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 須藤尚也の携帯が鳴り出したのはアパートに辿り着く直前だった。ちらりと開いて確認した着信が、年の離れた姉の歩美だったので、部屋に入ってドアが閉まってもそのまま鳴るに任せておく。電気を点けてファンヒーターのスイッチを入れてから、尚也はやっと電話を取った。 「尚也」  姉の声は電話越しでも判るくらいに震えている。明らかに、何か悪い知らせを運んでいる。 「ナミ、そっちに行ってない?」  尚也はベッドサイドの目覚し時計を手にした。23時。中学1年生の姪が出歩くには少々遅過ぎる。 「来てない」  僅かな沈黙の後に聞こえて来たのは、ノイズ混じりのすすり泣きだった。 「……早く通報しな。連絡が何もないとしても、最近は」 「友達の家かも知れない。何処かで遊んでるだけかも知れない、単に連絡を忘れて、」 「110番して。杞憂に終わったとしても、通報を受けるのが彼らの仕事なんだから」  姉は電話を切ろうとしない。ただ何かに縋りたいかのように。泣き声が少しずつ大きくなる。 「……切るよ。早くかけな」 「尚也、」  悲鳴に近い言葉を断ち切る。  携帯の画面を見下ろしている尚也の耳に、ボッ、とファンヒーターの灯る音が入る。  晩秋から初冬に入るこの季節にしては今日は寒い。ぼんやりとそんなことを考えながらふらふらとヒーターの前に立つ。  尚也にとっては姪と言うより妹と言う方がしっくり来る。身内びいきと言われるだろうが、尚也から見てもナミは大人しく清楚な少女に見えた。実態は、ショッピング好きのごく普通の少女だったけれど。  かつて雑誌社でサラリーマン記者をしていた尚也にとって、この所全国で続発している誘拐事件についての情報は、職業柄も個人的にも気になるネタの1つだった。姪は、ちょうど狙われている年頃である上に、誘拐の被害者になり易い見た目だったせいだ。大人しくて抵抗しなさそうで小柄な少女。  尚也の頭の半分には、やっぱり来たのか、というショックがある。でももう半分は別のショックが占めている。  ──ナミの誘拐は、ある奇妙な男によって既に予告されていたのだ。  その男の言葉を思い出そうとする。半ば彼の正気を疑いながら、それでも彼の言葉を真剣に聞こうとしていた当時の自分が不思議だと思う。だが。  こうなってしまったからには、彼の頼みを軽視する訳には行かないのかも知れない。  携帯を閉じて、もう片方の手で机に置かれたノートパソコンのディスプレイを開こうとした時、再び携帯電話に着信が入った。  鳴り出したその音にびくりとする。この音を聞く機会が本当に訪れるとは。──ただ、訪れるかも知れない、と予感があればこそ、特定者着信の設定をしたのだけれど。  でも。  ぱたんと開かれた携帯はまだ鳴っている。ディスプレイされている番号は、どう見ても普通では考えられない----0が11桁。  通話ボタンを押す。だが耳には当てない。それでも、この番号の主と話をすることは出来るからだ。 『──あれ。覚えてたんだ』  ふざけたような若い男の声。声は低めだけど奇妙なはしゃぎ方をしている。その音の感触は確かに、携帯電話を通じて聞こえて来るトーンに似ている、低音部が極端にカットされたノイズ混じりの音。 『じゃあさ、会おうよ。約束だし』  でもそれは耳から聞こえて来るものではない。それが判っていても、怖いとか不気味だとか、そんな気持ちはあまり沸いて来ない。 『都合はつくよね。仕事辞めちゃってるし』  それを何と呼べばいいのか、尚也には判らない。もちろん当てはまる言葉なんていくらでも思いつくけど、そんなことが現実にあるなんて思いたくない。 『じゃあさ、』 「悪いけど」  男の言葉を断ち切る。それまで上機嫌だった電話の向こうが一瞬で冷めるのが判る──まるで、そばにいて顔色を見ているかのように、判る。 『乗ってくんないのかぁ』 「姉の家に行っときたい。連絡受けた以上、ここで何もしないで放置って訳にも行かないだろ。一応身内なんだし」 『時間ないんだけどなあ』 「……本当にナミは無関係なのか?」 『無関係だよ。明日には解放されるし。どっちかっつーと、その後で話を聞きに行った方が、ジャーナリストとしてはオイシイと思うけど』 「ジャーナリストとしては、ここで犯人捕まえてヒーローになるってのもオイシイんじゃないの?」 『あー……そりゃ無理』 「なんで」 『あいつらから本体はもう抜け出してるし。そりゃニホンのケーサツ的には、その行動してた肉体の方だけ捕まえりゃいいのかも知れないけど、でも、俺が尚也に頼んでるのはそんなことじゃないのは知ってんでしょ、うっすらと』 「……」  現実にあるなんて思いたくない。でも、尚也の頭の中で動き出したシミュレイションは、明らかにそれを指している。  多分、もう何度か、尚也はこの男と行動を共にしているのだ。どういう仕組みか判らないが。今の自分の記憶には全くないことだけれど。でも、明らかにこんなの異常事態だとしか思えないのに、それでもこんな風に----誰もいない部屋の中で、携帯電話を手に持ったまま、ハンズフリーマイクもなしでぼんやりと会話していることに抵抗を感じない。 『迎えに行くよ。明日3時でどう?』 「家、知ってるのか」  疑問符はつけなかった。何故かイエス以外の答えを予想出来なかった。 『当然』  予想通りの答えが帰って来た。  ※  ノートパソコンとPDAを接続する。昨夜寝る前に書いたテキストを転送する。  その男と初めて会話した時のことを、思い出しながら打ったそれを、PDAの画面の中でスクロールする。  細かい日付や時刻まではもう覚えていなかった。多分3日かそのくらい前。昨夜と同じく0が11桁で着信した番号を、ロクに見もせずに通話したのがそもそもの始まりだった。  当時の尚也は(当時だけでなく今もなのだが)求職中で、失業保険の世話になりながら仕事を探してあちこちの会社に電話をかけていた。だから、アドレス帳にない番号から着信することもしょっちゅうだったので、誰からなのかをいちいち確認しないのがクセになっていたのだ。  その着信もこの数日はまばらになっていた。アパートのこの部屋で、小さなちゃぶ台の上で求人情報誌をめくりながら、世の中の雇用環境の厳しさにうんざりしかけていた時だった。 『須藤尚也さん?』  名指しで問いかけて来た電話は、だからそんな会社のうちどれかなのだと思っていた。その後に出て来たセリフもまた、そう思わせるに相応しい言葉だった。 『……ちょっと仕事を頼まれてくれない? 超短期なんだけど』  ただ、口調がどうも馴れ馴れし過ぎた。業界によってはこんなもんなのかも知れないと思いはしたが。  相手は、尚也が元々出版社でものを書いていた人間だということを知っていた。その上で超短期で頼みたい仕事があると言うのだから、当然、元の出版社かその取引先などの関係者が、ものを書く人間を緊急に探しているのだと、そう考えるとまるっきり腑に落ちた──その馴れ馴れしさも含めて。 「今のところ体は空いてますけど、どんな内容なんです?」  話しながら尚也は立ち上がり、机の隅っこにいつも置いてあるメモ用紙とボールペンをつかんでちゃぶ台に戻って来た。右利きなので携帯電話を左に持ち替え、ボールペンを手にしようとしたその時に、うっかり携帯を落としてしまう。  ごとりと大きな音がしたはずだった。だから慌てて謝ろうとして電話に手を伸ばしかけた時、それに気付いた。 『ルポを書いて欲しいんだよね、これから起こることについて』  電話を耳に当てていなくても、相手の声のボリュームに変化がなかったのだ。 「……はい?」  何が起きたのか判らなかった。話の内容にまで気を回す余裕もなかった。それがおかしなことだということに気付くより先に、証明するように追い討ちで言葉が飛び込んで来る。 『ただ発表媒体はインターネット。別にかっちりした固定コンテンツ作らなくてもいいよ。ブログで構わない』 「ちょっ……え?」  その光景を外から見れば、ただ単に、悄然とした顔をした男が床に座り込んで独り言を呟いているようにしか見えなかった。 『……ああ、なんだ……もしかして』  相手の声は急に一段と低くなった。 『もう小細工しなくても平気?』  その声は電話という装置を経由していなかった。周波数は電話経由であるかのようにしか聞こえなかったのに。 『──まあいいや』  一瞬だけ鼻で笑ったような声になる。 『とにかく、ルポを書いて欲しい。ただ、それがルポであるということは一部の人間達にしか伝わらないと思うけどね。だから、表向きはどうとでも誤解されるような置き方で平気なんだ。それが一番似合うのはネット、しかもブログかな、とは思うけど。小説とでも妄想とでも、どう捉えられても構わないから』 「なんの……ルポ?」 『誘拐。尚也もまんざら無関係とは言えないよ。今回は被害者リストに朝倉ナミも含まれてるし』  その名前は、現実感を失いかけていた尚也の頭を瞬時に現実に引き戻した。それが役に立たないと気付いていたはずなのに、思わず電話を取り上げて耳に押し当てる。 「今なんてった……ナミが誘拐される!?」 『そう。ただ、ナミは本命ではないからすぐに解放されるけど』 「本命……?」 『まあ、その辺の話は、受ける気があるなら会って話すよ』  どう答えればいいのか判らなかった。そもそも、こんな不気味な形で入った仕事を本気にする必要すらなかったはずだった。だが、何故か尚也は真剣に考えた。引き受けるべきか、辞退するべきかを。  その沈黙を相手は何故か肯定と取った。相手にとっては、この電話に対してここまできちんと対話したことが既に肯定だったのかも知れない。 『じゃあまた電話するから』  ぷつりと切れた後、ゆっくりと耳から電話機を離して行く。通話終了のプーッ、プーッという音は、電話機と一緒に確かに耳から離れて行く。  それなのに、あの声だけは。  ──そして気付いたのだ。着信履歴に残る番号が、0の11桁という、どう考えてもありえない番号であることに。  その後の尚也の行動も、普通から見れば異常なことだったと思う。  0の11桁に対して特定者着信音を設定する。また電話するというその言葉を何故信じているのか、自分でも判らないまま。  フリーのブログサイトにアカウントを取り、ブログを立ち上げる。「テスト」とだけ書かれた素っ気無い記事を試しに公開して、すぐに削除する。  何をしているんだろう。頭の片隅でそう思いながら、そうしないではいられない何かが、頭から離れてくれなかったのだ。  PDAからネットに接続し、自分の立ち上げたブログにアクセスする。まだ何も書かれていないブログのタイトルは「C.F.A.W.」とだけ書かれている。  その意味不明な言葉の羅列は、もしかしたら現れるかも知れない読者にさえ、その意味を伝えるつもりがないままに置かれる──そんな風にしたつもりだった。  トラックバックもコメントも解放している。でも多分、誰からもそれが利用されることはないだろうと思う。尚也自身にさえ、それを誰に伝えたいのか判らない。そして、そんな尚也の閉じた意欲は、多分電話の相手も同じだろうと何となく思っていた。  誰かに何かを伝える、そんな明確な意思がないままに書かれ開かれているテキスト。それは確かに、開かれながら閉じている──個人ブログという媒体に一番相応しいのかも知れなかった。  ※  呼び鈴が鳴った。何処か接触が悪くて寸詰まりな音は確かに尚也の部屋のものだ。  PDAと携帯と、それらを接続するためのCFカードと。その3点を一番最後にカバンに押し込むと、肩からそれを引っ掛けて玄関に出る。  外に向けて安普請の木の扉を開く。眩しいくらいの日差しは、久々の秋晴れと言うのが一番似つかわしかった。  数瞬、逆光に目が慣れるまで、その前にいた人物の顔は見えなかった。中肉中背。輪郭から徐々に見えて来たその姿は男。髪はかなりきつく脱色されていて赤っぽく、手櫛で無造作に整えたようなウェイブがかかっていた。少しタレ気味の目は笑っている。年の頃は20代前半──尚也より少し年下、といったところか。B5サイズがギリギリ入る程度の、小さめのショルダーバックを提げている。 「時間通りだよね」  ホストか何かやったら似合いそうな優男だった。男にしては少し小柄な方だろう。髪の色をそのまま濃くしたような茶色っぽいジャケットにGパン。  リアルに聞いたその声は、確かにあの電話の主に間違いはない。声の調子に含まれている妙に浮ついた感じもそのままだ。 「……何処連れてく気だ?」 「まあ、とりあえずお茶でも」  この男にそう言われると、男であるはずの尚也までが口説かれているみたいな気分になる──必要以上に人当たりが良過ぎる。  浮いている。この世界から。  それは直感というよりある種の記憶のような気すら、尚也にはしていた。  男はルゥと名乗った。多分、普通一般で言うところでは名乗ったのだと思われた。そう呼んで欲しいと言ったからだ。 「ただまあ、これは名前じゃないんだけどね。ある種のラベルみたいなもの」  名前とは元々、人につけられたラベルではないんだろうか。尚也はそう思ったけれど口に出さないまま、ルゥというラベルの男について行く。  アパートを出て20分ほど。小さな住宅街の中に建つ古い駅舎と、それに平行に寄り添うように走る国道。両脇にぽつぽつと開いている個人営業の小さな店。そんなささやかな駅前通りの中に、1軒だけコンビニが建っている。店の隅に数人分のイートイン・スペースがある。  ルゥはそのコンビニに入って、座っているようにと尚也に告げると、ホットコーヒーを2つ手にして自分も席についた。 「……まずはデータからね」  ルゥは青のナイロン素材のショルダーバックを開けた。小さめのクリアファイルが出て来る。開いて尚也の方に押しやって来る。  挟まれているのは新聞記事。尚也も見たことがある。連発する少女誘拐事件を報道するその記事は大手全国紙のものだ。  ページをめくる。あちこちで起きている誘拐事件。小学生高学年から高校生までの女の子ばかり。  ──ただ。 「この一連の事件が同一犯だと思ってるメディアは、まだない」  きっぱりと言い切るルゥの声に、それまでの浮かれた空気は含まれていなかった。 「……は?」  せっかくルゥが真剣になったはいいが、その言葉は到底普通には受け入れられなかった。 「……だって、同一犯のわけないだろ……ほとんどの犯人はもう捕まってるし、第一遠過ぎる」  日本全国に散らばった誘拐事件は、時に24時間も間を置かずに発生していることもある。どんな交通手段だって辿り着けないような離れた場所で。 「同一犯なんだよ。肉体が別人でもね」  買って来たコーヒーに、ブラックのまま少しだけ口をつけたルゥは、それまでとはまるで別人のように落ち着き払っていた。 「……それと、」  ゆったりとした仕草でさらさらとクリアファイルをめくる。最後の方に出されたコラム記事。尚也は見たことがなかった。 「読んだことないなら読んでみて」  防犯意識について書かれたそのコラムの中で、最近の事件として一連の誘拐が取り上げられている。  大半の誘拐があまりに稚拙な犯行であり、すぐにあっさりと足がついて犯人が捕まっている。そのうち大部分について、犯行を目撃した人による通報が入っているのだと言う。車のナンバーまではっきりと見られており、それが早期解決に役立っていると。  コラムの著者は、このところ続発する誘拐事件に対し、一般市民の防犯意識が向上したのだろう、世知辛い世の中だが自衛意識と共に、そのような、地域で子供を守ろうとする心がけがこれからは必要とされるのだ、といったような論調で締めていた。 「……何がおかしいんだ?」 「本当だと思うか? 車のナンバーまではっきり判るような通報が多いってのが」 「別におかしくないだろ。女の子がムリヤリ車に連れ込まれてるのを見たら、俺でも必死で覚えようと努力はすると思う」 「一字一句間違えないではっきり覚える自信あるか? 向こうはあんたが覚えるのを待ってくれてる訳じゃない。夕方で、薄暗い中で、1日もせずに車両がすぐに特定出来るくらいちゃんと目撃されてるなんて、おかしいと思わないか?」 「……」  あくまで声は穏やかだ。穏やか過ぎる。まるで──そう、 「そうじゃないってことをあんたは判ってる、って感じだな」  尚也の抑えた言葉に対して、ルゥは緩やかに首を横に振る。 「いや。逆だ」 「……え」 「ちゃんと目撃されてるんだよ。そんなことが出来るヤツがいるんだ。暗くても遠くても、データから引っ張り出すことで最初から車両を特定出来て目撃者のフリしてるヤツがいるんだ」 「……どういう」 「犯人は同じヤツだ。そしてそれを目撃して通報してるのも同じヤツだ」 「なんで……そんな」  尚也は言葉に詰まる。だが、詰まりながらもうっすらと、その先に続く言葉を何処かで知っているような不思議な感覚に囚われて、数秒の間を置いて自然に口が動いていた。 「まるで……最初から結託して誘拐のフリをしているだけみたいじゃないか」  何も表情を見せていなかったルゥが、ふと訝しげに目を細めた。その奥にかすかに動揺を感じ取る。  それはほんの一瞬だった。すぐにルゥはまた、変に浮ついた微笑をその顔に貼り付ける。 「続きは移動しながら話そう。そろそろ時間だし」  言いながらコーヒーを備え付けのゴミ箱に投げ入れる。その音に紛れて、 「……勘がいい、みたいだな、今回は」  決して尚也に聞かせようとは思っていなかった。思わず呟いた、という感じの言葉。それでも、何かが尚也の中でぱちりと音を立てた。つながった、という気がした。  コンビニを出て駅舎に入る。ルゥが行くと言っていた駅は、まだ有効だった定期券の範囲内だった。ルゥの方は券売機で切符を買ってホームへと入る。  学校帰りらしい高校生や、買い物帰りらしい主婦などで、駅にはそれなりに人がいた。その中で、ルゥはゆっくりと口を開く。 「お察しの通り、この誘拐は大半が単なる茶番だ。1人の本命の事件を隠すためにでっち上げられてる。そして、」 「ナミは本命ではない……」 「そうだ」 「ルゥ、」電車が間もなく着くという構内放送に紛れそうになり、尚也は少し声を大きくする。「1つだけ確認しときたいんだけどさ、そんなことを断定出来るのって……ルゥは、その茶番をやっている方じゃ……ないよな?」 「違うよ。ただまあ、傍観者ではあるけど。知ってながら止められないから」 「何故止めない?」 「役割じゃないからさ」 「……は?」  電車がゆっくりと滑り込んで来る。ルゥは顎を軽くしゃくって乗るように合図する。そのまま、手近な空席に並んで座る。 「俺のこの世界でのポジションではそこまで介入出来ないんだ」  別に尚也が信じようと信じまいとどうでもいい。ルゥの口調は何処か投げ遣りなものに変わっていた。 「どう思おうと構わないけど、」  ルゥは腕を組み、背もたれに深く寄りかかる。少しの間、目を閉じて、溜息とともに言葉を吐き出した。 「俺さ、実は神様なんだよね……この世界のコントローラなの。まあ、今んところ、この世界を動かすだけで精一杯なんで、それ以上に暴れ回るのはとてもじゃないけど出来そうになくてさ」  ……普通に考えれば、どう考えてもヘンな人だとしか思えない。近くに他の乗客がいたら眉をひそめてさりげなく離れて行ったかも知れない。でも、尚也は離れようともしないし否定もしなかった。  さっきから感じているこの記憶めいた感覚。デジャブ、とでも言えばいいんだろうか。確かにこの出来事は尚也の中で累積されている。それが、時を経るごとにじわじわと確信に近づいている──気味が悪いくらい。 「本当は一連の出来事を記録するのも自分で出来りゃいいんだろうけど、どうも中にいる人じゃないと残せないみたいだし」  ふと開いた目を尚也に向ける。顔は笑っていても目が笑っていない顔を、こんなに間近に見るのは初めてだった。 「まあ、とにかくデモンストレーションを見せてあげるよ。この歴史で何が起きているのか」  歴史、という言葉でまた何かがかちりと嵌まる。そう。歴史。この時の流れは歴史と呼ばれる。  ──確かに書いている。記録しているはずだ。尚也の胸の中で何かが騒ついている。でも具体的にそれが何なのかを名づけることは出来ない。不安なのか、恐怖なのか、あるいは──とてつもなく溢れ出している何かに対する期待感なのか。  降りた駅には大型スーパーがあった。その集客を見込んで周りにも小さな店が広がっている、そんなショッピングセンターが、夕方らしい賑わいを見せている。  ルゥは尚也を連れて、その大型スーパーの裏手に回った。表に比べて一気に物寂しくなるそこには、小さな公園がある。  昼間は親子連れが立ち寄ることもあるのかも知れないが、薄暗くなった今では、街灯の明かりが乏しくて、子供には少々危険ですらあるかも知れない。  その公園の中に誰かがいる。ルゥは尚也を入り口で止めると、僅かに身をずらして、中にいる誰かから隠れるように窺う。尚也もそれに従った。  人影は2人。制服姿の若い女性と、小学生と思しき男の子。何かを話しているが内容までは聞き取れない。  空から何かが降りて来る。カラスだろうか、と思って見ているうちに、それが突然膨張したように尚也には見えた。  驚いていた。だが声を出すことも動くことも出来なかった。  マンガに出て来る怪鳥のごとく巨大なカラス。2羽いたそれらの背中に、2人はまたがった。男の子の方は躊躇なく、女の子の方はおっかなびっくり。  そしてやがて巨大カラスは2人を乗せて空に舞う。茫然と見送りながら、それでもパニックに陥るほど驚いていない自分に尚也は気付いていた。  見覚えはない。でもそんな類のことが起こるかも知れない可能性は、既に自分の中に織り込まれている。そんな気がしてならないのだ。 「……あの小学生が、事態のキーパーソンだ」尚也の態度については何も触れず、ルゥはそう言った。「今夜のところは、あの子を追いかけることが先だな」 「追いかける?」 「行く先は判ってる。車の免許は持ってるよね?」  ルゥのその笑顔は食わせ物だ。何かを隠したい時に貼り付ける化粧みたいなものだ。それは、デジャブとか記憶とかではなく、尚也がこの数時間で何となく理解したことだった。  青の軽自動車をレンタカーで借り、尚也が運転席に座る。ルゥに指図されるままに、線路沿いに這っている国道をひたすら直進する。尚也の暮らすアパートへ近づくように戻るにつれて、高い建物はどんどん少なくなり、やがて住宅が並び出す。  それも通り過ぎると、広がるのは一面の田園地帯。その先にあるのは山。冬の週末になれば、このルートはスキー・スノーボード客でちょっとした渋滞になる。  道沿いに並ぶドライブインの駐車場に、ルゥは車を一時入れた。店に入るつもりはないらしい。もう間近に迫った黒い山肌を窓越しに見上げながら、エンジンを止めて何かを待っている。  やがて、何を待っていたのか尚也にも判る時が来た。白い車が猛スピードで駆け抜けた後、それと同じスピードで走り抜ける何かがいた。それは明らかに人間の形をしていた。 「……今の」 「追って」  ルゥの指示はそれだけだった。尚也はそれ以上何も言わないままエンジンをかけた。  山を正面に見て左。わずかな街灯に反射した白い車はウィンカーも出さずに曲がっている。その後に音もなく続く人影は、曲がった途端に気配が立ち消えた。 「どっちを追う? 白いのはほっといていいのか?」 「いいよ。あれもどうせ今はデモストレイションだから」  林の中に伸びるアスファルトを少し進む。明らかに何かがここで消えた。人にしか見えない何かが。両ウィンカーを出して停止する。 「要るだろ?」  ルゥが細身の懐中電灯を差し出して来る。 「……俺が探すの?」 「俺があの子にここで会うのはヤバい」  何がなのかは、やっぱり判らない。でも何故か納得している──尚也の中にある歴史が、頷いている。  静かに車を降りる。消えたと思われる右側の林の中を重点的に照らしてみる。何も出て来ない。そのことまでが、そうであることが正しいような気がして来る。具体的に何なのかは判らなくても、そう囁かれている。 「……何もいない」  呟きながら車に戻る。ぼんやりとした明かりの中で、ルゥはまた表情を消していた。尚也の存在に気付いた途端にふわんと戻って来る笑顔。 「とりあえず今日はそんなとこ」 「そんなとこって」 「まあ、見たまま記録してくれたらいいよ」 「……ブログに?」 「そう」 「……それで、いいのか?」  重く問うようなその言葉が、自分でも何から出て来たものなのか、尚也には判らなかった。だが、これは----この状況は。  正しくはあるけれど、望まれてはいない。  そんな言葉がちかちかと頭の奥でひらめく。  ルゥは笑ったまま尚也を見ていた。 「いいんだ」  言葉に連れて増す微笑。不自然なくらいに自然な笑顔だった。
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