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epilouge.
今日が休みで良かった。木下由紀はそうしみじみと思っていた。
あるいは、ユウがあえて休みの日を選んでくれたのかも知れないなんて思ったりもした。
彼は幸せだったんだろうか。小さな従弟と引き換えのようにこの世に生を受け、勝手にその従弟の身代わりにされて由紀に育てられて。今はもうそんなことはないけれど、小さな頃は彼が人間であってくれればいいのになんておかしなことをよく考えて、一人で泣いていたっけ──。
「由紀、葬儀屋さん来てくれたよ」
叔母の声は少しだけ涙ぐんでいた。
13年は、最近の寿命からすると短命だったと思う。でもまるで、タイミングを図ったように彼は逝った──由紀が20歳になった、その直後に。
大人になるまでそばにいてやれよ。彼の名の由来である従弟の優(すぐる)にそう言われたのかな。ありえないとは思いながら、そんな風に考えると何となく腑に落ちるような気がしていた。
ペット専門の葬儀社に依頼して、ユウを火葬する。小さなペット用の骨壷に収まった彼は、自宅に埋葬することに決めていた。
法律的には、それを埋葬とは呼ばないんだろう。モノ扱いだから、ただ単に自分の土地にモノを埋めたに過ぎない。
それでも、そばにいて見守ってくれているようで何だかホッとする。墓石みたいな大袈裟なものは作らず、ただ石を少しだけ積んで目印にした。
「……穏やかだったね」
夕刻、叔母が、手を洗いリビングに戻った由紀に声をかけて来る。
「うん」
「なんだか由紀の休日を待ってるみたいだった」
「私も同じこと考えてたよ」
「……そう」
泣き笑い。お互いにきっと同じような顔をしてるだろうな、と思いながら、由紀は叔母の顔を見ていた。
さほど大きくはない庭だけれど、ユウがいなくなり、犬小屋を片付けてしまうと、がらんとして変に広く感じる。また犬を飼おうかとちらとは考えるけど、仕事もだんだん忙しくなって来ていて、こちらの家に越して来てからは、散歩も叔母が連れて行くことが多かったくらいだから、もうダメだろうとも理解はしていた。
すっかり暮れた夜は少し寒い。もうすぐ梅雨に入るせいか、何処か空気は湿っぽいのだけれど。
夕飯が出来たと呼ぶ声に、由紀は部屋に入る。叔母の作るカレーライス。女2人だけの食卓は、今年で4年。
誰かの、あるいは何かの死に突き当たるたびに思ってしまう。平穏な日々がいつまでも続くなんて幻想なのだと。
由紀は、たまたま自分が死ぬ側に回ったことはまだないけれど、それでもいつかは死ぬ。叔母にしてもそれは同じ。
怖いな、と思う。両親の死に接しているだけに身近だというのもあるが、それ以上に由紀は2度ほど死を覚悟した経験がある。
1度目は、両親と一緒に巻き込まれたバスの事故。あの時は何故自分だけが助かったのだろうと運命を恨んだりもしたけれど、今となってはそれすらも想い出の1つになっている。
そして2度目は──。
「……まだ誘拐なんてしようとしている人がいるのね……」
TVニュースを見ながら叔母が呟く。由紀も目を向ける。また同じような誘拐事件──犯罪としては最も効率が悪いものだと言われているのに、何故こんなことが繰り返されるんでしょうね。そんなことを生真面目に話すキャスターに、叔母が頷いている。
「また携帯のGPSが効いたのかしら」
「みたいね」
由紀も常にポケットに携帯は入っている。取り出してくるりと裏返してみせる。
独特にロゴデザインされた「E」の文字が刻印されたボタン。それは、カメラに続いて最近携帯各社が端末に取り付け出して、売りにしているエマージェンシー機能。
ボタンを押せば、予め登録されたメールアドレスと最寄の警察に、GPS情報と最低限の個人情報、及び緊急連絡先が送られる。警察はその通報を受けて、連絡を取ってそれがイタズラでないことを確認すると、すぐに携帯会社の専門部署に連絡をする。以降は、それを発信した携帯の位置情報は一定間隔ごとにモニタされる──たとえ端末の電源が切られていたとしても、そのためだけに微小な電波を発し続ける。
パトカーは全車、その位置情報をリアルタイムに受信出来るシステムを積んでいる。もちろん勝手にモニタすることは許されないが、いざという時はその情報に基づき、移動しているターゲットの近くにいる車が向かい、犯人を迅速に捕獲出来るだけのシステムは揃っている。
そんなものを開発しようと思うのも凄いと思うが、それを全携帯端末に装備したり、通報用のシステムを一気に開発して全都道府県の警察に導入させたりしたのも凄いと思う。その「E」ボタンしか存在しない、通報専用の安い携帯端末も市場にたくさん出回っていて人気がある。それだけ子供の誘拐が多発して問題意識が膨れていたということなのだろうけど。
電源を切っていてすら常に居場所を探られる。一昔なら嫌がる人も多かったのだろうけど、今となっては誰もそんなことを気にしていない。そういうものだと思っている。
由紀自身も、そのシステムに助けられた経験を持つ1人だから、ある種の必要悪と割り切れる。そして、そんな経験を持つ子供たちは、世の中に異常なくらいに多いのが昨今なのだ。
大抵の誘拐は、被害者を殺すまでに至っていない。それでも、由紀は自身が誘拐された時、殺されるのではないかと覚悟した。それが、2度目の命の危機だ。
近所に買い物に出た時にいきなり車にぶつけられた。青年は気を失った由紀を病院に連れて行くフリで車に積み込んで、そのまま隣の県まで逃げようとした。由紀は途中で目を覚まし、「E」ボタンを使って通報した。
途中、犯人は何かでフロントガラスを塞がれて蛇行運転になり、その隙を見て由紀は車から脱出した。犯人の車はその後で山にぶつかって止まり、立ち往生しているうちに警察に追いつかれて捕まった。
後から聞いたことだが、フロントガラスに貼りついていたのは飼い犬のユウだった。犯人が車から降りた後も果敢に襲いかかり、警官が着くまでずっと犯人に食いついていたのだそうだ。
訓練もされていないのに不思議だと警官は言っていた。由紀もそう思う。由紀が連れ去られたと悟って車に飛び乗って、人がいない所で(つまり他に被害者が出ない場所で)犯人の運転を妨げて由紀を逃がし、犯人を拘束する。まるで由紀を助けるための手順を知っていたかのような行動。
それまでは、お手やおすわり、待てぐらいしか芸の出来ない普通の犬だった。そしてそれ以降も、別に特別頭がいいという訳でもない普通の犬だったと思う。あの時だけ、由紀を救う時にだけ、彼は全てを悟っていたように動いていた──不思議な犬だった。
当時由紀は17歳。誰にも言ったことはないけれど、その時ばかりは、絶対にユウには優が取り憑いているに違いないと思ってしまった。訓練を受けた警察犬ならいざ知らず、ただの雑種の飼い犬にそんなことが出来るなんて思えない。
幽霊なんかのオカルト話は信じていないけれど、それくらいは信じてもいい。信じたい。由紀は今でも、そうだとしか説明がつけられないと思っていた。
「それにしても、何が楽しくて誘拐なんてするのかねえ」
叔母の口調は少しだけ緊張していた。やはり彼女も思い出したのだろう。
「……そうだね」
「捕まった犯人たちの動機って、滅多にニュースじゃ伝えて来ないよね」
「うん」
それが何故なのかは何となく判る。由紀をさらった犯人も、結局動機らしい動機は最後まで口にしていなかったと担当刑事から聞いたから。自分でも判らないとはぐらかしたり、病院に行く気だったしとへらへら笑っていたり(でも明らかに最寄の病院からは離れるルートで走っている──それはモニタされていた位置情報からも明らかだ)。
まだ若かった刑事さんは、「最近こんなのばっかりだ」とウンザリしたように由紀の前で口走っていた。つい漏れ出した本音だろうと由紀は理解していた。本当にそんなのばっかりなのだろう。だからニュースでは誰も語らない。
それはまるで一種の病気でもあるかのようなのだ。誰もが突発的に女の子をさらいたくなる。原因も、治療法も不明。救いは再発しないことくらい。
「だからこそ携帯GPSがこれだけ普及したのかもね。さらう方をどうにかする手立てが見つからないから、被害者が自衛するしかない……」
「世知辛いわねえ」
食べ終えたカレーの皿を片付けながら、叔母が溜息をつく。
確かに世知辛い。けれど、ここまで誘拐がカジュアルになってしまうと、そうしない訳には行かないだろう。TVのニュースで誘拐やその未遂が報じられない日はないくらい、それは日常化してしまっている。さらう方だって、やっても無駄だし、何が目的であるにせよ割の合わないことだというくらい、そのニュースで判りそうなものなのに。
やっぱり病気なんじゃないかなあ。
由紀もそんなことを考えながら食卓を立ち、後片付けを手伝うために皿と共にキッチンへと向かう。
また明日からは仕事だ。ユウにわふわふと見送られることがないのはちょっぴり寂しいけれど、落ち込んでばかりはいられない。多分、20歳になるまでユウを通して見守ってくれていた優も、そんな由紀は見たくないと思う。もう顔もおぼろげにしか覚えていない従弟のことを思い出し、由紀はほんのりと胸が温かくなる心地がしていた。
※
須藤尚也の携帯が鳴り出したのはアパートに辿り着く直前だった。ちらりと開いて確認した着信が、年の離れた姉の歩美だったので、部屋に入ってドアが閉まってもそのまま鳴るに任せておく。電気を点けてエアコンのスイッチを入れてから、尚也はやっと電話を取った。
「尚也」
姉の声は電話越しでも判るくらいに震えている。明らかに、何か悪い知らせを運んでいる。
「……とりあえず凪に替わるから」
微妙に抑えられている怒りが伝わって来るだけに怖い。何かやらかしたかなあ、と保留音のビートルズの合間に考えてみるが、一向に思い当たる節はなかった。
「おにーちゃーん」
年の離れた姪にそう呼ばれるのは非常に気が抜ける。慣れてはいるのだが。溜息と一緒にベッドに腰を下ろして気のない声で生返事を返す。
「モデル料もらっちゃおーかなぁ」
にやにや笑いが目に見えそうな声。後ろで歩美が、何言ってるのそういう問題じゃないでしょ、とか何とか文句言ってるのが聞こえて来る。
モデル料。解釈するまで一拍あってから、意味を考えるまでまた一拍。
「──あー」
思い出した。もうかなり昔のことなのに。それと同時に少しだけ顔が熱くなる。ありゃ若気の至りですってば、と言い訳しかけて飲み込んだ。
若気というほどの年でもないか。当時既に27だったんだし。
「読んじゃったのか……」
「読んじゃったのよ」
得意げにない胸張ってるのが思い浮かぶ。本人に言ったら殴り倒されること必至だけれど。
「まさか凪が小説読むとはねえ」
「どーいう意味ですかそれは」
「……いや言葉通りだけど」
「おにーちゃん見くびってますねアタシを」
「おお見くびるなんて言葉何処で覚えたの?」
「うわムカつく」
笑い声が遠ざかる。どうやら受話器を奪われたようだ。
「あのね尚也」吐き出すように話し出したのは姉の声だ。「だって、アレ、まんまじゃない、まるっきり」
「でも誰も気付きゃしないと思うけどなあ……」
「見る人が見たら気付くでしょうが! 現に清彦さんとちょっと喧嘩になりかけたんだからねっ!」
清彦さんは歩美の夫だ。
「……なんで? 義理の弟が小説書くのが喧嘩するほど嫌なのか?」
「違う。ホントにあったことだって誤解されたの。何も相談しなかったのかって詰め寄られたのよ」
「……あの、ちょっと」
「なに」
「義兄さんが、読んだの? アレ」
「読んだわよ。ってか、一部で有名だったらしいじゃない。アタシは知らなかったけど」
本当に一部なんだから、知らなくて当たり前だ。義兄にも姉にも読まれることなんて想定していなかった。だからこそ、凪の設定をかなり借りて書いたのだから。
紙で出版するならともかく、媒体はネットだった。その時点でケータイ小説なんて巷にいくらでも溢れていた。原稿料は出たが大した額ではなかった。知り合いの、携帯用コンテンツ・プロバイダ会社の社員に打診されて、物凄く気軽に引き受けてしまったに過ぎないのに。そのサイトでだって、トップページで宣伝されるようなメインコンテンツ扱いではなかったし。会員登録しなくても読める無料メニューのひとつに並んでいるだけのひっそりとした作品だったのに。
第一、連載終了からもう2年は経っている。バックナンバーとして今でも確かに読めるのだけれど。
「とにかくっ」
歩美のその怒り方は、本気で怒ってるというよりむしゃくしゃしてるのをぶつけているという感じがした。夫婦喧嘩なんて滅多にしないから虫の居所が悪いのだろう。
「清彦さんから電話行ったらちゃんと説明してよねっ。こんなの超メーワク」
「判ったから……ゴメン、ほんとゴメン。姉さんたちの目に留まるようになるなんて思ってなかったんだ、ホントに……」
必死で謝り倒してどうにか電話は切れた。
深呼吸してベットに寝転がる。もう自分の中では過去のものになってしまっている携帯小説──書いたのは3年前だ。
当時多発していた、動機なき謎の誘拐事件。そのニュースを見ているうちに、それまで小説なんて書いたこともなかったのに、何故かある1つのプロットが頭に浮かんで離れなくなった。
誘拐される少女の視点。誘拐する側の男の視点。いくつかの事件を、2つの視点を切り替えながら進む物語。物語に登場する犯人たちはいずれもはっきりした動機を持たないように見える。が、背後に潜む『黒幕』はインターネット上にいて、実は全ての誘拐がある1つの組織なき組織によってコントロールされている──。
あまりの激務で出版社をちょうど辞めていた時期に、尚也はその小説を書き始めた。そして、知り合いに何となくそれを書いていることを打ち明けた。知り合いは興味を持って読んでくれて、その上でウチのサイトで載せてみないかと誘ってくれたのだ。
小説は偶然にも、当時起きていた誘拐事件とシンクロするように携帯サイトで展開された。そのお蔭で、江藤直樹(尚也のペンネーム)は小説家なのかその『黒幕』本人なのか、なんて問い合わせがサイトのメールアドレスに溢れ返った、と聞いている。
もちろん尚也は黒幕なんかではない。そもそもそんな組織が裏にいるという設定自体、全くの創作だ。実際の犯人たちは、そんなコントローラに踊らされていた訳ではなく、それぞれ好き勝手に誘拐していたに過ぎないだろう。
だが、あまりに犯人たちに動機がなさ過ぎるので、もしやその小説に影響されたのではないかと警察までが疑いを持ち、任意同行を求められたことがある。それが一部に知れてしまったお蔭で、変な意味で有名になってしまったのだ。
まあそのお蔭でその携帯サイトへのアクセスは増大したので、知り合いは結果的に感謝されることになるのだが……しかし何だか、スキャンダルで人を呼び込んだみたいで、後味としてはあまりよくない結果になってしまった。
小説に登場するいくつかの架空の事件の中で、被害者の1人としてナミという少女が出て来る。現実の尚也の姪は浅倉凪、小説では朝倉ナミ。彼女の事件は黒幕の正体が明らかになるきっかけを作る重要な事件で、その周辺の設定は微妙に細部を変えながらも確かに凪を模していた。
凪本人は誘拐された経験はない。ただし、凪の友達でその謎の誘拐に遭ってしまった子がいる。凪は、その事件の直後はやはりかなり誘拐を恐れていた。尚也に、その友達の経験を知る限り話してくれてもいた。そして尚也が書く小説の中の事件も、その凪の友達の話の一部が使われていた。
だから凪本人は一番よく判っているだろう。自分の友達と自分自身がこの小説のモデルとなっていることを。そして義兄も思ったのかも知れない。凪が実際に誘拐に遭ったけど、すぐに解放されたために自分には何も知らされなかったのだと。
それだけリアリティがあったのだとすれば、それは書いた側としては嬉しいことだ。しかし、それまで書いた経験なんてまるでなかったために、身近なところにモデルを求めてしまったのは、確かに迂闊だったかも知れない。
今反省してもどうしようもない。もうだいぶ経ってるからとっくに時効だと思っていたのになあ、とまるで犯罪でもやったみたいに尚也は考えた。
ぼんやりと天井を眺めていた耳にまた携帯の着信が入った。ディスプレイに並ぶ名前に驚く。当時携帯サイト連載中の連絡用にと教えられた例の知り合いの携帯番号だ。
なんてタイミング。もしかして裏で謎の組織がいてコントロールでもしてるのか? 苦笑しながら通話ボタンを押す。
「久しぶり、元気だった? 江藤センセ」
「センセはやめなって……小説だってあれしか書いてないんだから」
「いや、もうセンセになりますよ、これからは」
「……なんで?」
変に浮かれている。尚也の頭の中で嫌な予感がぐるぐる回り出す。
「あのさあ、例の小説、」
言葉が切れた後、ぐふふ、と妙な笑いが聞こえて来た。
「ある会社から出版を打診されちゃったんだけどなー」
うわぁ。
声に出さないまま尚也の口が動く。それと共に、頭の中の嫌な予感がさらにスピードアップする。
──それはだめ。紙はだめ。あくまで媒体はネットでなければ。
そんな言葉が何故か一度喉元に引っかかる。でも次の瞬間には、「やだ」と声にしていた。
「うわソッコー否定っすか」
「ソッコー否定です。絶対だめ」
「どーして? もったいない」
理由を考えてもいなかったのに、まるで用意されていたかのようにすらすらと言葉が出て来た。
「書いたからには読んで欲しいからさ。佐藤さんには悪いけど、俺のって課金なしで公開されたでしょう」
「うん」
「あれがね、良かったんだ。まあパケット代は別としても何の対価もなく読める物語。紙の本になると、いつかは絶版が来る。作品はそこにあるのに、絶版という区切りで過去のものにされる──それが耐えられないんだ。電子データである限りはその心配がない。佐藤さんトコが閉鎖されたら、俺は自分でブログかなんかで公開し直すと思う──それやっていいって言ってくれたよね」
「──うん、言ったけど……でも、どーして? 作家になりたくないの?」
「あれ以外の話は俺は書かない。俺が書くべきなのはあれだけだから」
言ってしまってからはっとする。──俺、何を言ってるんだ?
「……須藤?」
電話の向こうも明らかに不審そうな声になる。
「書くべきって……どういう意味?」
……それは尚也も聞きたかった。言葉にしてしまってから、何故かそうだったのかと気付いた。
書かなきゃならなかったのだ。自分は。これを。どういう訳か、あの連続誘拐を知った時、そう何かに急かされたような気がして、パソコンに向かったのだ。
「……ごめん、言葉を間違えた。俺、プロじゃないし。書きたかったのは、あの話だけ。そういう意味」
奇妙に落ち着いて嘘をつく。電話口で相手はしばらく黙り込んでいる。
「あのさ」
「うん?」
「あれ、事実だなんて言わないよな。お前、ホントに黒幕なの?」
「そんなわけないだろ」
尚也は即答した。笑い飛ばした。
胸の中で何かが騒いでいる。思い出すべきではないことを、自分は思い出そうとしているのではないか。そんな異様な思考が頭の中に引っかかっている。
「だよなー」
向こうも笑った。そして、重ねるように出版の意思がないことを確認すると、本当に残念がりながら電話を終わらせた。
──電話が切れた途端に、蠢いていた胸騒ぎも引いて行く。尚也はぱたんと携帯を閉じてわざと大きな溜息をついた。
そんなことがあるわけがない。あの誘拐事件の時期に、あの小説を、しかも紙ではなくネットで、世に出すのが自分の義務だったなんて。
──それが使命だった、とでも? ファンタジーRPGの主人公でもあるまいに。
自嘲気味に考えてから吹き出してしまった。まさか。そんなことを考えるなんて──もう子供でもないのに。
ちらりと時計をみる。もう日付が変わりかけていた。
一時期、あの小説のお蔭で自営業もどきを経験したが、今の尚也は普通のサラリーマンに過ぎない。明日もまた仕事だ。早く生活に戻らなければ。
あの小説を出版したくらいで、印税生活って訳にも行かないだろうしな。
そんなことを想像したことすらおかしくて、尚也は一人でくすくすと笑っていた。
(...The end of a story.)
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