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4.
正午近くなって起き出した尚也は、姉の歩美に電話して、姪のナミが予定通り無傷で解放されたことを確認する。歩美は涙声を殺していた。ナミは学校を休んで自分の部屋で眠っているのだと言っていた。
ナミ本人に話を聞いてみたい気もしたが、被害者の心の傷を抉るような真似をわざわざするのも気が引けた。かつてのように、それが仕事でしかも相手が赤の他人なら、食い下がらざるを得ないのだけれど。
それでも、とりあえず尚也は姉のマンションに向かっていた。辿り着くまでに電車で1時間ほど。車内の空き時間にも、PDAと折りたたみキーボードを広げてひたすらに書き続ける。
昨夜からずっと続けている記録。一般人の妄想と捉えられてもいいとルゥは言っていたから、あまり深く考えることなく、『本命』以外の誘拐を、ただ事実を並べる程度に記録する。『本命』は──これから起こる。だから詳しいことはまだ書かない。もうすぐこの事件は終わる、そう予告された一文があるだけだ。
電車を降りてから少し歩いてマンションへ。歩美は真昼間からカーテンを閉めて家に引きこもっていた。マスコミらしきカメラなどがマンションの外にウロついていたと聞いて納得する。
誘拐の話を母である歩美から聞けるだろうかと不安に思っていたが、それはまるっきりの杞憂だった。歩美は誰かに話したくて仕方がなかったのか、尚也に口を挟む間も与えずひたすら喋り続けてくれた。歩美の夫はやたらに忙しい人だから、多分誰も腰を据えて話す相手がいなかったのだろう。
──駅からマンションを挟んで郊外に離れる方向にあるナミの学校は、田んぼの中に建っている。元々、決して煌々と明るいとは言えないような通学路なのだ。暗くなる時間が早くなってからは、治安を不安視する声は前々から出ていた。でもその対策が後手に回っている間に、ナミは被害者第一号になってしまった。
下校中。川べりの土手の、普通車2台が何とかすれ違える程度の細い道。そこで若い男がナミを車に引っ張り込んだ。
咄嗟のことで何が何だか判らなかったナミは、茫然としたまま男のアパートに連れ込まれた。
耐えずひくひくと小声で笑いながら、男はナミに一緒に食事をするように強制した。逆らうと何をされるのかが恐ろしくて、ナミは黙って出されたレトルトカレーを食べた。男は独りで笑い続けながらナミにひっきりなしに話しかけていたが、恐怖で頭が一杯だったナミには何を話しているのか理解するエネルギーがなかった。
食事が終わると、まるでナミなどそこにいないかのように、男はパソコンに向かったりゲームをしたり携帯をいじったりしていた。ただ、ナミが隙を見て逃げようとすると、不気味な笑い声と共に止めに入る。イタズラや殺害が目的ではなさそうだとは理解したが、怖いことには変わりがなかった。
男は眠る様子がなく、ナミも一睡も出来なかった。
それから24時間もしないうちに警察が男の部屋に乗り込んで来る。誘拐された瞬間の目撃証言と、このアパートに入るまでの様子を見かけていた近所の人の通報と、2つが的確だったために早期解決が可能だったのだそうだ。
約1時間ほど、歩美は喋り通していた。話し終えた姉は、少しだけ胸のつかえが下りたように尚也には見えた。精一杯の優しさを込めてナミの無事を喜び、励ますと、涙ぐんだ姉は小さな少女のようにこくんと頷いた。
駅で帰りの電車を待つ間に、元同僚に電話する。
ルゥに見せられた新聞コラムの話を出すと、元同僚はすぐに思い当たったように「ああ」と答えた。「目撃者が言ってる車のナンバーが正確って話ね」
「あの目撃者について何か知らない?」
「いや、詳しくは何も。いつも匿名らしいとは聞いてるけど」
「……匿名か」
「何、須藤こそ何かつかんだわけ? タレコミ?」
笑い含みの声に、どうしようかと一瞬迷った後に尚也は口を開いた。
「実はその……俺の親戚が被害者になっちゃって」
電話の向こうで息を呑む気配がした。
「通報者、特定出来るような情報あるんだったら、会ってお礼が言ってみたかったんだ。早くて正確な通報のお蔭で、大きな被害もなく解放されたから」
少しだけ息を吐く音がした後で。
「……そういうことなら、役には立てない。さすがに警察だって、名乗ってない通報の個人情報までは特定出来ないよ」
ほんの少しの気まずさが漂う。
「だよな……いつも同じ人物だったとかいうミステリーもなし?」
「……へ?」
明らかに不意を突かれたように腑抜けた返事だった。
「いや、なんでもない、ゴメン、ありがとう」
ごまかすように少しだけ笑って電話を切った。
姉のマンションを出て、少しだけ買い物をしてからアパートに戻る頃には、時刻は既に夕刻となり薄闇が広がっていた。
買って来た食料品をしまい込み、PDAをクレードルに突っ込み、携帯電話を卓上ホルダに立てかける。充電のランプが点いたのを確認してから、机の上に置かれた時計にちらりと目を向ける。4時を少し過ぎた辺り。シンとした部屋の中で、アナログの目覚まし時計の秒針の音だけが嫌に大きく聞こえる。
尚也は目を閉じた。無理と思っていても、何かを思い出したいと思う。自分が巻き込まれているこれが、決して今回初めてではない感触がどうしても拭えない。自分を神と名乗る男。予告された通りに起こる稚拙な誘拐事件。妄言のような記録が、それでも必要だと言われて、真っ正直に従っている自分。何もかもが荒唐無稽過ぎる。
それでもそう動いている自分に違和感はない。それはまるで。
──それが使命だ、とでも言うのか? ファンタジーRPGの主人公でもあるまいに。
独りで苦笑いして軽く頭を振る。
ほんの少しだけ空腹を意識して、調達して来たカップラーメンでも食べようかと台所に向かいかけた時、電話が鳴った。
来るだろうとは思っていた。その着信音はルゥからの──0が11桁の特定者着信。
携帯で指示されてそのまま家を出る。同じ青の軽自動車をまたレンタカーで借りさせられる。
「長くなるかも知れないから、とりあえず何処かでゴハンだね」
一見すると何処かに遊びにでも行くように浮かれているルゥの言葉に従い、郊外に立ち並ぶショッピングセンターに併設されたファミリー・レストランで食事を取ることにした。この手の郊外レストランで男2人、という客は珍しいのか、ウェイトレスが少々戸惑い気味なのが何だかおかしかった。
「……で、やっぱり見に行くんだ」
お冷やで少しだけ喉を濡らしてからの言葉に、ルゥは生返事だけを返す。視線の先はずっと窓の外を向いていた。
「通るのか?」
「いずれは。まあ、まだ早いけどね」
「へぇ」
尚也にも微妙に判るようになって来た。この男はこれでも緊張しているらしい。にこにこと愛想がいい笑顔をずっと張りつけたままだけれど。
尚也も外に目を向けて、ぼんやりと車の列を目で追う。白い車は多く、通ったとしても言い当てられる自信はなかった。何せ暗い中でちらりとしか見ていないのだから。
ここをあの車が通ったら、そこからきっと何かが起こるのだろう。『真犯人』たちにとっての本番。だとしたら、ゆっくり話が出来るのはこれが最後のチャンスなのかも知れない。
「──俺、ルゥに会うのは何度目?」
あくまでさりげない風を装って尋ねる。
「初対面でしょ」
にべもない答えが返って来る。
「……いや、そういう意味じゃなくて」
「じゃどういう意味」
「確かに俺の人生の記憶では初対面だけど──でも会ってる。そんな気がしてならない。昨日からずっともやもやしてるんだ。何か……知らないか?」
レストランのBGMは有線のイージーリスニングだろうか。妙に間延びしたオーケストラが流れている。夕飯にはまだ少し早い店内は空いていて、物音があまりないだけに沈黙が余計に長引く感じがした。
「──うーん……」
ルゥの笑顔が少しだけ翳った。ようやく尚也の方に体を直す。お冷やのグラスから一口だけ水を飲む。
「この須藤尚也とは初対面だよ、ホントに。別の須藤尚也には何度か会ってるけど。ただまあ、コピー元が同じなんで、累積されてんだろうけどね、記憶が」
「……」
理解しようと努力はしたが、いっぺんで頭がフリーズした。数秒の間の後、コピー元という言葉に頭の隅の方が反応する。
「……この俺は、コピー……なのか?」
「まあね。コピーだと思ってくれたらいいよ。パラレルワールドとか、別の可能性とか、何でもいいんだけど」
もうルゥは笑ってはいなかった。グラスを無意味にぐるぐる回している。氷がカラカラと音を立てて水の中で回っていた。
「凄く単純化して言うとね、ここはワールド・シミュレータの中。本当の現実ではない」
あっさりとそう言ったルゥは、またにこやかな青年に戻っている。
「何だよ、それ……」
尚也の頭の中のもやもやは深まる一方だった。昨日までは、言葉の1つ1つが重なるごとに混乱した記憶の紐が少しずつほどけるような気がしていたのだが、今はまるで逆だ。どんどん絡まり続けている。
「俺はこのシミュレータを起動した張本人だ。駒の流れを監視して、どうなるのかその行く末を見守るのが仕事」
「……駒?」
「あの小学生だよ。リィ、と呼ばれることもある。まあこの世界にいる間は本名名乗ってはいないと思うけど」
「だから……神だと」
「そ」
尚也の頭の中に浮かんでいたのは巨大な箱庭だった。現実(だと思っている)全てのものが収められ、蠢いている箱。
「そんなことが出来るのか?」
「出来るというか、出来るようにしたんだ」
「誰が」
畳み掛けるように詰問した尚也に向けて、ほんの少しだけ面白そうにルゥは目を細めてみせた。
「須藤尚也が」
「はぁ?」
「正確に言うなら、別の須藤尚也が」
「……」
ルゥにとっては正確なのかも知れないが、尚也は諒解出来たとはとても言えなかった。絡まりっ放しの記憶のかけらが、ますますがんじがらめに自分を縛って行く。
「その須藤尚也はいわゆる社会的引きこもりでね」
ぽかんとしている尚也が面白いのか、本当に楽しそうにルゥはくすくす笑った。
「短期バイトをやっては辞めてしばらく引きこもって、またバイトをやっては辞めて引きこもるようなヤツだったんだけど、専門学校を出てたし、プログラム作るの趣味だったんだよね。短期仕事繰り返してたのも、夢はゲームクリエイターだったらしいけど。でもそんなこと繰り返してるうちに27歳──」
その年齢は今の尚也と全く同じだった。出版という業界に対して何処か夢を捨てられずにいて、長すぎるモラトリアムを抱えて転職を繰り返しているのも、ある意味では同じ。
「これを起動させるプログラムは須藤尚也が作ったんだ。歴史のある瞬間を切り取ってそっくりコピーする。その箱庭の中で色々なことが起きる。その結果をそっくり歴史にフィードバックする。基本的には世界の生成と廃棄、データのインプットとアウトプット、それしかやってない単純なプログラム。中にいる人間たちを自由に動かせる訳じゃないので、ゲームクリエイター志望には物足りなかったかも知れないけどね」
ウェイトレスがのんびりした声と一緒に食事を運んで来た。配膳される間、会話は途切れる。
ごゆっくりどうぞぉ、という声とともに彼女が去った後、食事に手をつけながら、面白そうに笑いを含んだままルゥの話は続いた。
「実を言うと、それがオリジナルの尚也だ。元々存在した歴史では尚也はそう生きていた。ただ、どうせこの時期に無職でいるのは判ってたんで、いろいろ実験に付き合ってもらったりしてるうちに、いつの間にか出版業界を志向するようになっちゃったんだよね……出てるガッコはコンピュータなのに」
確かにそうなのだ。高校の頃は何となくコンピュータが面白くて専門学校に入ったのだが、学校でも家でもネットに接する生活をするうちに、テキストを発信する方に興味が傾いて来て、卒業後は出版の世界にバイトから飛び込んだ。
「……俺は、あんたによって人生変えられちゃったわけだ……」
「変わって良かったとは思うけどな。痩せたし」
ふざけたように付け足して、本当におかしそうにルゥは笑った。が、すぐにその笑みは消える。唇の端に、余韻を少しだけ残すようにして。
「……ただ、オリジナルと言うのも、俺が知る限りは、なんだけどね。俺が尚也の存在を知る前には、ひょっとして世界を飛び回るエリート商社マンだったのかも知れない」
「随分流動的なんだな」
「歴史なんてそんなもの。今この瞬間には、50年だか100年だか前に民族主義が過ぎて大虐殺やらかす政治家がいたり、原子爆弾が日本に落っこちたりしてるけど、それもどうも誰かさんがシミュレータでデータを大量生産してそう仕向けた結果なのかも知れないんだよね……」
「ちょっと待って、シミュレータは俺が作ったんじゃなかったの?」
呆気に取られながらも、尚也が話を信じている風であることに満足したのか、またルゥはくすりと微笑する。そしてたっぷりと一呼吸ほど間を置いた後、
「俺のはね」
そう言い切った。
「……他にも、神様がいるわけだ……」
「まあ、そのシミュレータの中の人に言わせれば神、ということになるかな。実際のところは、あの人たちにとってシミュレータは一種のドールハウスみたいなものだから。その結果が本当に歴史を変えてるってことも、理解はしているんだけど重要視はしていないんだと思う」
微笑に紛れてはいるが、その口調には何処かトゲが含まれている。『あの人たち』のことを、ルゥは良く思っていないのだろうと察することは簡単だった。
「人の人生なんて、自分の人形遊びの道具くらいにしか考えてない──」
ほんの少しだけ声が小さくなる。目だけが笑っていない。視線は皿に乗った茹で野菜に向いていたけれど、もっと別の何かを思い出しているような遠い目をしていた。
その『人の人生』の中に、ルゥ自身も含まれているのかも知れない。尚也は何となくそう思った。
歴史の流れを遊びの道具にしている誰かがいて、ルゥはそれに対抗するために自前のワールド・シミュレータが必要になり、プログラムを趣味としていた自分と接触した。
この世界は、尚也の作によるシミュレータが作り出したもの。だが、このシミュレータの中で起こったことの結果は、どうやら本当の歴史の流れに影響を与えることが出来る。
尚也が混乱しながらも整理した現状解釈はそういうことになる。今ここにいる自分が本物ではないということに対して実感はなかったけれど、この自分がしたことも、本当の自分が変わる材料になるうることを考えると、コピーだニセモノだと切り捨てるわけにも行かなかった。
「──コピーされた歴史の一部、それを俺たちは『傍史』と呼んでる。それに対して、フィードバックを受ける側の、現時点での確定された歴史は『本史』……」
指先でテーブルに文字を描きながら「カタワラとホンモノ、ね」と呟くように付け加える。
「傍史は明らかに作り物だけど、本史も有形のものではありえない。常に変わっている。あの人たちも、俺たちも、いくつもの傍史を起動して、お人形さん遊びを繰り返しているからね。──特にあの人たちの場合は、一度に何百と傍史を作り出して、そのフィードバックで一気に本史をひっくり返して楽しんでたりする。俺たちはそこまでは手が足りないけど」
「さっきから俺『たち』って言ってるけど、仲間は多いのか?」
「いや。3人──2.5人、かな」
尚也は、口に出さないながらも、駒と呼ばれていた小学生を指して0.5人と計算したのだろうと何となく納得した。
「……少ないんだな」
「少ないよ。肉体を持ってるだけでそもそも不利だしね」
「……相手は、肉体持ってない?」
「うん。食べたり寝たりスポーツしたりっていう娯楽がないからこんなことにハマってるのかも」
わざとふざけた言い回しをしているが、ほんの少しだけフォークを握る手に力が入ったのが判った。ルゥにとってそいつらは完全なる敵なのだろう。和解の余地すらないほどの。
「──肉体が別人でも同一犯、か」
出会ってすぐに、コンビニで聞いた言葉だ。その時は何が何だか判らなかったけれど。ルゥはかすかに頷いた。
「それって、俺の現実で言うと霊が取り付いてるみたいな解釈でいいのか?」
少し違うような気がしながらもそう尋ねる。ルゥはわずかに首を傾げた。
「そういうのとは違うよ。……男なら誰だって、若い女の子とよろしくやりたいっつー気持ちはあるもんだからね。それを傍史を使って変な方向に歪ませれば犯罪者なんていくらでも量産出来る」
「えげつないなぁ……」
尚也は顔をしかめる。
「えげつないよ。でもそれがあいつらのやり方。この傍史の中で捕まっちゃってる犯人たちも、その意味では被害者。理性の箍を無理に外されて、犯罪に走らされてるのと同じなんだから。救いは、いつも同じ人にやらせるわけに行かないせいで、犯罪者も急ごしらえが多いってことくらいかな。計画もへったくれもない誘拐素人が多いから、それ以上の──婦女暴行だの殺人だのの罪までは、犯さなくて済んでる」
「なんで同じ人じゃダメなんだ?」
お腹が空いていたので食事は続けていたが、味はもう判らなかった。全てに対してルゥが答えてくれるかどうかはともかくとして、頭の中に浮かんだ疑問を放置しておくのが嫌で、次々に疑問系ばかりが口をついて出て来る。
「累積記憶、というのがあるから」答えた後に少しだけにやりと笑い、「これこそが須藤版ワールド・シミュレータが抱えちゃってる最大のバグ」
「……ご、ごめん」
自分が直接作った訳ではないのに、何故か申し訳なくなって尚也は頭を下げてしまう。ルゥは小さく吹き出して、慌てて水で何かを飲み下している。食べ物まで噴き出しかけてしまったのだろう。
「冗談だよ。なんてーか、肉体を持った人間が介入するバージョンだから、ある意味で仕方ないんだ。あっちの世界からのインターフェイスの問題で避けようがないっていうか……ええと、こっち的に言うなら、プログラムのバグというよりOSの仕様、という感じ」
「ああ、うん、なるほど」
コンピュータ用語で言われて感覚的に判るのは、専門学校で習っていたせいだ。
「尚也が俺を何となく知ってるのはその累積記憶のせい。何度も傍史から本史に同じようなフィードバックが続くと、その人間は、体験したことがないのに何故かそれを知ってるような錯覚を起こす。デジャブ、予感、人によって呼び方は違うけど」
──それが今の俺の状態なんだな。
尚也はフォークの先を口に突っ込んだまま、納得して何度も頷いた。
「今回のダミー誘拐の犯人さんたちはほとんど、今回が初犯のはず──シミュレータ的にもね。犯罪者素質が本史で確定されるくらいに繰り返してしまうと、『神様』側で用意した機会よりも先に、自力で少女さらってどうにかしちゃうかも知れない。あと、犯罪の機会は実際1度なのに、累積記憶のせいで妙に手際が良くなっちゃうとそれも困る。拙くてすぐバレる誘拐を量産するのが目的なわけだから」
自分で話しながら1つ1つを確かめるようにルゥは小さく頷いて、それからもう残り少なくなったライスにフォークを突き刺し始める。
「……って言うか、そもそも、」
なんで誘拐の量産なんてことが必要になるのか。
尋ねたくなって息を吸った時、ルゥはちらりと腕時計を覗いて、大口で残りのライスを平らげ始める。
「時間ないから続きは車で」
口の中いっぱいに詰め込みながらも、いつも通りの笑顔で言葉を話せるのは才能かも知れない。尚也は苦笑しつつも頷いた。
※
ドリンクで少しだけ休憩した後に車に戻る。その間も、ルゥは嫌がることなく尚也の質問に応じて説明をし続けてくれていた。
「この世界は須藤版のプログラムで起動されてるって話はさっきしたよね」
「ああ」
「俺たちは、『本命』とされている木下由紀って女の子が誘拐され、隣県の山の中に捨てられる歴史を改竄するためにこの傍史を起動したんだ」
「──」
その女の子は何者なのだろう。ルゥにとって須藤尚也という存在が特別だったように、その少女もまた何かしら特別なのだろうか。
「で、無関係な女の子を誘拐してるあいつらは、そんな俺たちの改竄を邪魔するために、俺たちが傍史を起動するとそこに割り込んで来てる」
「……相手にとって、木下由紀の誘拐は必要なことなのか?」
「そ。例によってお人形さん遊びだよ。由紀の誘拐は、あいつらにとってはちょっとした──」
突然の沈黙。咳かくしゃみでもするのかとしばらく待ってみたが、何も聞こえて来ない。
信号に引っかかった合間に、横目で窺う。暗い中で表情が明らかに歪んでいるのがちらりと見えた。
「ルゥ?」
「──ごめん……ちょっと思い出したくないこと思い出して」
それまでの浮ついた雰囲気のルゥにしては珍しい、何処か沈みきった泣きそうな声。
「……話したくないなら、無理に話すことないけど」
「……」
ルゥは音を立てないように細く長い深呼吸を何度か繰り返していた。
「……まあ、要するに、」
そう言ってからもまたしばらく黙っていた。
こうまでこの男が「感情的」になるのは、この数日間のうちで初めてだった。へらへらと笑ってばかりだったのだが、その笑顔の裏には何かが隠れているだろうことは──累積記憶ではなく──何となく気づいていた。
この由紀という少女の誘拐が本史に確定してしまうことによって、ルゥ本人、あるいはルゥの大切な誰かが、本史の先の方で、ルゥを涙声にさせるほど悲惨なことにでもなるのか。それを阻止するためにこの男とリィという小学生は戦い続けている、ということなのだろう。尚也の累積記憶にぼんやりと固定されるくらい、何度も。
ルゥは落ち着きを取り戻したのか、軽く咳払いしてまた話を再開した。
「……その、この傍史では木下由紀って子なんだけど、別の傍史ではそうじゃないこともあるんだ。あいつらにとっての『本命』は、由紀という個人ではなくて、由紀の上に存在する『可能性』だから」
「……可能性」
「うん。傍史が起動された時点で、そのまま時間が流れた先を見て、どうすればあいつらが望む未来に出来るかということを、あいつらは見通せる。時間の流れを──えーと──例えるなら年表みたいに、平面的に把握出来るんだよ、彼らは。で、まあ、別の人が傍史でフィードバックしたデータやなんかのせいで、木下由紀を誘拐すれば望む結果になると判れば、彼女をターゲットにする。別の少女の方が望む未来に近いってことなら、その子をターゲットにする。何人か候補はいるけど、一番いい結果になるのは、一番楽なのは誰なのか、それは傍史を起動して動いている人間をある程度流してみないと判断が出来ない」
「……そうなんだ」
巨大な箱庭を覗き込む巨人。彼らは自らは人形に手を触れることなく、生活している人形を望む方向に動かそうとする。
その人形が自分たち。生きた人間。その命の価値ですら、巨人たちにとってはゲームの駒と同等なのだろうか。
「ただ、時期がこの辺りであることは動かせないんで、俺たちはこの時間軸をしらみ潰しにコピーして、彼らが起こした『本命』の誘拐を特定して阻止して、本史にフィードバックすれば良かったんだ。ここ日本では、似たような日程でそうそう何度もあちこちで誘拐事件が起こったりはしていなかったから、特定は簡単だった──最初の何度かはね」
車はどんどん県境に近づいていた。斜め前方に黒い山影が見えて来る。
「それを特定させないために、その相手はわざと無差別に誘拐を起こして、こっちを撹乱させてる、ってわけだ」
「そういうこと。だから一度は本史の方でも誘拐はなかったことになりかけたんだけど、結局またひっくり返された」
「本史は、傍史の通りに変わるものなのか?」
「……とも限らない。どんなフィードバックであれ、最終的にそうなることを選択するのは本史で生きている人間だからね。俺たちが起動しているシミュレータシステムは、人を洗脳するための宗教とは違うから。ただ──」少しだけルゥは息をついで、「ある特定のフィードバックが多ければ多いほど、本史の人間たちはそこに引きずられる。それは、こっちの世界でフレーミングとか呼んでる現象に少し似てるかもね。──周りから憎まれ、悪口を言われ続けて育った人間は、どうせ自分なんか悪い奴だからって悪事に走る。褒められて育った子供は、自分の長所に自覚的になり、その才能が伸ばされる。そんなことよく言われてるだろ」
「……ああ、確かに」
「だから、安全策のつもりなのか、異常なくらいの数の誘拐が引き起こされる。そして、傍史自体もたくさん起動して、異常な量の誘拐が起こる現象そのものまでも本史に定着させようとしてるんだ。ただ俺たちを撹乱するためだけに──無関係な人間を巻き込んでまで、ね」
最後の言葉は窓に向けて吐き捨てるように呟く。
そのまま少し話し疲れたようにルゥは黙り込んだ。ぐんぐん大きくなる山を見ながら、尚也も運転に集中しようと思いつつも、頭の片隅でぼんやりと浮かんで来る考え事を止めることは出来なかった。
ルゥの話を聞く限りでは、『あいつら』のしていることはひどく非人道的だと思う。ただ、多分、ルゥと『あいつら』のいる世界では、こちらの世界の人道は通用しないのだろうな、とも思う。
神様、というたとえをルゥは使ったが、ルゥが見ている『神様』と人間の関係は、ある意味、この世界での人間と家畜動物の関係に似ているとも言えなくもない。
さすがに何度も同じ歴史を繰り返すなんてことは出来ないが、命がどう使われるのか、その可能性を家畜動物たちは自分で選ぶことは出来ない。人間の道具として、モノとして、駒として、量産され、使い捨てられる。生き方のコントローラを自分たちで握ることが出来ない存在。希少な野生動物のように、死というコントローラを奪われる動物もいる。もちろん、植物たちにとってもそれは同じだ。
ただ、人間の側はそんなことを意識していない。
多分この感触なんだと尚也は思った。その『あいつら』という存在にとっての人間は、人間にとっての家畜のようなものなのだろう。そういうものだと思っているから、ことさらに罪悪だとは思っていない。
ただ、その人形たちが意思を持ち、反抗して来ている。だからそれを制御しようとする。こちらの世界の人間が、屠殺場に引かれて行くのを嫌がる家畜に対して、大人数で力尽くで引っ張って行こうとするのと、感覚的には一緒なのかも知れない。
スキー場の名前が書かれた案内看板がぼんやりと照らし出されている。何となく、昨日連れて行かれた(運転したのは尚也だが)あの山が現場なのだろう、と把握している。それが累積記憶のせいなのか、ルゥが反対しないので昨日と同じ場所に向かってみているだけなのか、尚也の中では見分けがつかない。
でもいずれにせよそこなのだろう。ルゥの視線の先も山に固定されている。
角を曲がって山に向かう。もう真っ暗になった空は冬の冴え冴えとした星空を見せている。
「……とにかく県を越えさせない」
ルゥの溜息と同時の言葉が窓を曇らせる。
「……その前にあいつを車から引っ張り出せれば、介入を断ち切る手段はある」
ほんの少しだけ、その声に焦燥の色が含まれているのが、尚也には判った。
そうか。と今になって納得する。彼らはひょっとしたら、ここ最近、誘拐を事前に阻止することが出来なくなっていたのだろうか。この山に自然とやって来たのも、現に今起こってしまっている誘拐から彼女を助けるためなのか。
山道を昇り始めて10分くらいは経った頃、ルゥは車を停めさせ、山壁に近づく形で端に寄せた。ちょうど緩やかなカーブの手前。
昨夜の位置よりはだいぶ山深くに入っている。ここからは頂上近くのスキー場までほぼ一本道だ。ところどころに逸れる道はあるのだが、大抵はすぐに行き止まり、リゾートホテルやらペンションやら貸し別荘やらが出迎えてくれることになる。この山にはそれ以外に見るべきものがあるわけではない。
紅葉は終わってスキーには早いこんな時期には、通る車はほとんどいない。犯罪でもやらかそうかという人間にとってはうってつけ、という言い方も出来る。
尚也はエンジンを止める。何となく、ここでしばらく待つのだろうと思ったからだ。その行動にルゥは口を挟むこともなく、相変わらず窓の外を──とはいえ、今回は自分の座る助手席側ではなく、運転手側の外を──じっと見据えている。
「ブログ、ここからでも更新出来るよな」
目だけがちらりと尚也の方を窺う。
「……出来るけど」
「彼女にメッセージをあげたいんだ。自分が救われることに希望を持っていて欲しいからね」
薄闇にぼんやりと照らし出されているルゥに、またいつもの浮ついたような微笑が戻って来ていた。
PDAと携帯をつなぐ。通信を確認する。スキー客のためなのか、この辺は元々、山にしては電波の入りはいい方だ。あっさりとつながったのを確認してブラウザを立ち上げる。
アクセス。管理パスワード入力。新規記事の作成画面。
「──最後の被害者は高校生でイニシャル『Y』」
ルゥの歌うような言葉をそのままスタイラスで書いて行く。まさか文章を打つことになると思わなかったので、キーボードは持って来ていなかった。
「その少女がさらわれることで『真犯人』の目的は全て果たされる」
──向かうのは、彼女の住む街からまっすぐに西。
──山と県境を越えて、彼女は救われる。
──それで終わる。恐らくは今日のうちが、明日に少しだけかかる程度で。
ふう、と、少しだけ肩から荷が下りたような溜息がルゥの口から洩れた。
「……由紀さんが、これを見るのか?」
「見るよ。そのブログは携帯から読むサービスついてるでしょ」
「そうだけど」
意図して選んだつもりはなかった。知り合いの会社が運営していて、何かの折には使ってやってよ、とURLを渡されたのをたまたま覚えていただけで。
「公開してあげて。そうすればほどなく彼女も目にすることになるから」
ピ、と軽い音を立ててタップする。PDAの画面の中で「公開完了しました」の文字がするりと表示される。
「どうやって知るんだ? 由紀さんが」
「メールマニアの友達と、そのまた友達のおせっかい野郎のおかげで」
喉元だけで少しの間くつくつ笑っていたルゥが、尚也に軽く手を上げてみせた。
「ゴメン。ちょっとメール打たせて」
「はあ?」
自称神様は、ポケットから携帯を引っ張り出して来た。スライド式の端末をかしゃんと音を立てて開くと、ぽつぽつと楽しそうにキーを叩いている。
「……もしかして、そのおせっかい野郎ってルゥ本人?」
「いいだろ、女子高生のメル友」
そういう問題じゃないだろ。尚也は口に出しかけたが、それより先にルゥの口が動いた。
「来るよ」
木の葉がすれる音に混じって、わずかに聞こえて来るのは確かに車の音。2人は運転席の外を凝視する。細く小さい光が音とともに大きくなる。
車種も色もヘッドライトの逆光で確認は出来ない。光はやがて2人の車を過ぎて、そのまま真っ直ぐ上を、そして県境を目指している。
「あれか」
「だね。多分間に合ってると思う」
ルゥはスライド携帯を元に戻すと、ポケットに突っ込みながら小さく頷いていた。ブログのことなのだろう、と尚也は思っていた。
「追うか」
「どうせ分かれ道はないよ。少し距離を置いて尾ける」
尚也はエンジンを始動した。まだ日を越えるまでにはかなりの時間が残されていた。
※
一陣の強風が車を煽った。尚也は危うくハンドルを取られかけて慌てて減速する。
「……何だ今の」
「駒だ。……もしかしたらうまく行くかも知れない」
ルゥの顔にはもう笑みがなかった。言葉の割にはもどかしげな口ぶりだった。
ほんの少しだけアクセルを踏み込む。ルゥが制する素振りがないのでそのまま距離を詰める。
曲がりくねった山道の先にテイルランプが見え始めた。その光は、異常な動きをしている。
確かにこの辺りの道は細かいカーブが多いが、それでもあんなに揺れる必要はないはずだった。
車が蛇行運転をしている。運転手は酔っているのか、それとも由紀とつかみ合いにでもなって手元が疎かになっているのか。
どっちにしても危なっかし過ぎる。あのままではいずれ事故につながりかねない。左手には上に切り立つ落石防止ネットの張られた崖が立ちはだかり、右には低いガードレール1枚ごしに谷底が控えている。転落したらよほど運がよくなければ生き残れない。
「……ルゥ、あれじゃ誘拐より前に殺されるよ、彼女」
尚也の言葉にルゥは答えない。ただ目の前に手を伸ばして来た。静かにブレーキを踏む。言葉には出さなかったが、尚也の解釈は正しかったようだった。
暗闇の中でふらふらと遠ざかるライト。それをちらりちらりと遮る影がある。
「エンジンを止めて」
ルゥの声は極限の緊張を含んでいて硬かった。従ってキーを捻る。
光が見えなくなってからも、1度視界に捉えた影は尚也の視界でまだ動いていた。フラつきながら、時々転びながら、それでも必死に動いている。その大きさは人。小柄な女性くらいだろうか。
青白い街灯の輪の中に入った時、全身が露わになる。
距離はまだ顔ははっきりするほどには近づいていない。制服を着ている。ショートボブの女の子。髪型と制服のデザインには見覚えがある──あの日、公園でカラスに乗っていた子だ。口元から激しく白い息が立ち上っているのがかすかに見えた。そのまままた闇に紛れてしまう。
「彼女──助かったのか」
「もう少しだな」
ルゥの言葉は、緊迫しながらも何処か突き放すように冷たい。それは確かに神の言葉なのかも知れない、と尚也は思う。『下界』で起きていることを見守るつもりはあっても、決して自ら手を下すことが出来ない立場──だとすれば『駒』と呼ばれたあの小学生はさしずめ天使か。神の使いとして人間に手を下しに来る──。
再びの白い光。彼女の背中を刺すかのように。犯人の車が戻って来たのだ。
照らし出された少女は必死に遠ざかろうとする。車はほんの少しだけ彼女を追い越して止まる。ヘッドライトが尚也たちに向いていなかったのは幸いだった。薄青い街灯の下で男が車から降りて来るのが見えた。彼女ともみ合っている。
次の瞬間、2人の視界を、犯人の車のボンネットを飛び越して何かが横切った。
釣られてその方向に尚也が目を向ける。ボンネットに仁王立ちしている影がある。小学生くらいの男の子。あの公園で、あの少女と一緒にカラスに乗っていた少年に似ていた。
少女と男のもみ合いは、横切った影のお蔭なのか、もう終わっているらしい。よろけながらも少女が少しだけ車から離れた。
その隙間に、少年が下りる。振り上げられた手の先で、何かがきらりと光った気がした。
「……おい、ありゃまさか」
「物騒なことはしないよ。どんな人間だって、死という情報は本史にフィードバックするにはデカ過ぎる。あれはあいつらの接続ラインを切っただけ」
さっきまでとはまるで違う口調でルゥはすらすらと言葉を継ぐ。
「近づくよ。多分あの子は消えてるはず」
「それで成功なのか」イグニッション・キーを回しながらの尚也の言葉に、
「消えてればね」ほぼ確信しているかのように、にやりとルゥは笑っていた。
ゆっくりと近寄って、静かに停車する。茫然と立ちすくんでいた少女──木下由紀が2人の車に気付いて顔を向けた。
ルゥが車を降りたので、尚也も続く。
少女は何かを思い出したようにきょろきょろと周りを見回している。ルゥはちらりと車の陰を覗き込んで、満足そうに頷いた。
少女はまだ探している。ふらふらと車を迂回して、ガードレールの向こう側まで覗き込むように見回している。
尚也にも理解出来た。──いなくなっているのだ、あの小学生が。
「成功したんだ」
尚也が独り言のつもりで呟いた言葉に、ルゥの声が返って来た。「したね。ギリギリだったけど」
成功、とルゥは言った。さっきは独り言のように県を越えさせないとも言っていた。だけど、木下由紀の誘拐そのものを止められた訳ではない。
話を聞いた時、尚也は漠然と、この女の子が誘拐される歴史を改竄するためにルゥたちが動いているのだと考えていた。──が。
これをして成功と彼が言うのなら……目的は誘拐の阻止ではなく、彼女がこの日この時間に県を越えることの阻止なのだろうか?
「……これで良かったわけ」
何かが割り切れない。尚也はもやもやしたままルゥに言葉を叩きつける。
「まあね。でも多分、本史の方からすれば蚊が刺したくらいの刺激にしかならないと思うけど」
少しだけ小さくなった声は、あの時と同じトーンだった。思い出したくないことを思い出した、そう呟いたあの時と。
何が目的であろうと、たかが1度の『成功』では目的には程遠いのだろう。相手もまた、改竄された歴史を戻すために手を講じて来るのだろうから。
「……気が長い話だ……」
「だから記録が必要なんだよ。書はこの世界にとっては呪術だ。呪術がかかれば蚊が刺したって致命傷になりうるからね」
「呪術ってよりマラリアじゃないか? そりゃ」
「ははは」
わざと軽々しく笑ってみせるルゥの目は、それでも限りなく真剣だ。記録こそが呪術──中の人でなければ残らない、という言葉をぼんやりと尚也は思い出す。
フィードバックされるのだろうか。自分の記録も、本史の中に。
「尚也」ルゥは少しだけ目を細めた。柔らかな微笑は変わらない。
「タイムリミットはあと2日」
傍史は消えて、後に残るのは本史に送られるためのデータ。このシミュレータは、その時を持って消滅するのだろう。
「……わかったけど……何を記録すりゃいい?」
「見たままだよ。いつもの通り」
事実を淡々と記録して残す。その記録は呪術なのか。本史に渡された時に、人々がこの傍史を選ぶための材料になるのだろうか。
由紀という少女は、まだ道路をあちこちふらつきながら2人の方に戻って来た。
「この子はどうする?」
尚也の声と重なるようにルゥは言葉を継いだ。
「警察に任せるよ。それが一番自然だし」
少女は一瞬だけ、何かを考えるようにぼんやりとルゥの笑顔を眺めていた。ルゥもふわりと優しい笑みを返す。尚也が見てすらどきりとするほど、その微笑は甘い。甘ったるい、とさえ見えるほど。
──まるで恋人に向けるかのような。
何気なく思って、ほんの少しだけ何かが腑に落ちた気がした。
彼が守ろうとしているもの。それはとてつもなくロマンチックなことなのかも知れない。それをせっついて聞き出してみたい気もするが、何となく例の笑顔でかわされて終わりになるような予感──もしかして累積記憶か?──がする。そんなことを考えたのがおかしくて、尚也は小さく笑った。
その耳に、唐突に犬の鳴き声が飛び込んで来た。由紀は弾かれたように駆け出して犬に飛びついている。ユウ、と呼びかけるのが僅かに聞こえた。
「……飼い犬?」
「さっき横切ったの、あれだね。リィが最後に、記憶の矛盾を吸収するために置いてったんだと思う」
「記憶の矛盾……」
「リィは消えてるんだ。本史にフィードバックされた時、彼女を助けたのは飼い犬だった、ってことになってる。多分、仔犬の時から飼ってることになるんじゃないかな──このフィードバックを彼女が選択すればの話だけどね」
遠くから、静かな夜には不似合いなけたたましい音が近づいて来た。──パトカーのサイレン。
「誰か通報したのか?」
「そうみたいだね。とりあえず目撃者になっとこうよ。この時間にここにいたことの言い訳を何か考えといて」
「……俺が?」
「2日後には俺もいなくなってるから。ケーサツの皆様の記憶も、由紀ちゃんの記憶も、犬の記憶も、それから尚也の記憶も」
「……」
忘れるのか。この数日彼に振り回されたこと全て。ただ、うっすらとした累積記憶として感じるデジャブ以外は全て。
だとしたら。
それもまた記録しておけばいいだけじゃないのか。どうせ妄想だとしか捉えられることのない記録だと最初から割り切っていたのだから。2日あれば書くことは出来るだろう。やらなければならない仕事があるわけでもない。
残さなければ。残して渡さなければ。どうしても。次の傍史の自分のためにも、彼が守ろうとしている誰かのためにも。
自分がしたことが消される。ただこの男が目指していることのために使われて捨てられるシミュレータのデータの1つでしかなくなる。本来の歴史と関係ない場所で足掻いて終わるだけなんて。それは、何となく悔しい。
もったいない、と思う。たとえ掃いて捨てるほどあるブログの1つであるとしても、自分はこの時代に生まれて表現する手段を手に入れているのに。
そんなことを考えついてしまってから、ふと気付く。
──ああ、と何となく尚也は理解した。だから須藤尚也は累積記憶に囚われたのだ。ただのコンピュータおたくだったのに、歴史を繰り返す中でテキストを残したいという考えに捕まってしまったのは、こんな思いを何度も何度も味わってしまったせいなのだ。
心の隅で少しだけ苦笑する。それは結局、この男の駒としていいように使われてしまっていることと同義なのかも知れない。
──でも。
もう戻れない。あと2日。いずれにせよこの残された時間は、そのためにだけ用意された時間でしかない。
「──尚也」
ルゥはまだ笑っていた。だがその笑顔は少しだけ歪んでいる。まるで何かを堪えているように。
「大丈夫」
ルゥが何を言おうとしているのか判然としないのに、尚也はそう答えていた。
歪んだ微笑が、ほんの一瞬だけ泣き顔に傾きかけてすぐに戻った。
俯いて深呼吸。近づいて来た人々を見上げた顔は既にいつもの笑顔。尚也もまた、取り繕う言葉を頭で模索しながら警官たちに向き直った。
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