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遠くをバイクの音が通り過ぎていく。
眠れないのは、階下から聞こえてくるテレビの音のせいだと思っていたが、それもとうに消えた。暗いなかで、もう何度目かもわからない寝返りを打つ。
(明日はぜったい仕事を探しに行かなくちゃいけないのに……)
焦る気持ちのまま、訪れない眠りを待ち続ける。両親も寝室に入ったのだろう。家の中はなんの音も無い。
ぜんぜん眠れない。きっと昼間あんなに寝てしまったせいだ。遠くからまたバイクの音が聞こえてくる。さっきから同じところを往復しているようだ。
すこし外を歩いてきたら、気が紛れるだろうか。
布団に半身を起こす。窓に目をやると、外には暗い夜がある。昼間は光のなかに出たくないと思った。いまは外へ出ることが心地よさそうに感じる。
そっと布団を抜け、携帯の明かりで着替えると、音をたてぬように階段を降りる。
外へ出てみると、住宅地は夜の中で静まりかえり、明かりの残る家は数えるほどしかない。
駅へ向かって歩く。街路灯が坂道に等間隔に並んでいる。前方に灰色がかった黒い夜空と、その手前に輪郭の薄れた駅前マンションが見える。あたりは完全な無人で、自分の足音だけがついてくる。さっきまでのバイクの音も消えてしまった。振り返ってみると、街路灯をバックに一頭だけの恐竜が黒いシルエットに見えている。もしも人間が絶滅したら、ここはこんな風になるのか。
下り坂が終わって、駅前の道にぶつかった。駅にも明かりはなく、北口と南口をつなぐ連絡通路にだけ最低限の照明を残している。駅に隣接する整備基地も、今夜は稼働していない。
(やっぱり誰もいない)
そう思いながら角を曲がったとき、マンションの敷地に高校生くらいの五人組がたむろしているのが見えた。
シャッターの降りたミニスーパーの前。男子が三人しゃがみこみ、横にはバイクが一台止まっている。わずかに離れた壁際では、女子がふたり小声で話している。女子のひとりはこんな時間だというのに制服姿のままだ。
(絡まれたりしないよな)
一瞬よぎった不安のあと、ああいう連中ってどんな話をしているんだろう、そう思った。
自分はこれまで親や教師に逆らうようなことをしてこなかった。中学の頃は些細なことにムカつくこともあったけれど、だからといってタバコに手を出したり、勉強を放棄するようなことはしなかった。そんな態度をとったところで、なにも変わらない。むしろ立場が悪くなって余計にイラつくことになる、そう理解していた。そして、クラスの何人かを、そんなこともわからないバカな奴ら、そう思って見ていた。やるべきこともしないで、自分勝手な振る舞いばかり、自分はあんな奴らとは違う、そう思っていた。
なのに、いまの自分はどうだ。つまづいた就職活動を投げ出し、アパートにこもってずっとゲームばかりしていた自分。卒業さえできればいいと意欲もないまま大学へ通い、バイトなんて勝手に辞めてしまった自分。やるべきこともせず、周りに迷惑をかけて、自分勝手に生活してきた、この三カ月の自分はどうだ。
頭ではわかっていた。どんなに辛くても就職活動を続けるべきだ、と。そうしなければ結局不利になっていくだけだと、わかっていた。わかっていたのに、どうしてもできなかった。
中学の時のあいつらはどうだったんだろう。あいつらも、本当はわかっていたんだろうか。やるべきだとわかっていながら、それでも立ち向かえずにいたんだろうか。
いま、二十メートル先にいるあの高校生たちはどうなんだ。こんな夜中にたむろしてるなんて、きっといい目では見られていない連中だ。自分勝手な行動をして、自分で自分の立場を悪くしていることに気づいていないのか。それとも、やるべきことに立ち向かえない自分を、虚勢で取りつくろっているんだろうか。いったい彼らはどんな話をしているんだろう。
道路を挟んだ反対側に自販機がある。あの距離で話が聞こえないだろうか。
素知らぬ顔で通り過ぎ、道路をわたって缶コーヒーを買う。そのままガードレールに腰かける。ここで彼らの話を聞いてみたいと思ったが、しかし突然居座った俺を見て、彼らは警戒してしまった。男子は顔を見合わせ、女子ふたりは黙ってこちらを見ている。おしゃべりは止んでしまった。
そうだよな。普通はそうだ。盗み聞きなんて悪趣味なこと、考えるんじゃなかった。
けれど一度座ってしまった手前、すぐに立ち去るのも不自然になってしまった。どうしようかと思っていると、
「なにか、オレらに用ですか」
小柄な男子が硬く声をかけてきた。
警戒した声だが一応敬語だ。ふてぶてしさや威圧するような態度もない。
「いや、コーヒー飲みたくなったから買いに来ただけ。邪魔するつもりじゃなかったんだ。ここ、いてもいいかな? これだけ飲んだら帰るから」
このやりとりでいくらか緊張は緩んだものの、おしゃべりは再開されない。女子はなにか耳打ちしあっている。
(やっぱり邪魔だよな。悪いことした。さっさと帰ろう)
そう思ったとき、女子の二人が近づいてきた。
「あの、鈴木さん、ですか?」
「はい?」
目の前にやってきた少女から名を呼ばれた。すらりと足を出した、春っぽいショートのワンピース。その上に軽めのデニムのジャケットを羽織っている。肩までの髪はゆるく波打つきれいな栗色で、大きな瞳にはきらりと光が乗っている。うすく色をつけた唇が小さく笑み、その口がもう一度、正確に俺の名前を呼んだ。
「鈴木和也さんですよね、恐竜ハウスの。あたし前田智です。わかりませんか?」
「え、前田さん? 向かいの?」
少女の顔が輝きを増した。
「そうです。おひさしぶりです」
斜め向かいの家の子だ。俺が小学六年の時に一年に入学した、同じ登校班になった子だ。入学してすぐに、犬に帽子を取られて泣いた子だ。
「びっくりした。わからなかったよ。え、いま……高校生?」
「そうです、来月から高三です。鈴木さんは? もう社会人ですか?」
「いや……、」
ただの挨拶に、心臓が軋んだ。
「大学、卒業したんだけど、就職できなくて……、戻ってきた」
「そうなんですか。どこも大変みたいですね」
「まぁ、うん……、そう、みたいだね」
歯切れの悪い返事に前田智は気まずい顔になり、後ろに立つもう一人の少女に顔を向けた。つられて目を向けると、その少女はまっすぐに俺を見据えていた。
「あれ……君……」
長い黒髪と、着崩した制服。力のこもった目元。夕べの、雨のなかの幽霊?
前田智が、そこで意外なことを言った。
「あ、そっか、鈴木さんはリカのこと知ってるんですね」
「え? いや、知らない」
「え?」
なぜか制服姿の少女が驚いたような顔をする。前田智はきょろきょろと俺と少女を見比べ、
「ん? あれ、なんで? リカ、恐竜ハウスの人だよ?」
「うん、わかってる」
なおも噛み合わないことを言っている。
「トモ、私、もう行っていいでしょ」
「え、待ってよ、リカ」
前田智と制服の少女は、少し下がってなにか話し始める。このまま待っていていいんだろうか? 三人の男子が面白くなさそうにこちらを見ているのに気づき、コーヒーを飲み干して立ち上がる。
「俺、もう帰るよ。またね」
「あ、はい。おやすみなさい」
前田智だけが挨拶を返し、他は黙ってこちらを見ている。そんな視線には気付いていないフリをして、顔を前に固定して歩く。角を曲がる瞬間、ちらりと様子を見ると、五人は輪になって座りこんでいる。前田智が俺のことを話しているのか、それとも別なおしゃべりを始めたのか。建物の陰になったとき、短い女子の笑い声が聞こえた。いまのは前田智か、それともリカという子だろうか。あのリカって子は、昨日、雨のなかに立っていた子だよな。
着崩した制服と長い黒髪、雨の中に立つ姿、まっすぐに向けられた瞳。家に帰るまでそれらが交互に浮かび、布団に入っても消えなかった。
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