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 彼は誰なんだろう。木下由紀は眠る前、起きた後、登校する間、ずっと考え続けていた。  昨夜、遅くなってから戻って来た優は、窓が閉められているので諦めてちゃんと玄関に回って来た。  何をしていて何処にいたのか、由紀が聞きたがっていることを察して先回りして止めに入った。何も話さない。聞かれても答えられない。そんな言葉だけを突きつけられた。  風呂と布団を提供して、彼は叔母の部屋で一晩を過ごした。まるで遊びに来た親戚が過ごしているかのような一夜。  ──夭折した従弟の生まれ変わりですかなんて、正面からは訊けるはずがない。でもそれ以外にこの胸にわだかまる不思議な感情を処理出来る言葉が見つからない。  何故、彼の存在がこんなにも懐かしいんだろう。まるで前からの知り合いであるかのように。  今朝、由紀が学校へ行く時間になっても、彼は起きて来なかった。いくら子供の宵っ張り傾向が強い昨今とはいえ、やはり深夜まで活動していたので眠いのだろう。遠くから来ていたと言っていたからには、近所の小学校に通っているとも思い難く、そのままにして家を出て来た。  学校までは、15分ほど歩いてから電車でさらに30分くらい揺られて行く。小さな地方都市であるここでは、他の生徒にくらべたら由紀の通学距離は長い方だ。元々はもう少し近くに住んでいたが(そしてそれが受験の動機の一つでもあったのだが)、途中で引越をしたために離れてしまったのだ──両親の事故のために。  授業はいつもと同じように淡々と進んでいる。自分が誘拐犯に狙われているかも知れないなんてことを忘れられるほど穏やかな日常だった。  昼休みになると、いつもクラスメイトたち何人かと机を囲んで弁当を広げる。由紀は料理は苦手なので、いつもは叔母に頼りっぱなしだが、今日は登校途中でコンビニに寄り、サンドイッチを買って来ていた。  ──珍しいね、コンビニ? ----叔母が旅行してるから──ああそうか──。そんな何でもない雑談と一緒に昼食を終えた後、ランチ友達の1人である久美は携帯を取り出して何やら操作し始める。 「ねえねえ由紀、そういえばコレ知ってる?」  差し出された携帯の画面の中でメールが開かれていた。「なになに?」という声と共に由紀と一緒に覗き込むクラスメイトもいる。 『少女連続誘拐には黒幕がいるらしいよ、しかもクミの学校の近くに住んでるらしい……そんなのどこかのサイトで見たことあるってユータが言ってた』  なんてタイムリーな、と同時に迷惑な。思い出してしまったじゃないか。内心だけで呟いて由紀は久美に携帯を返す。 「最近の誘拐って、日本全国バラバラなのに黒幕?」由紀はあくまで冗談に紛らせて笑い含みで問いかける。 「なんかねー、何やらデータを集めてる謎の組織がいるとかって」  久美が重要な秘密を話すように乗り出して頭を寄せて来た。周りのクラスメイトたちも釣られて身を近づける。 「データ? 謎の組織?」 「ネットで連絡してコントロールしてるらしいよ……みんなすぐ解放されるのも、目的は身代金とかイタズラじゃなくてデータだから、らしい」 「データって何の?」 「そこまではわかんないよー、私、謎の組織じゃないし」  日常に少しでも非日常が入り込むと、女の子としては都市伝説化して面白がりたいのかも知れない。多分そんな類の話なんだろう、と由紀は思う。数日経てばきっと久美だって忘れているだろう──1日何通も受信するうちに消去されてしまうメールと一緒に。  ただ。  少なくとも自分を狙う人間は、それらの連続誘拐犯とは目的が違うと思う。  由紀は一人、そう得心していた。どうしてそんなことを断定出来るのか、その理由など考えることもなかった──その時は。  放課後、部活に入っていない由紀は、当番となっている音楽室の掃除をした後はただ帰るだけだ。今日はバイトもない。  同じ班のクラスメイトたちと音楽室の前で別れる。階段を降りながら昼休みのことをぼんやりと思い出していた。  何となくそんな気がしていた。連続誘拐事件と自分の誘拐は何かしら次元が違う、と。初めて優と会った時は、小中学生が狙われる一連の犯行と同じと考えたからこそ、中学生に間違えられてショックでもあったのに。  あの時、優が言ったように、それが妙に用意周到だからだろうか。でも、他の誘拐事件だって、さらう前の犯人たちが、被害者に目をつけて尾行していなかった、なんて由紀には言い切れるはずもない。  昇降口で上履きを履き替えて外に出る。まだ玄関から正門の間は学校の敷地内。正門には守衛さんも詰めているから、正門を出てしばらくは安全地帯だとおぼろげに考える。犯人たちが手を出して来るとしたら、学校から駅の間よりは、叔母宅に歩いて戻るまでの15分間の方が危険かも知れない。  守衛さんに軽く会釈して、正門の鉄扉を抜ける。出てしばらくは真っ直ぐの二車線道路。通る車はまばらだ。  ふう、と我知らず溜息をついた由紀の前に誰かが立ちはだかった。 「──早かったな」  優だった。むすっとして顔を背けてはいるが、話しかける相手は由紀以外にいるはずもない。 「どうかした? ──あ、もしかしてゴハン?」  そういえば、インスタント食品の買い置きもいくつかあるけれど、何処にあるとも書き置きしていなかった。前日のオムレツ以来何も食べてないとしたら、相当にお腹が空いているだろう。  優は一瞬きょとんとして由紀を見上げた。まるで考えてもみなかった、という顔だった──ということは。 「平気? 何かテキトーに漁って食べてた?」 「……そう言えば食べてない」  納得したように頷いてる。 「ちょっと……大丈夫?」 「まあ、平気。今はそんな食欲ないんだ」  この年頃の男の子がダイエットしたがっているとも思えないし、それは明らかに変じゃないか。由紀がそう言いかけるのを遮るように優の口が動いた。  また、言葉を止められた。まるで何もかも判っているかのように。 「とにかく──帰るよな」 「そりゃ、帰るけど」 「どっか寄る?」 「いや、特には」 「そう」  優は歩き出す。由紀が戸惑って動けずにいるのを感じたのか、振り返って目で促す。 「──ひょっとして」  ようやく足を前に出して小走りに追いつくと、周りには聞こえない程度に声の音量を下げた。 「迎えに来てくれたわけ? 誘拐から守るために」  優は何も答えない。ただ小さな背中で由紀を引っ張るようにずんずんと歩いて行く。  一緒に帰っている間、ただ黙りこくって連れ立っているのはさすがに気まずい。由紀は電車に乗った後に優に昼休みの『都市伝説』の話を雑談のつもりで切り出した。 「そういう噂って女の子は好きだよね。おかげでそれまで忘れていられた尾行のこと思い出してちょっと憂鬱になっちゃった」 「……黒幕、ねえ」  優の溜息は、何か含むところがあるようにも聞こえた。 「ひょっとして小学生男子の間でもそんな噂が流行ってる?」 「……たとえば、だけど」  優は窓の外に目を向けたままだ。そこに映る瞳は、慎重に言葉を選んでる風にも見えた。 「起こっている誘拐の全てを記録しつつ、それがいつ終わるのかを事前に正確に予想出来る人間がいるとしたら、それは黒幕に見えると思うか?」  由紀も自然と言葉を選ぼうとする。が、出て来のはごく当たり前に。 「……見える、かもね」 「だろうな」  優はそれきりまた口を閉ざして俯いた。この話題をこれ以上続けるのは嫌がっているようだった。  ただの雑談として受け流されるつもりでいたので、優が妙に引っかかっている風なのが逆に由紀には不思議だった。まるでそれが噂ではないかのような。それが誰だか知っているかのような──  ──知っているのだろうか。  心の隅に浮かんだ何気ない言葉が、頭の中で急に膨らんだ。  つり革を掴んだ手にふと力がこもる。うっすらと自分の鼓動が早くなったことを意識する。  それ以上のことを考えてはいけないような気がする。それは、昨日からこうして突然行動を共にすることになってしまった少年について、真っ当な解をくれる。明らかにそうだ。  でも……本当にそうなら。  考えが錯綜する。それまでわだかまって拭い切れなかった懐かしさより、その方が現実としてはずっと順当だとも思える。  ──少年には由紀に近づくだけの理由があったのだ。  10歳くらいだから、小学生だからと言って無条件に信じていいとは限らない──何せ彼は奇妙な技を使う。  彼は本当に「小学生」という言葉で規定される存在なのかどうかすら、由紀には判らないのに。  ──私は、何故この少年に対してここまで無防備でいられるのだろう?  夕方の何処かのんびりしたざわめきに満ちた車内に、車掌の声が小さく聞こえて来る。降りるべき駅に着いた。普段通りを装って由紀は近くのドアに近づく。  いつものようにドアが開いて、いつものようにホームに降り立つ。後から優も降りて来て、さりげなく由紀を追い越して前に立つ。ホームの外に目を凝らしている。 「……優?」 「いるな。今日もニーナたちの力を借りた方がいいか」  由紀も優の視線の先を探ろうとした。似たような白の車がたくさん止まっている。車種に詳しくない由紀には、どれが昨日の車なのか判然としない。 「ちょっと遠回りしてみるとかは? 昨日と全く同じルートだとそれはそれでマズいんじゃない?」  ストーカー対策として通勤・通学ルートをコロコロ変えるというのがある。そのつもりで優が受け取ってくれることを願う。本音は──優が想定していることとは違うことをやってみたくなったからだ。生まれてしまった考えを、少しでも否定出来る材料があれば良かった。 「……ああ、まあ、いいかもね」  優の返事はかなりぎこちない間を含んでいた。その間は、由紀の中の嫌な予感を更に膨らませて行く。 「……じゃ、行こう」  由紀は歪みそうになる微笑をなるべく隠すように目をそらして、改札口へ続く階段に向かった。  わざと駅の裏に回り、いつもとは1本違う道で自宅へ向かう。いずれにせよ途中で合流してしまう通りではあるのだが、少なくとも歩いている間に車が尾けて来る様子はなかった。  まだ夜にはならないが、だいぶ日が落ちて暗くなった頃に家に辿り着く。家中のカーテンを閉めて明かりを点ける。その間、優はじっと何かを聞いているかのように居間に立ち尽くしたままだった。  昨日に会った時は、妙に自信満々な態度ではあったけど、まだ子供だった。少なくとも由紀にはそう見えた。単なる小生意気な小学生。でも、今日学校に迎えに来てからの優は、何処かに変な緊張を抱えている感じがする。常に何かを考え、周りをうかがっている。その気配は、家に帰って来るまでの間に濃くなる一方だ。まるで。  ──頭に浮かんでしまった言葉を消し去ろうとする。考えたくない。それでも、ぽこぽこと水辺に泡が浮かぶように生まれて来る疑念を止められない。  知っているのか、優は。いつそれが起こるのか。その時刻が近づいているのか。  ──ずっと自分にくっついているのは、守るためではなく監視するためではないのか?  蛍光灯の明かりが点くまでの、ほんの少しのタイムラグ。ぱつんと小さな音を立てて、少しだけ明滅するその狭間、由紀の目はある光を捉えていた。  ぎくりとする。幻であって欲しいと思う。説明をつけたいと。あるいは誰かに説明して欲しいと。  電灯で明るくなるまでの僅かな隙間。居間に立つ少年は、明らかに発光していた。  本当にほんの少し。ここまで神経が尖ってなかったら、普通の人間がそれを認識出来たとは思えないほどの。  思わず壁のスイッチをまた切ってしまう。無意識のうちになのか、震えてしまったが故の事故なのか、由紀には判断出来ない。  やはり彼はそこにいる。染み出すようにぼやけた光と共に。 「……どうしたの?」  きょとんとして由紀を振り返った少年の顔がくっきりと見える。  彼は窓を背にしている。部屋の中は暗い。逆光だ。逆光なのに。  ──顔がくっきりと見える。  奇妙な懐かしさの心がぶつんと押し潰された。彼を昨日までと同じように家に入れたのがその心の最後の仕事になった。  彼はそれを──待っているのか。そのために近づいたのか。  ──プライベートな時間のスケジュールまでも把握するために……。  ──彼が、誘拐の手引きをしている可能性を何故考えてみなかったんだろう?  こんなの耐えられない。もしそうだとしたら、この2日間で自ら誘拐される準備をしてしまったのと同義だ──。 「お夕飯調達して来るー」  無理に作った明るい声で、制服姿のままカバンを引っつかんで家を飛び出す。優が、びくんと異様なほどに大きく震えて足を踏み出したのが視界の端に見えた。ドアを閉めてからは走り出す。  このまま逃げようなんて思ってはいない。思い当たる行き場所なんて今はない。でも──撹乱したかった。自分に何が起きていて、優が本当は何で、何を抱えているのか見極めるまでは。 「待てって! 俺も行く!」  あの時と同じ、距離感がおかしい声がする。途端、転がりそうに、まるで巨鳥に放り出されたかのように優がごく低い位置から降って来て由紀の前に落ちた。 「……っつぅ……」  その登場の仕方にはもう驚かない。ハトかカラスを調達して来たのだろう。だが着地に失敗したようだ。何とか立ってはいるが足を引きずっている。 「独りで大丈夫だって。留守番お願いするから」  早口で言い切ってそのまま足を速める。怪我しているなら引き離せるかも知れない。 「由紀!」  悲痛な絶叫が突き刺さる。そう呼ばれてから初めて、そもそも由紀は優に対して自己紹介すらしたとがなかったことに思い当たった。  女性二人暮らしの叔母の家には、苗字だけの表札を出している。下の名前を優が知るためには、由紀自身が名乗ってない以上、事前に何らかの形で個人情報を把握しなければならないはずだった。  そう。叔母がいないことだって彼は事前に知っていた。  ──全てがその瞬間に晴れた気がした。由紀は全力で走り出す。背中に優の声がすがりついている。まるで泣いているようにも聞こえるが、惑わされないという決意が全てをひねり潰した。  そして。  信号を確認するのを忘れた。由紀は最初にそう思った。  車のボンネットに自分の体が跳ね上がったのを意識する。幸い車はさほどのスピードを出していなかった。発進直後だったのか停車するところだったのか、どちらかだったのだろう。  運転手が降りて来た。何かを話していたが意味を解釈出来る余裕はなかった。ぶつかり方が緩かったとはいえそれなりに痛みはあった。  青年の表情がどうだったのかもよく見えなかった。手が由紀を助け起こし、車に乗せようとしていた。病院、という単語が聞こえた。ああそうか、私怪我したんだ、そう薄ぼんやりと思った。抵抗する気にはなれなかった。  車の扉の閉まる音は重い。発進するまでの少しの間に、由紀は朦朧と消えて行く意識の中で、はぁはぁと奇妙に荒っぽい息遣いだけをおぼろげに聞いていた。  ※ 「……ここでこーなるのかよっ……」  しゃがみ込んだまま、引きつった声を唇で噛み潰す。くじいた足はそんなにひどくはなかったようだ。もう痛みは治まりかけている。  いずれにせよ歴史が変わっていることには間違いない。が、結局事前にはまたもや止められなかった。木下由紀の『可能性』はほぼ固定されてしまっているけれど、犯人側の男の『可能性』はわざと固定させてないのだろう。似たような事件をたくさん起こすことも、リィたちを混乱させる手段としてうまく出来過ぎている。 「油断した……」  唇を噛んだまま俯く。もう少しだったのに。そう口に出してしまうと、涙も一緒にこぼれてしまいそうになる。必死に何かで紛らせようと目を強く閉じてみても、あまり役には立たなかった。  ──リィが足をさする手を、誰かがさすっている。それが誰なのかは、頭の隅では判っている。でも、彼女に縋って泣いている時間なんて、もう自分には残されていない。  頭では判ってる。──だけど。  ふわ、とその体がリィを取り囲んだ。それを体と呼ぶのは便宜上のことで、実際に固体の何かが在るという感触はリィにはない。彼らに肉体はない。温度もない。彼女には肉体という概念も温度という概念もないからだ。 「キース」  呼びかける声に男は現れなかった。ただ、あまりに温和な波動が緩やかにリィを取り巻いている。 「やめろ……」  リィの手に重ねられた手の持ち主は女性だった。風もないのに、真っ白なワンピースと長いストレートヘアを靡かせながら、しゃがんで、ただ、リィの手を撫でている。 「やめてよ……かあさんっ……」  呟いた言葉に呼応するように女性は微笑んだ。とても嬉しそうに。その顔立ちは、何処か木下由紀に似ている。 「あなたが、よんでいるのよ」  声は由紀そのものだった。柔らかくて優しくて。それは母性という言葉以外の何物でもない柔らかな檻。 「……もう平気だから、だから」  リィは喘ぐように呟いた。呼吸を整えようとする。  ──今度こそ、と思っていたから。今の自分は動揺し過ぎてる。だから出て来てしまったのだと判ってる。  それは悔しくもあり恥ずかしくもある。『かあさん』はリィの心が抱え込んでしまった緩衝装置だ。  だから。落ち着けばそれは消える。  深呼吸とまばたきで我を取り戻す。時間はない。行かなければならない。最終ステージの幕はぶった切られて落とされてしまったのだから。  頭を切り替える。最後に大きく息を吐く。  目を閉じて数秒。開いた時にはもう『かあさん』は消えていた。 「……なんでいきなり俺を避ける?」  その問いとともに男は現れる。灰色の髪を持つデータベース。 「警戒するようになった、ということかと」 「……俺を?」 「はい」 「……なんで今日なんだ? 警戒するなら昨日からすりゃいいのに」 「……」  この沈黙は何かを考えている。リィはキースの無表情な目を見上げて続きを待った。 「……彼女の累積記憶の中で、つながりつつある、ということかも知れません」 「つながるって、何と何が」 「リィと誘拐がです。あなたが現れると、自分は誘拐される。『彼女』は『世界』からそういうアウトプットを、もう400回以上受け取り続けている」 「……」  なるほどね。キースに聞かせるつもりもなく呟く。由紀が実際に何を考えているのかは判らないが、そう判断すれば納得は行った。  だとすればこれはいい傾向なんだろうか。  回を重ねるごとにリィを警戒するようになるのだとすれば、そのうち彼は由紀の『可能性』に介入することすら出来なくなるのではないか。もしそうなら。  累積記憶を利用して、誘拐恐怖症にでもして、護身術でも習わせるか?  自分の思いつきがバカバカしくて軽く自嘲する。警戒心が芽生えるだけで400回かかっているのに、そんな結果を得るまでに何千回繰り返せばいいのか見当もつかない。 「……追うぞ。あがくだけあがくしかない」  アスファルトに吐き出された言葉に頷いたキースの姿は、音もなくその場からかき消えた。代わりにがっしりした体躯の男がそこに現れる。 「例の現場へ」  男──翔はリィを抱えてジャンプした。住宅の屋根を飛び石にし、体重を感じさせない軽やかな足取りで。  ※  由紀は、耳元で携帯のバイブの音を聞いた。ゆっくりと目が覚めて行く。  窮屈な姿勢で寝かされている。その座席は動いている。少しずつ頭が晴れて行くに従って、何が起きているのかようやく把握し始めた。  車中。ワゴンやRVではないごく普通の自動車だ。後部座席に、手にしていたカバンを枕に横になっている。ちらりと見上げると足元の方にある窓から外が見えた。しばらく見ていても建物の姿が全く入って来ない。  郊外店がずらずら並ぶバイパスを抜けた田園地帯の辺りだろうか。このまま行けば山を越えて隣の県。健在だった頃の父がスキー好きだったので、小さい頃、冬の週末はよく辿ったルートだった。  物音に耳が慣れると、人の声が耳についた。会話している風ではない。念仏でも唱えているようにぶつぶつ何かを呟いている。独り言と言うには少し音量があり過ぎ、誰かと会話するには小さ過ぎる。内容はまるで判別がつかない。  そろそろと、男に気付かれないように手を動かす。幸いなことに走行音と男の声で、多少の音は紛れてくれている。カバンの外ポケット。ゆっくりと、ゆっくりと、携帯を引っ張り出す。  ストレートタイプの端末のキーロックを外す。キー操作音をオフにしていたことをこんなに喜んだのは初めてだったかも知れない。極力音が出ないように、GPSアプリを起動して位置情報を取得する。  叔母はまだ旅行先だ。すぐに見てくれて行動を起こしてくれそうなのは──久美。メールマニアの彼女は、家に帰っても常に携帯をそばに置いてメールをやり取りしていると話していた。  ──知らない車に乗せられて運ばれてる 怖い  それだけ何とか打って、GPS情報と共に送った。  運転手の男は由紀の行動を気にする様子がまるでない。それを横目でちらちらと確認しながら、さっきのバイブを確認する。  メールが届いている。久美からだ。何かのアドレスが書かれている。 『昼間話してたヤツ、これらしいよー』  迷惑メールフィルタをかけていなかったら、アダルトサイトの勧誘メールと間違えそうな文面だ。そう思いながらアクセスしてみる。  出て来たのは誰かのブログのサイト。携帯用にきちんとフォーマットされているので見づらくはない。  その最新記事が画面に表示されている。詩のような短いテキスト。  ぼんやりと読み進むうちに、由紀の心臓の鼓動はどんどん早くなって行った。  ──最後の被害者は高校生でイニシャル『Y』。  その少女がさらわれることで『真犯人』の目的は全て果たされる。  向かうのは、彼女の住む街からまっすぐに西。  山と県境を越えて、彼女は救われる。  それで終わる。恐らくは今日のうちが、明日に少しだけかかる程度で。  ページの下の方にあったリンクから目次らしきページに飛ぶ。ずらりと並んでいる記事のタイトルを見る限り、内容はいずれも少女誘拐事件についてのものらしい。 『起こっている誘拐の全てを記録しつつ、それがいつ終わるのかを事前に正確に予想出来る人間がいるとしたら』──  電車の中の優の言葉と、昼休みの久美との雑談をまざまざと思い出す。  そう考えるしかないじゃないか。最後の被害者の前に2日前に現れた小学生。それは小学生の姿をしていても、どんな行動力を持ってどんな通信手段を持った存在なのか、そもそも人間であるかどうかすら、判らない。もしかしたら相手の心理をコントロールする超能力も使えるのかも知れない──だから何だか懐かしくて、抵抗したり無視したりという行動にすら出られなかったのだ。  名前をつけさせることは、本名を知られないための手段なのだろう。  警戒すべきだったのだ。全てが迂闊過ぎたのだ。今理解しても、もう遅過ぎる。  車の走行音が少し変わる。携帯を伏せてカバンの下に潜らせて窓の外に目を向ける。下枝が綺麗に伐採された高い木がたくさん見える。真っ暗な中で見るのは初めてだけれど、この手の深い林があるのは県境に聳える山以外にないだろう。だとすれば、何もかもがあのブログの通りに進んでいるということになる。  卑劣だ、と由紀は思う。どんな犯人グループなんだか知らないけど、あちこちで少女を誘拐して、すぐにそれを解放して、挙句の果てにブログで犯行声明なんて。イタズラ目的でない分だけ多少はマシとはいえ、これではまるで世間を騒がせて楽しむために、スリルを味わう娯楽の1つとして誘拐を楽しんでいるかのようだ。  運転席の男はまだ何かを呟き続けている。このまま山を越えて隣の県に行くのだろうか。逃げるチャンスは作れるだろうか。落ち着こうとして細く深呼吸する。  携帯のバイブがまた鳴った。カバンで押さえつけられていたためにあまり大きな音はしなかった。  そっと引っ張り出して確認する。久美は交番に向かいながら返信を返して来ていた。 『ユータの送ってよこしたサイト見た? もしかしてあれのとおり?』  後半のそのテキストに逆に救われた思いがした。久美が都市伝説を信じ込むタイプで良かった。  間に合って欲しい。祈るように『あのとおり 今山の中走ってる』とだけ書いて返信する。  男が何かに取り憑かれているように由紀をちらとも振り返らないのが、不気味でもあり生命線でもあった。伝えられることは伝えた。これで多分、県境を越えた後に警察が待ち構えているのだ。久美の通報で警察は素早く動いてくれるのだ──そうに決まっている。ブログにだって、そう書いてあるんだから──。  ぎゅ、と目を閉じた瞬間に、ありえない衝撃とともに体が浮いた。  タイヤが悲鳴を上げるように軋む。車体が大きく蛇行して、体勢を整えようとするように揺れている。ガツンと車の横腹が何かにぶつかり、嫌な金属音を立ててこすれる。そこからようやく逃れたと思うと、またゴンと鈍い音が響く。  横になっていられなかった。明らかに車に何かぶつかっているのに、運転手はまるで気付いていないかのように、全く同じ調子で独り言運転を続けている。  由紀は体を起こした。ゴン、ガン、とあちこち突っかかる音に紛れて携帯をカバンに押し込み、「……何の音?……」と、いかにも今目を覚ましたように男に声をかける。  男は無反応だった。由紀を積んだことを忘れてしまっているかのように。  前の座席の間からフロントグラスに目を向ける。  そこに、何かがへばりついていた。運転手の視界はほとんど塞がれている。いくら何でもこれでまともな運転が出来るとは思えない。このままでは、隣の県に着くより先に、ガードレールを突き破って転落してしまうかも知れない。  逃げなきゃ。少なくとも崖から車ごと落ちるよりはこの方がマシだ。由紀はもう男の行動を気にするのを止めてドアに飛びついた。  ロックを外してドアを開ける。ふらふらと蛇行しながらも何とか前に進んでいる車と、高く上に切り立った山の壁とに、まろび出るのに充分な隙間が出来たと判断出来た時を逃さずに飛び降りた。  したたかに背中を打って痛みに体を丸めた。それでも、何とか車から逃れることは出来た。指先に引っ掛けておいたカバンも少し離れた位置に落ちている。  ずきずきする体を無理に引き起こしてカバンを拾う。足が無事なのは幸運だった。そのまま元来た道を出来る限りの速度で走ろうとするが、今になって襲って来た恐怖で足が震え出す。  ──止まってられない。逃げなきゃ。  転びそうになっても地面を這うように進んだ。少し足を止めて落ち着こうとは思えなかった。男が、積んで来た荷物がなくなっていることに気付く前に少しでも離れておかなければ──それしか考えられなかった。  だが5分も進まないうちに、由紀は自分の荒い呼吸の合間に車の音を捉えた。声にならない悲鳴が上がる。戻って来た、あいつが戻って来た。そうとしか思えず、痛みを断ち切って立ち上がって走った。少しだけ左足を引きずりながら、がむしゃらに距離を稼ごうとした。  自分はこんなにふらついているのに、走行音はまっすぐに由紀に向かっている。すぐ近くまで来てスピードがぐんと落ちるのが判る。必死で離れようとしていた由紀の腕を、誰かがつかんだ。 「……!!」  喉にイガイガしたフィルタでもつけられているようだった。助けを呼びたいのに声が出ない。薄暗い街灯の下で今度ははっきりと男の顔が見えた。何処か焦点の合わない濁った眼。何かに恍惚としたような半開きの唇からせわしなくはぁはぁと呼吸が洩れている。床屋に行き損ねたような長髪。  ドアが半分開いている。そこから伸びた手が由紀の二の腕に食い込んでいた。  無我夢中だった。振り払おうとしてめちゃくちゃにカバンを振り回して暴れながら、とにかく離れることだけを考える。男はその勢いに引きずられて車外に降り立った。腕を引き寄せて、由紀の体を抱えようとするかのようにもう片方の手が伸びて来る。  その手が、由紀の視界からいきなり掻き消えた。  一拍遅れて犬の鳴き声らしき音が耳に刺さる。一瞬逃げるのも忘れて振り返ると、そこにあったのは、中型の茶色い犬が犯人の男に襲い掛かっている光景だった。  ──警察犬?  一瞬思って周りを見回す。この状況なら保護して貰えるはずだ。ブログでは県を越えてから助かるはずだったけど。  だが。次にやっと気付いた人の気配は、犯人の白い車のボンネットの上にいた。  大きく肩を上下している。逆光になっているとはいえ、その姿には見覚えがあり過ぎた。 「──すぐ、る……」  息の隙間から吐き出すように呼びかける。また頭の中が混乱した。彼は『真犯人』ではないのか? あのブログの主では? 敵ではなかったのか? 誘拐犯のスパイでもない? 「どけ!!」  少年は叩きつけるように叫んでボンネットから飛び降りた。由紀は反射的に体をずらしたが、一瞬後にはその言葉が自分に向けられたものではなかったことを理解する。  犬が飛び退いた。男は体を丸め、うずくまって震えている。走り寄った優の手が振り上がった時、そこに何かが光るのが見えた。光は残像で弧を描いて男の体の横すれすれに空を切り、地に落ちた。  男は弱々しい声で少しだけ呻いた。体の震えが穏やかに止まり、どさりとアスファルトに倒れ込んだ。  地面にあった光は、しばらくぼんやりと光っていたが、やがてロウソクの炎のようにふと消える。そこには何も残っていない。由紀が我に返って目を向けるが、犬の姿も何処にも見当たらない。  誰もが動きを止めていた。その中でただ優の乱れた呼吸から繰り出される息だけが、黒い闇の中に白く吐き出されては消えて行く。 「……優……?」  体の節々に痛みがじわじわと戻って来る。耐えて足を動かすことに集中する。手を伸ばせば肩にかかる。もうすぐ。 「……ごめん、私、……」  どうして一方的に疑ったりしたんだろう。  言葉にしようとして目の前がぼやけて行く。  ──視界が悪くなるのと反比例して聴覚が戻って来る。  みしみしと小さく聞こえて来るのは、小石が低速で走る車に潰される音だ。まばたきで涙を落として首を向けると、そこには闇に溶け込みそうな濃い目の青の軽自動車が止まっていた。 「……だれ……?」  パトカーではない。由紀は自然と手を優のいるであろう場所に伸ばしながら問いかけた。だが、その手の先には何も触れなかった。 「……?」  車から人が降りて来るのを聞きながら見回す。さっきまですぐそばにいたはずの少年がもう何処にもいない。 「……なんで……?」  手で涙をぬぐう。目を凝らす。深く黒い林の隙間に人影を探そうとする。倒れたまま動かない男の横を過ぎてガードレールに駆け寄る。  さっきまでいたはずなのに。自分を助けてくれたのに。それなのに。  いない。しかもそれたけじゃない。  ──何故か、その名前を思い出せない── 「成功したんだ」 「したね。ギリギリだったけど」  車から降りて来たらしい男の声が近づいて来た。由紀は振り返る。薄暗い街灯に照らされて歩いて来るのは、2人。  1人は少し小柄で、あの少年よりさらに明るい栗色の髪をしている。人なつこそうな笑顔の男。もう1人は少しだけ背が高い。かなり痩せ気味で、無愛想だ。中途半端に長髪なので目を細めているせいか、目つきが悪く見える。両方とも20代半ばくらい。かなりラフなGパン姿で、背の高い方が指先に車のキーを下げていた。 「……これで良かったわけ」  無愛想な方が茶髪に聞いていた。 「まあね。でも多分、ホンシの方からすれば蚊が刺したくらいの刺激にしかならないと思うけど」 「……気が長い話だ……」 「だから記録が必要なんだよ。書はこの世界にとっては呪術だ。呪術がかかれば蚊が刺したって致命傷になりうるからね」 「呪術ってよりマラリアじゃないか? そりゃ」 「ははは」  由紀の目の前で和やかに話されている内容は、何のことなのかは全く判らない。日本語であることだけは理解出来ているけれど。 「ナオヤ」茶髪が長髪に呼びかけている。「タイムリミットはあと2日」 「……わかったけど……何を記録すりゃいい?」 「見たままだよ。いつもの通り」  長髪は頷いてから、由紀を初めてちらりと見た。「この子はどうする?」 「警察に任せるよ。それが一番自然だし」  ふんわりした笑顔の茶髪青年が由紀を見下ろしている。  逆光気味の影の中にあってなお、不思議なくらいくっきりと目に飛び込んで来る笑顔。まるで、この世界の法則からは何処かズレているかのような。  何処かでこんな雰囲気を見たような気がする。それもつい最近。でも、それが誰なのかすら、由紀にはもう思い出せない。  突然時の流れが速くなったかのように、自分の記憶の中から、するすると抜け出して行く何かがあるのを意識する。でもそれが何なのか、見極めようと考える頃には、全てが頭の中から流れ去ってしまっていた。  空白を埋めるように飛び込んで来る鳴き声。はっと振り向くと、白い車のボンネットの上で、わふわふと少し気の抜けた声で、茶色の老犬が吠えていた。 「ユウ!」  その名前がすぐに浮かぶ。覚えていたというより、口をついて出たという感じだった。だがそう口に出した途端に、ざらざらと音を立てそうな勢いで記憶が蘇って来た。  ----ユウ。その名の由来は夭逝した従弟にある。彼は優と書いてスグルと読んだ。そのままスグルとつけなかったのは叔母や親戚に対する幼い由紀なりの配慮だった。  もう9年か10年かそのくらい前だ。従弟の優が亡くなった後、入れ替わるように近所で産まれた仔犬を、由紀がせがんで引き取った。ずっと世話を続けていて、両親の事故の後は由紀と一緒に叔母の家にやって来た。  兄弟であり友達だった。最近はなかなか散歩にも連れて行ってあげられなかったけれど。  ──そういうことなんだ。由紀の記憶の中で全てがぱしりとつながった。  由紀は犬に駆け寄った。さらわれてここに連れて来られた時、確かに見た覚えがある。車のボンネットに茶色の毛並みが貼りついて、犯人は運転を誤って蛇行運転になってしまった。速度が下がったので、隙を見て由紀は車から飛び降りた。それでも捕まりそうになった時、ユウは身を呈して自分を守ってくれたのだ。 「ユウ──ありがとう、ユウっ!」  犬に飛びついて抱きしめる。うぉふ、と気の抜けた声でまた鳴く。尻尾がピンと立った状態で左右に激しく振れていた。誇らしく嬉しい。そう語っているかのように。年のせいか声に勢いはないけれど、まだ尻尾は元気なようだ。  何台かの車が近づいて来る音がした。視界の端っこに赤色ライトの光がひっかかる。ばたばたとした足音とともに、数人の声が入り乱れ始めた。青の軽自動車の青年2人が、目撃していた一部始終を話してくれているようだ。  犬にしがみついたままの由紀の肩を誰かが叩く。もう大丈夫ですよ、こいつがあなたを連れ出した男ですか? 警官の制服姿の男たちが倒れていた男を立ち上がらせた。まだ気を失っているらしく体をだらりと垂らしたままだ。そうです、その男です。でもユウが助けてくれて。ああそこのお2人から聞きましたよ。勇敢なペットくんですね。名前はユウというのですか? そうです、そうなんです、ずっと飼っていた、私の友達なんです。何度も何度も頷きながら、由紀はまるで自分に言い聞かせるようにずっと呟き続けていた。ずっと前から飼っていたんです。いつも自分のそばにいたんです。ここ数日もずっと変な車に尾けられていて、でもユウが私を守ってくれていたんです。ずっとずっと守ってくれていたんです──。
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