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 リィは目を覚ました。──覚ましてしまった。 「──」  真っ白な天井を睨みつけたまま、何度か深呼吸を繰り返す。自分が息をしていることを自覚する。手足を動かす。まばたきをする。 「──まだ生きてんのかよ……」  絶望したように呟いてから、ゆっくりと身を起こした。  横たわっていたそこは、真っ白なベッドの上。真っ白な床と真っ白な壁がリィを取り囲んでいた。  そもそも、この部屋にはモノがない。便宜上ベッドと呼んだそこも、正確に言うなら、ちょうどベッドくらいの高さと大きさで、床がたまたま盛り上がっている場所、ということになる。  その近くには、ちょうど椅子くらいの高さと大きさでたまたま盛り上がっている床も存在する。  その2つの盛り上がりは、気が遠くなる時間をかけて作り出されたものだ。  この世界は、そもそも物質というものに対して関心がなさ過ぎる。肉体で生きていない住人たちの世界である以上、仕方ないことなのだけれど。  ベッドや椅子が欲しくても材料がない限り、床や壁をどうにかするしかなかった。尤もそれ以前に、床や壁や天井を作り出すまでがまた大変だったらしい。リィはまだその頃、生まれてすらいなかったので詳しいことは判らないが。  真っ白な部屋は、中にいる分にはただ真っ白いドームに包まれているようにしか感じない。継ぎ目や隙間というものが全く見えないからだ。 「……起きてたか」  何処にあるのかリィ自身にすら把握できない入り口から、にょっきりと男の頭だけが覗く。毎度のことだが、白い壁に生首が貼り付いているみたいで不気味なことこの上ない光景だった。 「起きちゃったよ」はあ、と溜息をついてリィは立ち上がった。「……ったく。何であそこでスドーくんが出て来ちゃうかなあ……。あれがなければ今度は事前に阻止出来ると思ったのに……」 「今回、勘が良かったねぇスドーくん」  首だけ出したままでにこにこと笑う男は、傍史の中ではルゥと名乗っていた。 「嘘つけ。手引きしたクセに。じゃなきゃあんなピンポイントで特定出来るわけないっしょ」 「ありゃ」 「ありゃじゃなくて。邪魔しに来んなら出て来なくていいから」  頬を膨らませて拗ねているリィに向かって、ルゥはやっと全身を現した。ベッドもどきの隣の椅子もどきに腰を下ろす。 「あのさリィ」ふてくされている少年を優しく説き伏せるような声だった。「多分今回くらいの流れがベストだって。俺としてはアレを本史に固定したいくらい」 「……誘拐させんの? わざわざ?」 「うん」ルゥはにこやかに笑ったまま、それでも目だけは何処か射るように鋭かった。「履き違えてないよな。問題なのは、『可能性』が県を越えることであって、誘拐されることじゃない」 「……」  判っているつもりだった。  リィたちがすべきなのは、彼女が県を越えないようにすることであって、誘拐されないようにすることではないのだ──本来ならば。  でも、とリィはどうしても考えてしまう。そもそも、何の関係もない少女が、単に歴史をゲーム化しているヤツらために誘拐に巻き込まれるなんて理不尽この上ない。 「同情してたらキリないよ。彼女の誘拐を理不尽と言うなら、他の時代に他の場所で被害に遭っている子たちはどうなるんだ? 俺たちとは関係ないとはいえ、その子たちの誘拐だって理不尽であることには変わりないだろ。それ以外の事件事故はどうする。戦争で殺された人たちは? その全てを救うなんてことは出来ない。俺たちに出来ることは限られてる」 「判ってる」 「なら考えろ。今回のはいいサンプルになったと俺は思う。連発誘拐が起こること自体を本史から削除するのはもう無理だ。あいつらの量産体制には追いつけない。だから、最後の一線だけで出来ることを考えた方が早い。俺から言わせりゃ、事前に『可能性』の前に現れる必要性だって感じないんだけど」  笑ったままよくそんなこと言えるよな。リィは心の中だけで悪態をつきながらルゥを見上げていた。  そうなのかも知れない。守ろうとする必要がないならば。  それでもリィは、傍史に降りるたびに会おうとしてしまう。守ろうとしてしまう。警告せずにはいられなくなる。  ──それはもしかしたら……会いたいからなのかも知れない。  いずれの『可能性』も、その血の先につながるのは、顔を知ることは出来ない自分の母親だから──。 「……あのさ親父」  リィにそう呼びかけられて、ルゥはかなり露骨に嫌そうな顔をする。 「確かに遺伝上は父親だけどさ、オヤジってのはやめて欲しいんだけど。お前の言葉って呪(しゅ)なんだから。いつかホントにおやぢにさせられそうで怖いんすけど。せっかくこの若さを保ててるのに」  その顔はふざけているだけのようだ。そう確信してリィはベットから飛び降りる。 「……かあさんに、会ってもいい?」  その言葉に対しても、ルゥは嫌そうな顔をする。ただその顔は、ふざけている表情とは違う。  ルゥは、滅多にリィの母親には会いに行かない。会えば辛いのだろうとは、リィにも想像がつく。  でもリィは、傍史から出て来た後は必ず会いたくなってしまう。母親は自分を認識してくれるはずがないのは判っていても、それでも。  ルゥはのろのろと立ち上がる。白い、ただの壁にしか見えない場所に、ルゥは進んで行く。この部屋の作者であるルゥには入り口が見えるのかも知れないが、リィにはただ真っ白に潰されている壁が立ちはだかっているようにしか見えない。  これが把握出来るようになるためには、ルゥと同じくらい生き続けなければならないのかも知れない、と何となく思う。それが何千年なのか、何億年なのか、直接尋ねてみたことはないのだけれど。  この世界にいくつの部屋があるのか、リィは正確に把握していない。ルゥが必要になるたびに少しずつ区切って部屋を作っていたらしいとだけは聞いている。  その割には使っていない部屋がいくつもあったりするのだけれど、聞いてもルゥがちゃんとした答えをくれたことは1度もない。この『父親』は、のらりくらりとつかみ所のない言葉ではぐらかすのが得意中の得意なのだ。  この白い空間は、どのぐらい歩いたのかすら、リィにはその距離感すらも掴めない。廊下をひたすら歩いた先に、その特別な部屋はある。  真っ白い部屋の1つ。中に置かれて──いや、浮いているのは、一見するとグロテスクな肉の塊。  それが、皮膚や骨や他の内臓を失ってなお、人間を製造する機械としてだけ生かされているリィの母親。  『あいつら』が、ほんの気まぐれに人間という生き物を発見してしまったために、その素質を探り当てられて選ばれてしまった存在。彼らには肉体がなく、生殖という生態も持ち合わせていなかったために、最低限必要な部品として取り出されてしまった女性の生殖器官一式。  それがどういう仕組みで生命活動を維持しているのか、リィには判らない。ルゥも恐らくは理解していない。この世界が、歴史的な意味での時間から切り離されているが故に、生きているように見えるだけなのかも知れない。  ただ、永久器官としてのみ生きることを強要された『女神』。彼女は死ぬ権利を剥奪されている。それを彼女が自覚することがないのは、救いかも知れない。同じく死ぬ権利を剥奪されているリィは、時々その運命にどうしようもない苛立ちを感じることを止められない。  ルゥは、リィをこの部屋まで案内しただけで、部屋の外で待っている。  リィはゆっくりと近づいて行く。浮いている高さはリィの腰辺りで固定されている。ぺたんと座り込んで、ようやく『対面』することが出来る。  その器官は時々ほんの少し身じろぎする。それが息子への「挨拶」なんだろうと、リィはそんな風に解釈することにしていた。  彼女に意思はない──少なくとも、伝えたり解釈したり出来るだけの意思は。  それでも。リィは会うたびに心が均されて行く気がしていた。安らぐという言葉ほどには、柔らかくも甘くもないのだけれど。この時間が、リィは好きなのだ。  ──ルゥは、彼女をこの運命から救い出すための方策をずっと探して来た。  彼女が「選ばれて」しまったのは、その血の中に言魂を操る力が隠れていたからだ。  彼女の生きた時代に於いては、もう発現する必要がなく退化してしまった力。それでも人間という生き物の限界を突破しそうな異能者を見つけた彼らは、動物の突然変異種を見つけた人間と同じように彼女を拾い上げ、歴史から切り離した──彼らから不要と判断されたものを全て外された挙句に。  ルゥは途方もない時間をかけて彼女の家系を特定し、途方もない時間をかけてその家系に割り込んだイレギュラーポイントを探り出した。ある時点から、その血が濃くなる方向に意図的に歴史が捻じ曲げられている。その切っ掛けが、『可能性』の誘拐。正確には、県を越えた山中で放置されて見つかること。  その事件を皮切りにして、『女神』とその先祖は脈々と血筋をコントロールされ続けることになる。  それは動物や植物の交配実験と変わらない。支配する層にとって都合のいいように人間が作り変えられた、ただそれだけだ。箱庭の中で蠢くしかない存在になった瞬間から、そう生きる以外に選択肢はなくなっている。彼らにとって唯一の誤算は、膨大になってしまったフィードバックが生み出したひずみを通して、意図せずに歴史の外側に放り出されることになってしまったルゥの存在。  リィには、そしてルゥ本人にも、そしてあいつらですら、ルゥがどうやってここへ来てしまったのかは判らなかった。それ以前にどうやって生きていて、どういう素性を持った人間だったのかも、ルゥは全く覚えていなかった。  ここに来てしばらくは、何も判らないまま茫然としていた。ただがらんとした真っ白な空間にいきなり放置されている。それ以上のことは理解出来なかったのだ。  そのうちにルゥは、ある人の助けもあったのだが、この世界のインターフェイスを把握し始める。考えること。世界を解釈すること。これだけが、この世界で出来る行動の全て。この世界で物質をコントロールする方法は唯一、規定することだ。物凄く時間はかかるが、規定することが変化をもたらせることにも、やがて気付いた。  その時からルゥは自らを規則(ルール)と呼ぶことになる。今のところはそれが彼の『本名』。ただ、他人から(特にリィから)そう呼ばれることはあまり望んではいないので、代わりにラベリングしたのがルゥという音だった。  ルゥがどうやって彼女を──リィの母親を彼らから奪還したのか、それも詳しくはリィは知らなかった。尋ねてみたことはもちろんあるけれど、ルゥは話したがらなかった。  彼女がそもそも生み出されなければ。あいつらが改竄してまでやろうとした『交配実験』を根こそぎ止められれば。そもそもリィですら生まれることはなくなるはずだ。  だからリィは自分が生きていることを自覚するたびに絶望する。繰り返される傍史への介入は、完全に成功する時にはリィ自体も消えているはずなのだから。  白の部屋から白の廊下へ。そしてまた別の白の部屋へ。ルゥのガイドなしでは未だにリィは歩けない。道筋は歩くたびに変わっている。頭の中でマッピングしても、次の機会にはそれが一切役に立たなくなる。 「……ルゥ、あのさ」  またベッドに戻って来たリィは、言いにくそうに口ごもっている。 「あいつらが入って来るのが最近早い気がするんだよね……」 「だね。あっちも学習してるってことでしょう」 「このまま……続けていても大丈夫なのか?」  繰り返される傍史への介入とフィードバック。どうしても、数が少ないことは致命的だ。頑張って成功例を1つだけ作り出したくらいでは、本史が変わるほどのインパクトが作り出せないことは既に証明されてしまっている。 「察しがいいよねえ。さすが俺の息子」  にこやかに笑うルゥは不気味だ。笑顔自体は人当たりよくソフトなものだけれど。これが出る時には何かを隠してやがるのだということを、リィはよく知っている。 「……やっぱやり方変えるの?」 「そうしようかな、とは思ってる。スドーくんのお蔭で何となく目処もついて来たしね、色々と」  傍史の中で彼が接触し、スムーズにアシストしてくれるまでにコミョニケイションが取れているのは須藤尚也という青年しかいない。本来の歴史の流れからスピンアウトしてしまっているルゥにとって、スドーくんこと須藤尚也の存在は特別だ。  多分、尚也にはルゥが普通の人間のように見えているはずだし、声も普通に聞こえているはずだ。傍史が起動され続けている限り、その存在を一貫したものとして捉えることが出来るのは、シミュレータ創作者である彼だけにもたらされた一種の才能なのだが、本人は気付いていない。  彼以外の目には、ルゥはひどく不確かな存在だとしか映らない。そこにいることは理解出来ても、その存在を次の瞬間にまで記憶出来るほどには覚えていられない。形も、声も、電車の中や街角で、たまたますれ違っただけの他人と同じようにしか、他人の意識には入り込めない。  それは、ルゥの存在がそもそも本史から抹消されてしまっていて、その歴史だけは今のところどうしても取り戻せないからなんだろう、とルゥ自身は言っていた。ルゥが誰の記憶にも残らないのが、現時点での本史での確定事項なのだ。 「変えるったってどーするの。まさか由紀のご両親にでも介入して、そもそも彼女が生まれないようにしちゃうとか?」  その手の可能性は今までだって何度も考えて、そして諦めている。運命の恋を邪魔するのはげんなりするほど難しいのだ。こればかりは、ヘタな物語のたとえじゃないが、まさに強力磁石みたいなもので、必死に離そうとしてもすぐに引き合ってしまう。 「いや、そんな野暮はしませんて。あくまでこっち側で決着つけて次へ進むよ」 「決着? 何の」  ルゥは爽やかに笑っている。その笑顔が晴れやかであればあるほど、リィの不安は増大する。決着というその言葉ですら、妙に不穏なものを感じさせる。 「まあ、そんなわけで」  ベッドに座っていたリィの肩を、労わるようにルゥが叩く。 「おつかれさま、理(リィ)」  『本名』を呼ばれたのは久し振りだ──それがリィの最後の記憶になった。  ※  ぱしゃん、と湿った肉塊が床に叩きつけられる音がした。  この音を聞くのがもう何度目なのか、ルゥは覚えていない。覚えてしまうのが怖いのかも知れない。1人1人のリィたちのことを全て記憶していたら、普通の人間ならもうとっくに気が狂っているだろう。  ──まあ、俺はもう普通の人間とは到底呼べないけど。  話しかける相手がいないので、ただ内心でだけひとりごちる。苦い笑みがひとりでに広がるのを抑える努力もしなくなる。  子供であれば考えなしにがむしゃらに理念を振り回してくれるかな、とはぼんやり思っていた。だから10歳にした。多分その意図は成功した。  ──でも。あの年頃の子供だと、母親の面影追いかけちゃうんだろうな、自然に。  誤算ではなかった、と思う。『女神』と接触して、彼女を救い出そうとするという流れは、最初からルゥも考えていたことだから。  ただ繰り返すうちに、データとして必要なのはそこではないことが見えて来てからは、邪魔になるかも知れないとは思っていた。  それでも終わらせることにためらっていたのは、他の手段について探りを入れる時間が欲しかったから。  ──「必要なもの」の断片は揃った。ターニングポイントの時期までに、ブロードバンドの普及と携帯ネットワークの整備が間に合ってくれていたのは、ある意味では奇跡的なことだった。  20年ズレていたら、出来なかったかも知れない。でも。  今の本史なら、そこにはインターネットがある。ルゥは頭の中でスイッチを押す。実体はなくても、規則(ルール)が起動を命ずれば、それは動き出す。  ただのシミュレータ。介入されることのない傍史。今の時点で確定された歴史の可能性。  必要なのはデータ。劣化のないコピーの量産。隠されたキャッシュ。無駄に打たれるトラックバック。何でもいい。蔓延さえしてくれれば。匿名のままの須藤尚也が、真犯人とか黒幕とか謎の組織とか囁かれても、接続情報を開示されて捕まっても、それでも構わない。必要なのはデータだ。テキストだ。噂。都市伝説。妄言。創作小説──あるいは犯罪者。  ルゥの目の前で、リィは徐々に形を失って行く。絵の具が滲むように。最後まで残っていた瞳は、憎むよりも憐れむように自分の『父親』を見上げている。  ──忘れてたかい? 我が息子くん。君が生まれた時に、俺は話しているはずなんだけどな。いずれはこうなるってことを。  答えが返って来るはずはない。白に溶けて行く。薄らいで行く肉体という存在。それでも気配はとろとろと部屋の中に渦巻いたまましばらくは消えない。  ──チェシャ猫みたいだな。  その名前がいつも頭に浮かぶ。残るのはいつも感情だけだから。声帯や舌や唇といった器官もなくなっているから、言葉には残らない。あるリィは怒り、あるリィは泣き、あるリィは恨む。全てが消えるのは、ルゥがリィを忘れた時とほぼ同時期。  残された部屋の数だけ、ルゥの中にはまだリィがいる。リィのことを忘れた時には、部屋もいつも間にかなくなっている。  ここの世界の在り様は、結局規則(ルール)にだけ支配されているのだ。理(リィ)はいくら正しくでも、規則(ルール)から外れる限り、そこに居場所は存在しない。  それでも理(リィ)は必要なのだ。それは、ガチガチに規定(ルール)された世界を壊すことが出来る唯一の起爆剤だから。  もう顔すらも覚えていないかつてのリィたち。断片的な言葉だけが、その肉体が消えるのと同じように記憶の中で薄れて行く。  『女神』たちの年齢では、その周りに、必ずと言っていいほどメールがやたらに好きな友達がいる。その子たちは、メモリに登録されている名前がどういう知り合いだったかなんていちいち覚えてはいない。500件のメモリいっぱいに名前が並んでいるような子なら、そのうち1つくらい別の名前が紛れ込んでいたって、たいていは気付かれない。  それでも、メールが着信した時に、それがメモリに登録されているアドレスであると判れば、話をつなごうとしてくれる。どんな関係だったかなんて、思い出させる必要すらない。彼女たちだって思い出そうとなんかしないから。  ユータはそんな子を選んでメル友になる。適当に話を合わせる材料ならいくらでも傍史から拾えるから。その後は記録に引っ張り込めば役割は終わり。突然返信が来なくなっても、やっぱり彼女たちは特に気にしない。それでいい。  記録は。  流された傍史の、ほんの少しだけ先を広げてみる。  書くことにうなされた須藤尚也がそこにいる。朝倉ナミが『可能性』に選ばれてしまったら、自然と彼はその事件を自らの足で追いかける。目撃証言の奇妙な一致。犯人たちはいずれもまるっきり動機がないこと。時には誘拐を犯したという自覚さえないこと。追いかけるうちに見えないコントローラの存在を捨てられなくなる。黒幕。謎の組織。ただ女の子たちの間で囁かれるだけの都市伝説。彼はパソコンの前で自分の(そう自覚してはいないが)累積記憶と格闘する。これは組織された誘拐だ。物理的に結託することなどありえなくても、それでもつながっている。つながっているという内心の囁きを無視することが出来ない。答えをネットに求め、自らもネットを媒体にして吐き出して行く。その結末は──  ──知る必要はない。トリガーは全て揃っている。朝倉ナミが選ばれなかった時に、ほんの少しだけ背中を押す必要はあるかも知れないけど。  累積記憶が強過ぎるが故に、自分でも意識しないままに全てを知ってしまうことになる記録者(レコーダー)。彼はもう、その本史から外れることは、多分出来ない。  うまくその累積記憶を昇華する手段を得てくれたら、とは思っている。ルゥもある方向を意図してはいるのだけれど、本史の須藤尚也がそれを選択してくれるのかどうかは、まだ判らない。多分1000回を軽く越える実験が必要だろうな、と、ルゥはぼんやりと考える。 「あろーは」  白い部屋のベッドもどきに寝転がったまま傍史を覗き込んでいたルゥの耳に、いやにあっけらかんとした声が滑り込んで来た。  ちらりとだけ目を向ける。必要以上に大きな目が、ぱちぱちとわざとらしいまばたきをしてルゥを見下ろしている。  見た目は子供っぽい少女。痩せてはいるけどバストだけはちょっと発達し過ぎ。甘ったれた声。ふわふわしたピンクの巻き毛を揺らしている。ミニのワンピースもサーモンピンク。人さし指に突っ込まれたCD-ROMディスクらしき円盤をくるくる回しながら遊んでいる。  ──苦笑しか出て来ない。 「帰って来たよぅ」  ひょこひょこと頭を揺らしながらルゥの返事を待っている。 「……なんでわざわざそれモードで出て来るわけ」 「んー、このまま順調に行くとこのカッコはもう出来ないかなーなんてちょっと思って、久々にやってみたっ」  片足を上げてみたり腰に手を当ててみたり、何やらポーズを取ったりしている。 「……好きなの?」 「そゆわけじゃないけどねっ」 「っていうか、それ、スドーくんにすら引かれてたよね」  初代のね。心のなかだけでひっそりと付け加える。 「好きだと思ったんだけどなー、こーゆーの」 「いくら二次元コンプレックスだって、社会的におかしくなってない限り、そんなのが実際に現れたら引くでしょ……テレビやパソコンの画面に出て来るならまだ許容範囲だけど」 「んー、そうかー、人間ってフクザツー」  口元に指当てて拗ねて見せる。さっきまでおもちゃにしていたディスクはいつの間にかなくなっている。  ルゥは反動をつけて上半身だけ起き上がった。ほぼ同じになった目線で少女をしばらく眺める。にこにこしながら相変わらずほんの少しだけ揺れている。 「……懐かしくはある、かな」  『初代』須藤尚也に最初にコンタクトを取ったのはこの少女だった。物凄く引かれてたけど。その後にルゥが会いに行った時に、ルゥが普通の人間っぽかったのでホッとした、と言わしめるぐらいドン引きだった。  なんだかんだ言って、この人も、歴史に点在する『可能性』たちにちょっかいを出すのが好きなんだろう。その性格は『あいつら』と同じだけれど──というより同じ一族なのだけれど──少なくとも断りもなく実験材料にするようなことはしない。 「あのさ。もしかしてもう私、出勤しなくて済むでしょ」  揺れたまんまで少女が言う。 「それは本史次第だけど──多分」 「少なくとも、もうリィは造らないつもりでしょ」  少しだけルゥの手がびくりと動く。 「造らなくて済むと思うか?」  造るという言葉は実際的確なのだけれど、それでも小さく刺さる違和感は抑えられない。  手からじわじわと震えが広がって行く。自分にとって使える手駒がそれしかなかったからとはいえ、今まで自分の都合だけで造り出して来た様々な顔たちが、ふと現れては消えて行く──最初の頃のリィのことは、もう顔すらも覚えていないのだけれど。 「ルゥにも負担がおっきいからねぇ、リィがいると」  うんうんとしたり顔で頷き始めた少女に、ルゥは力ない微笑を向けた。 「──それモードだと話しづらいよ。ヘンにテンション使うから疲れる」 「キース?」首を傾げる。 「が一番かな」  ルゥが呟くと同時に、少女はふつりと姿を消した。  代わりにそこに立っていたのは、モノトーンの男。一気に身長が高くなる。 「……これはこれで話しづらいかも」  ルゥの見上げる視線に答えるように、傍史の中でキースと呼ばれていた男は、すとんとその場で床に腰を下ろした。片膝だけを立てたその姿勢は、いつでも立ち上がれるという準備でもある。 「──で、どう思う」  体中が何処もかしこも少しずつ震えていた。もしこれがうまく行くなら、これまで何万回も繰り返して来たことに成果が出るのだとしたら。期待はしてはいけないと思いながらも、どうしても上ずる声を止められない。 「機は熟しているかと」  冷静に言い切られるのがルゥには心地良かった。全身からふわりと力が抜けて行く。 「──介入していいよ。見て欲しい。あとはもう少しだけ尚也のブログを派手に動かしたいけど、──」  一瞬だけルゥは顔をしかめる。介入される瞬間のわずかな違和感は、慣れたとはいえまだ無視出来るほどではない。 「──表に出過ぎるとあっちに気付かれるし。どの辺りが限界?」 「ネットの中にいる限りなら」  キースは静かに目を閉じたまま即答する。 「紙はだめ、ね」  ルゥは自分の中にいる尚也に語りかける。 「ただ、しばらくは──」  感情のない男の声は、数瞬だけ言葉を探していた。 「ナオヤは犯罪者扱いされる」 「それは覚悟の上。でも証拠は何も出て来ないよ」 「それでも、彼はつらい思いをする」  少しだけ、傍史の中で可能性をシミュレーションしてみる。誘拐の終焉を予告してしまったが故に謂れのない疑いに苦しみ、誘拐事件に対する自分が感じている異質なデジャブに苦しむ。原因不明の被害妄想は、器質的な問題がないだけに何らかの心の病と診断され、社会復帰の道がどんどん閉ざされて行く──そんな可能性も、確かにある。 「昇華させるよ。何処かで、必ずね」  尚也がここにいたら、これもまた人形遊びだと軽蔑されるのかも知れない。結局ルゥのやろうとしていることだって、尚也に対しては何千回か苦行を与えることになってしまう。  ──ただ、あいつらとは違う。少なくとも、アフターフォローもなしに時間軸の外側に放り出すようなことだけはしない。  心で呟いた時、ずきりとした痛みと共に彼女を思い出す──アフターフォローもなしに、時間軸の外側に放り出されてしまった女神。 「──彼女にも報告して来る」  立ち上がって伸びをするルゥに、キースはあくまで冷静に答えた。 「彼女は話されても判りません」  彼は正しいことしか言わない。だからこそ話し易いのだけれど。  判ってるよ、と答える代わりに軽く手を振る。キースはすっとその場に立ち上がるが、すぐにその姿を白に溶かして消えて行く。  元々は肉体を持っていないが、必要な時にだけ実体を現す(ように見える)存在。キースも翔もピンクの少女も「餌」と呼ばれた美少年も、リィを撫でていた「かあさん」も、全ては同一人物だ。彼(あるいは彼女)は、見つけた人間という生き物に仲間たちとは別の興味を抱き、自らルゥの所へ飛び出して来た。  ルゥにとって、今のところ敵であるあいつらの生態のことや、この世界の在り様について、多くの情報は彼(あるいは彼女)から得ている。  彼(あるいは彼女)が実体を持つ時の呼び名は、全てリィ(たち)によってかけられた呪(しゅ)だ。リィ(たち)は人や動物を名で縛る。姿や性質までもその一瞬で規定する。それは、『女神』の遺伝子の中で発動されるのを待っていた忌わしい力でもあり、使い方によっては最強の武器にもなりうる力だった。  ただ本人(?)は、使い捨てられる予定だったピンク巻き毛少女モード──リィは『規定』だけして名を与えていない──が何故か気に入っているらしいが。  彼(あるいは彼女)が、本当はどういう目的でこちら側についているのか、それはルゥにも実のところはよく判っていない。ただ、彼らの仲間とこちらの仲間では、世界を認識する方法からしてまるで違うように見えるのに、それでもこちら側にするりと馴染むことが出来ている辺り、もしかしたら元々向こうでは相容れないと感じていた異端者だったのかも知れない。  その意味ではルゥと彼(あるいは彼女)は同質の存在なのだろう──この真っ白な世界に自分を適合させることが出来る人間だって、もしかしたら珍しいのかも知れないのだから。  白の壁を通り抜ける。いくつものリィたちの余韻を閉じ込めたままの部屋を過ぎて、一番奥にいる『女神』の所へ。  さっきまでのリィと同じように、その前に座り込む。  彼女の存在感は変化している。長過ぎる試行錯誤のそれが結果だとルゥは知っている。じわじわとした変化が判るたびに心がしめつけられる。喜びでもあり、せつなくもある。  彼女は消えようとしている。  実体はまだそこにあっても、時折ルゥの意識の中で存在が消えそうになる。完全に、そこからいなくなってくれないとゴールではないけれど、それでも、第一歩が確実に始まっている──。 「お別れだね」  声に出してルゥは囁く。 「やっと、加速出来そうな方法を見つけたから」  彼女には見えなくても、それでも微笑もうとしてしまう。涙が流れ落ちそうなるのを、防ぐために。 「やっと、この監獄から君を解放してあげられる──」  ──それが生きがいだった。この真っ白な世界で、正気を保つために出来ることの全てだった。  それが──  ──たとえ『あいつら』がルゥのために投げ込んだ、新たなゲームだったとしても。  むしろそうであって欲しいと、時々思うこともあった。彼女を助けられたら、この傍史は終了するのかも知れない。新たな可能性というアウトプットだけを残して、自分もろとも消されてしまう。後には何も残らない。  いつまで続くのか判らない生を抱えて生き続けているなんて、ただの傍史であればいいのに。  ルゥは笑う。笑いながら全精神力を総動員して傍史を作り出し続ける。その中でコピーされ、蔓延して、はびこって行く漠然とした不安感を煽り続ける。実際には何も起きていなくても、人々は不安に陥って行く。全ての人間に存在する薄紙のような累積記憶は、それでも積み重なって行くことで何かが変化する。  記録は積み重なり、『可能性』たちは警戒する。警官、『可能性』の家族、近所の人々、たくさんの人間が生み出すたくさんの不安感は、いずれは『あいつら』の量産体勢さえも超えることが出来る。  『あいつら』が同時に介入できる数には限りがある。でも、累積記憶──こちらのシミュレータにしか存在しない、イレギュラーな「仕様」によるエラーデータを消す手段は、誰も持っていない。  白の世界は、やがてゆっくりと彼女を飲み込み始める。  強過ぎる光が物の形を崩して行くのにそれは似ている。  自分の瞳に映るその変化を、ルゥはすぐにでも忘れようと努力する。彼女がいたことそのものも、ここに残るべきではないのだから。全ては、消えるべきなのだから。  部屋を出る。出来る限り遠くに離れていよう。また1人の日々が始まる。概念と思考と理念と、そして規則(ルール)しかない世界に。  それでいいのだ。それを望んでいたのだ。全ての人間は、有限の時間という歴史の中に閉じ込められる方がいい。  ──人は知るべきではないのだ。永遠なんて言葉の、本当の意味を。
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