言葉に打たれたように息をつめた。
それは例の予感と同じ類の直感。彼に優の名を与えたその瞬間から、何故か奇妙な親近感をこの少年に対して感じている。
それに何より、今はこの家に一人だから、誰かがいてくれた方が由紀も心強いのだ。どういう原理なのかは知らないが、彼には科学で説明のつかない『力』を持っているようだし。
「……上がって行かない理由があるなら無理強いはしないけど」
「……ったく……」
困ったように頭を掻き上げる姿は、一瞬、子供には見えなかった。
「……怖いね、無意識の『血』ってやつは」
恐らく由紀に話しかけたつもりはないのだろう。でもその言葉は不思議に強く由紀の中に落ちて来た。
誰もいないリビングに優を通して、ファンヒーターに火を点し、温かなココアを入れる。小さく鳴らしたFMラジオをBGMに選ぶ。
由紀には弟もいなければ、親戚に優と同世代の子供もいない。どう接すればいいのか少々の戸惑いを隠せないまま、ダイニングテーブルを挟んで座ってみる。
「……あのさ」
先に口を開いたのは彼の方だった。
「ん?」
「もう一人、多分、来ちゃうと思うんだけど」
「……へ?」
ココアのカップに手をかけたまま、少年はドアの方を気にしていた。
「俺がここにいると、来ちゃうと思うんだけど、そいつも入れてやってくれる?」
「……誰が?」
由紀にすればごく当たり前のことを訊いたつもりだった。
「キース」
少年もまた当たり前に答える。今度は即答だった。
「……その人には名前があるんだ」
電車の中での会話から、その人の名付け親にもならなきゃならないのかと、由紀はほんの少しだけ疑っていたのだ。
優はその言葉の意味を一瞬掴みかねたように首を傾げてから、
「ああ……うん、そうだね」
こくんと頷いてみせて、
「名前っていうか、シュだから」
にこやかにそう付け加えてくれた。
……まるで意味不明。でも相変わらず、説明して貰える余地のなさそうな顔をしている。
それから急に思いついたように少年は小さな声を上げた。
「あ」
「何?」
「キースが来たらちょっと部屋借りていい?」
「部屋?」
「どっか、壁が白い所がいいな。白くなくても、色が薄くて無地なトコならいいんだけど」
ふと瞳が真剣になる。カップを囲んでいた手のひらにも少しだけ力が入っている。
「……いいけど」
出かけている叔母が普段使っている一階寝室の壁は白だ。由紀は、リビングからも見えるその部屋の引き戸を開けて見せた。「ここでどう?」
少年は、僅かに伸び上がって部屋を覗き込むと、にっと笑って見せた。「上出来!」
それらしき男が家に来たのはそれから二十分ほど後だった。
晩秋の夜の気温はかなり低いはずなのだが、ドアの外に立つ彼は寒さをあまり感じていないかのように平然としている。
微妙なデジャヴが由紀を襲った。『餌』と呼ばれていたあの少年も、人間らしい感情をまるで持たず、人形のようだったことを思い出す。
それに服装も──。モノクロ映画から抜け出して来たかのように全身黒づくめ。
ただ、彼は優の父親と言われてもおかしくない年齢に見えた。鈍い銀色の髪に細い目。わずかに見える瞳孔も深くはあるけれどやはりグレイ。中肉中背を地で行く体格は特に目立つ感じはしない。
「キース」
ずっと突っ立っていた男が、その言葉にだけ反応する。
「来い。情報を整理しないと」
無言のまま、由紀の存在ごと無視するように優の後をついて中へ。
「……挨拶もなしですか……」
些か憮然としながらも、戸締りを確認してリビングに戻る。
優は、キースが来てからすぐに叔母の寝室に入った。ドアは閉められたまま出て来ない。
何をしているのかと気になって耳を澄ましてみても、由紀の耳は何も捉えられなかった。
小さな溜息とともにココアに戻る。FMラジオはDJが何かを喋っているが、内容を聞き取れるほどのボリュームではない。
ふと見上げた時計にやっと腰を上げる。自分が何に巻き込まれていようとも、学校に行かなければならない生活は変わらないことを思い出したのだ。
リビングから出て玄関に向かう途中のバスルームに行ってボタン一つ。軽やかな音と共に、最近リフォームしたばかりの全自動給湯器が勝手に動き出すのを確認してから再びリビングへ。
「……お風呂、どうする?」
一応確認しようと声をかけるが、返事はない。
「……ねえ、聞いてる?」
しばらく反応を待ってみるが、相変わらず静かなまま。
「……もしかして、寝てる?」
ほんの少しのためらいが、自然に声を落とさせた。そっとドアに手をかけて滑らせる。
鍵がある訳ではない扉は滑らかに開く。その向こうにあったのは真っ暗な闇。
「……なんでこんなに暗くして、」
言いかけて由紀は声を止めた。
部屋には誰もいなかった。カーテンと窓がほんの少し開いている。
すっと頭から血の気が引く思いがして、慌てて電気を点ける。
ざっと部屋を見回しても、荒らされた様子はない。タンスの引き出しをいくつか開けたり閉めたりするが、物がなくなっている気配はない。
空き巣が狙うような貴重品は、元々この部屋には置いていない。何かのテレビ番組の受け売りで、子供部屋----つまり今は由紀の部屋に隠しておくのが叔母の主義なのだ。
ただ。何も音がしなかった。
この部屋から何かを探そうとしていたなら、無音のままでいるのは無理だ。それに部屋中を探し回るほどには長い時間が経ってもいない。
----彼らはこの部屋から出て行った。由紀には何も告げずに。
「……なんなの?……」
窓を閉める前に外を覗く。叔母の部屋は道路に面している。
真っ黒に伸びた道の先には、彼らの姿はもう見つけられなかった。
※
「……キース」
優──リィとも呼ばれるその少年は、少し苛立ち気味に眉をひそめながら、それでも早足で駅に向かっていた。
その後ろで、音もなく光もなく、ぶつりと空間を断ち切るように「出現」したのは、モノトーンで全身を包んだ灰色の男。
「……なんっか嫌な予感がする。この現実って、ひょっとして俺が動けば動くほど彼女の『可能性』を強めてないか?」
リィは男の方を振り向きもせずに言葉だけを投げた。
キースと呼ばれたそれは、何も答えないまま黙ってリィの後に続いている。
「……ったく」
交差点で立ち止まる。赤の点滅を繰り返す信号の向こうに、小さな駅とタクシープールが見える。
「……じゃあ、俺以外に『介入』してるヤツは」
「います」
即答で戻って来た言葉に、リィは初めてキースを振り返った。
「そいつら、既に彼女を見つけてるのか」
「はい」
「……早ぇよ。早過ぎだよ! 何なんだよもう!」
住宅街の真ん中であることに遠慮しているのか、リィの声は大きくはない。それでも、彼は抑え切れない怒りをぶつけるようにそばの電柱を殴りつける。
「……ダメだ。もうこの『現実』も捨てるしかないのか? 何っ回も潜っても結局何もひっくり返せない……」
「412回、ですね」
無感情なキースの言葉。ふと何かに思い当たったようにリィは頭を上げて信号機を睨みつける。
「彼女がまるで俺を警戒してないのはそのせいなのかな」
キースの答えはない。
リィはちらりとだけキースに目をやってから、再び駅に向かって歩き出す。口の中で「クソデータベースっ」と誰にともなく呟きながら。
リィの頭の中で、録画されたように繰り返されている光景がある。
小さな駅。小さなタクシープール。そこに、本線を一応避けるようにではあるが、白のセダンが停まっている。窓はマジックミラー。
その窓がゆっくりと開く。中にいるのが男か女か、若いのか年配なのか、それは見てみないと判らない。
今、一人で駅に立つリィの目の前でその光景が再生されている。窓から覗いた顔は、ほんの少し怯えたような無精ひげの若い男。
リィが見ていることには気付いていない。男はまた窓を閉めて車の中に立てこもる。
──何故この瞬間に敢えて窓を開けるのか。それは多分、リィに対する宣戦布告なのだ。何度目かにここにやって来た時から、連綿と続く儀式になりつつある。
向こうは複数、リィは独り。最初から不利だったはずの対抗は、それでも簡単に諦める訳には行かなかった。
それが自分の生まれた理由だから。
目を閉じて、白の部屋を思い出す。深呼吸する。タクシープールの中で車がゆっくり動き出す。無精ひげの男は自分が何に操られているか判らないままに車を駆る。ただひどく陰惨な衝動に突き動かされた変質者という仮面を被らされて。
「──翔!」
低く叫んだリィの体は、突然現れた手にさらわれる。がっしりした男はリィを抱えて跳躍する──ヒトではありえない高みへ。
低いオフィスビルの壁や屋根を踏み台にして、でも決して音を立てることなく、器用に人目を避けながら、白のセダンのテイルランプを確実に追いかける。
まばらになったビルもやがてなくなり、風景は低い屋根の連なる住宅街へ。その天井に、ネコが歩いた程度の足音だけを点々と残しながら、翔と呼ばれた男は跳び続ける。
抱えられているリィはなるべく体の力を抜こうとする。翔が動くことだけに全神経を集中していられるように。
──やがて光景は、建物の姿すら散り始めて田園地帯に姿を変える。リィの記憶にある地図の一点。そこはここ300回ほどリィが最後に訪れた「現場」となっている山林に続く道。
遮る信号もなくなった直線道路が真っ直ぐに黒い山肌に向かって伸びている。翔は人の視線を憚る必要性がないと判断したのか、地に降りる。ヒトにあらざる歩幅で走り出すその速度は、先行する白い車とほぼ変わらない。
「……罠、なのか?」
リィの囁きは風に飛ばされる。元々誰の耳にも届けようとはしていないけれど。
車はウィンカーも出さずに左折して山を登り始める。翔も忠実にそれを追う。その一瞬だけスピードの緩んだ狭間に、リィと翔の目が同時にそれを捉える。
「……ちっ」
小さな舌打ち。空気ごと捻じ曲げるように道を逸れて林の中に紛れる。その木の葉のざわめきと風圧を、フィルムを巻き戻すように全てかき消す。そして翔の姿は消える。
「キース」
リィはほとんど寝そべるように地に伏したまま、口の形だけで呟く。同じように伏せた姿勢でキースが現れる。
二人の目の前の道路を、紺色の軽自動車がのろのろと走っている。その走り方は、通るためではない……何かを、探している。
「……誰だ?」
同じく声は出さないままのリィの言葉に、それでもキースは反応する。低く抑えた声は、リィだけに届ける、という絶妙の距離感を持っていた。
「雑誌記者、ですね」
「ああ……」返事というよりは溜息だった。「どっから追われてた」
「最初から狙ってここに現れた、という意図が見えます」
「……ウソだろ……」
紺の軽は少しリィ達を過ぎた時点で完全に停止した。
ドアの開く音。人が降りる音。続いて細く鋭い光が----懐中電灯が林の中を舐め始める。
リィはキースを消す。そして息を潜める。自分の体も消してしまえたら楽だとは思うが、この『現実』の物理法則に縛られている間はそこまでのことは出来ない。
光は、しばらく辺りを探っていたが、やがて唐突に消えた。
足音はゆっくりと車に戻る。扉を開ける音は鈍く重い響く。しばらく車は動かないまま。じっと闇の中を探るような視線だけをわずかに感じる。
ほんの十数分だった。だがリィにはそれすらも長過ぎた。軽がやっと去ったその後に、仰向けに姿勢を変えたリィは大きな溜息をついていた。
「……コトが起こる前にケリつけられると思ったんだけどなあ……」
白の車。そこに乗せられて、やがて『犯人』に仕立て上げられるはずの哀れな男。どんな手を使ってでも、事前に彼の目を覚まさせることが出来れば、何かが変わったかも知れない──。
枯葉を揺らすこともなく現れた翔が、手を伸ばしてリィを引き上げて立たせる。どうするのか、と問うような目線を見上げると、リィは何処か自虐的な薄笑いでそれに答えた。
「とりあえず、女神さまの所に戻るよ……もう時間もないしね」
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