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 薄く覚醒し、また眠り込む。それを何度か繰り返しながら、ゆっくりと目が覚めていった。  白い光が窓から差し込んでいる。  のっそりと体を起こす。時計を見ると十時ちょうどだった。 (あれ? たしか朝イチでハローワークに行こうって……)  あぁ、なにやってんだよ。  布団から這い出て、カーテンの隙間から外を覗く。雨の跡はどこにもなく、よく晴れた濃い青が目に眩しい。 (早く起きて行動するはずだったのに……)  深い息を吐いて立ち上がる。引き戸を静かに開く。家の中はしんとして、階段を降りると踏み板の軋む音が響く。ひんやりとしたリビングに入ると、テーブルの上に目玉焼きとソーセージ、簡単な野菜がラップされ、横にお袋の走り書きがあった。 『朝ごはんできています。お昼は冷蔵庫の中の物を適当に。帰りは四時半ごろ』  冷蔵庫を開けてみると、昨日食べきれなかった刺身が醤油漬けになっていた。それを丼にして、目玉焼きも一緒に平らげる。五分とかからず飯を終え、テレビの前のソファへ席を移す。 (早く起きて行動するはずだったのに、いきなり予定を狂わせてしまった)  リモコンに手を伸ばす。 (もう十時半だ。これからどうやって挽回するんだ)  意味もなくチャンネルを変えていく。芸能ニュース、海外ドラマ、外交問題……。 (今からでもハローワークに行くべきだ)  そう思いながらも動き出す気になれない。きっとタイミングを外してしまったせいだ。  テレビを消して部屋を見まわす。なんとか気持ちを立て直さないと。  ソファから立ち上がり、リビングを四角くまわる。キッチンをのぞく。 (なにかないかな)  気分を変えるきっかけを探して家の中を歩く。二階へ上がり、昨日は覗いただけだった自分の部屋へと入ってみる。馴染みのない大きな本棚と照明。向きの変えられた机。引き出しを開けてみるが、中は空っぽだった。本棚に目を向けると、ぶ厚い事典やなにかの全集が並んでいる。ガラス戸を開けると古い紙の匂いがして、一冊開いてみると茶ばんだページに植物のイラストと解説があった。飛ばし飛ばしめくってみるが、まるで面白くない。  本を戻し、もういちど部屋を見まわしてみるが、面白そうなものなど、なにもない。  部屋を出て、隣りの和室を開く。使ったままの布団、壁際のタンスと座卓、それしかない。押し入れを開けてみても、季節外れの服が仕舞ってあるだけだ。 (なにかないのか)  一階へ戻り、風呂場やトイレ、玄関、両親の部屋まで見てまわる。家中まわっても、面白いものなどなにもない。またリビングへ戻ってくる。  なにかないのか。なにか気分を変えられそうなもの。  携帯を取り出し、しかし画面を見ただけで閉じる。メールも電話もきていない。誰かに連絡したいわけでもない。部屋の隅のパソコンに目がいくが、あれは違う気がする。そこまではしたくない。ほんの少し、ちょっとひと息つく程度でいいんだ。ほんの少しだけ気分を上向きにしてくれるような、そんな些細なものでいい。それだけで俺は動けるんだ。なにかないのか。  ソファからぐるぐると周りを見まわす。早く出かけなきゃいけないんだ。リズムをつかみ損ねてしまったこの気持ちをうまく切り替えて、早く出かけないと。なにかないのか。なにか少し楽しい気分になれて、気持ちを上向きにできるような、そんな些細なもの……。ダメだ、なにも思いつかない。もうこのまま出かけるしかないのか。  ひざに手をやり、思いきってソファから立ち上がる。レースカーテンの向こうはよく晴れた青い空で、それを見た瞬間──ドスンとソファに落ちた。 (なんだ、これ)  腐った泥が、口から溢れるかと思った。 (光を浴びたくない)  なぜだかわからない。光の中に出ていくことが、とてつもなく苦しく思える。顔に陽の光があたることを想像しただけで、内蔵が口から飛び出しそうになる。  ダメだ、やっぱり出かけられない。 (なんだよ、頑張るって決めたのに。一刻もはやく仕事を見つけなきゃいけないのに)  なんとか気分を変えようと、もういちどテレビをつける。チャンネルを変えていくが、どれも面白くない。また家の中をうろつき回る。気を引くものなど、なにひとつない。やっぱりこのまま出かけて……、しかしカーテン越しの空を見ただけで、気分が悪くなる。やっぱり無理だ。どうして今日は、こんなにいい天気なんだ。  立ったり座ったりを繰り返す。何度もうろついては戻ってくる。  どうしたらいいんだ。さっきからずっと同じことを繰り返している。こんなの時間の無駄だ。 (考えろ、なにかないのか)  目を閉じ、ソファの後ろに頭をもたれかける。なにかないか。今日を立て直せるきっかけのようなもの。なにか、なにかないのか……。  遠くから物音が聞こえた気がして目を開ける。  一六時〇五分 「え?!」  一六時〇五分。時計が狂ったのか? しかし部屋の雰囲気は確かに変わっている。カーテンに白く当たっていた光は穏やかな色味になり、差し込こむ向きも変わっている。テレビをつけると確かに夕方の番組をやっている。  なんで? いま寝てたのか? なんでこんな、もう夕方じゃん。せっかく月曜だったのに。お袋ももうすぐ帰ってくる。一日中寝てました、なんて言えないぞ。  ピンポーン  とっさにテレビの音を消す。 (誰だ? お袋がもう帰ってきたのか?)  ピンポーン (お袋じゃない。誰だ。出たくない。誰にも会いたくない)  ピンポーン (なんだよ、早く帰れよ。どうせ、セールスかなんかだろ、誰もいないってば)  少しの沈黙の後、スライドドアが閉まる音と、続いてエンジンのかかる音。遠ざかっていく。音が消えてからさらに六十を数える。音をたてないようドアを開き、耳を澄ます。なにも聞こえない。そうっと廊下へ顔を出すが、やはりなんの気配もない。 (もう誰もいない)  そう思いながら、そろそろと玄関まで進む。こうまでする必要なんかない。もし誰かが残っていたら、かえって気づかれてしまう。それなのに、確認せずにいられない。そっと玄関を開ける。  やっぱり誰もいない。  やっと安心する。なんでこんなに神経質になっているんだ。  ドアを閉めようとして、玄関脇のポストに目立つ色の紙が挟み込まれているのに気づいた。宅配の不在通知……。 (ああ、アパートから送った荷物だ)  それなら出ればよかった。変なことに臆病になって、バカみたいだ。  通知票にはドライバーの携帯番号が印刷してあり、いま電話すれば戻ってきてくれるかもしれない。でも居留守を使ったこともバレてしまうだろう。  いまはなにも見なかったことにしよう。少し時間を置いて、それから連絡しよう。  不在通知をポストに残したままリビングに戻ると、音を消したテレビがCMを流している。そうだ、もうすぐお袋が帰ってくるんだった。  家中の明かりをつけて回る。テレビの音を大きめにする。少しでも活動的な雰囲気にしておきたい。一日じゅう昼寝してた、なんて言ったらどんな顔されるか。小言も、変な心配もされたくない。  朝に食べた食器が、テーブルの上にそのままになっていることに気づき、急いで水に浸けたとき、玄関を開ける音がした。お袋が帰ってきた。 「ただいま。これ、あなたのよ」 「おかえり。不在通知、俺の荷物かな」 「出かけてたの?」 「いや──、」  顔が引きつったのがわかって背を向ける。 「今日は家にいたんだけどさ。気がつかなかったな。二階にいたときかも」  ふうん、とお袋は荷物を解きはじめる。 「電話しちゃいなさい」 「すぐかける。そこ置いといて」  そのまま二階へ上がり、夕食まで部屋にこもっていた。一緒にいるとボロが出そうで、夕食もさっさと食べ終えて、また二階に上がってしまう。一緒にいたらどんな話になるかわかったものじゃない。とはいえ、なにもない和室ではできることもない。携帯でささやかなゲームと不自由なネット巡りをして時間を潰す。さっきの荷物を受け取っていれば、中にパソコンやマンガが入っていたのに。  自由にならない携帯でのネット巡りを諦め、布団を広げる。  もう寝てしまおう。明日こそは仕事を探しに行かなくちゃいけないんだ。寝てしまえば、両親との思わぬ邂逅も避けられる。  そのまま風呂にも入らず、電気を消した。
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