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また起きられなかった。
布団の中から引き寄せた時計は、もう昼を指そうとしていた。時計を握った腕が、パタリと落ちる。
なにやってるんだ、俺は。
ぐしゃぐしゃの頭で下へ降りると、今日もテーブルの上には朝食が準備してある。
ズルズルと椅子をひいて腰掛ける。テーブルに肘をつき、両手で顔を覆う。
早く仕事を見つけなきゃいけないのに、昨日だって一日潰してしまったのに、なのに、なんで俺は、朝起きることさえできないんだ。
指の間から朝食の皿が見える。テーブルの端へと押しやり、空いたスペースに頭を横たえる。目の前にピントの合わない皿と、その向こうに動きのない静かな部屋がある。
薄い。世界が薄い。奥行きがない。色が薄く、おぼろがかっている。なん百年も昔の写真のようだ。色の無い、輪郭の曖昧な写真。霞んで奥行のないぼやけた写真。その内側から外を見ているよう……。なんの動きもない、なんの音もない、世界。このままこうしていたい。ずっとこうしていたのかもしれない……。
突然、電話が鳴った。とびあがるほどの大きな音。あわてて駆け寄り、音量を下げようとするが、操作がわからない。
「くそっ」
ひったくるように受話器を取ると、相手は昨日の宅配トラックだった。
荷物が届くまで、五分とかからなかった。陽気なドライバーは「今日は居てくれてよかった」と言いながら、段ボール箱を次々運びこむと、あっという間に去っていった。
(べつに昨日だって……)
昨日だって、来るのがわかっていれば、どうってことなかったんだ。意識してなかったから面食らっただけだ。
呟きながら荷物を二階へと運ぶ。敷きっぱなしの布団が邪魔で、足で隅に押しやる。一つ目の箱を開けた途端、ザラリとなにかが胸のなかを撫でた。
(なんだよ。こんなもん、出番なんか来るのかよ)
何カ月も袖を通していないリクルートスーツ。胃から苦いものがこみ上げそうになり、急いで普段着だけ取り出して蓋をする。次の箱にはノートパソコンと本、クリアケース、そして朱の表紙に金文字の立派な二つ折り。開くと高価そうな和紙に墨書がしたためてある。
『本大学の経済学部を卒業したことを証する』
これを学歴と呼ぶのか。この紙一枚をもらうために、俺は進学したのか。大学とはいったいなんだったんだ。俺はなんのために大学へ行ったんだ。
立派な証書をどう扱えばいいのかわからず、半開きにしてタンスの上に立て置いてみる。クリアケースには就職活動のための履歴書や顔写真、ノート類がまとめて入っている。しかし写真は一年前に撮ったものだし、履歴書の住所は前のアパートのままだ。学歴欄の最後も『卒業見込み』となっている。もう見込みじゃない。俺は卒業したんだ。卒業して、もう学生という身分ではなくなった。いまの俺は──
そこで初めて気がついた。
(俺は、どこにも所属していない)
こんなことはいままでなかった。どこにも所属していない、どこにも関わりのない自分。そう気付いた瞬間。
すっと、世界が俺から距離をとった。
世界から自分が剥がされようとしている。小さくなる。だんだんと浮き上がり、離れていく。
(だめだ、だめだ)
いちいち考え過ぎなんだ。こんな古い履歴書を見ているから悪いんだ。状況が変わった、ただそれだけだ。こんなもの、さっさと書き直してしまえ。どうせ必要になるんだ。履歴書があったほうが、きっとハローワークでも話しやすい。いや、履歴書がないまま就職活動なんて、できないじゃないか。そうだ、これを書き直すのは就職活動の重要な第一歩だ。
「よし!」
パソコンとクリアケースをつかむと、勢いをつけて立ち上がる。
使っていないときなら構わないだろう。隣りの部屋へと乗りこむ。向きの変わった机に座る。気分が変わる。部屋模様は変わっても、やっぱりここが自分の部屋だという気がする。
新しく履歴書を作りなおすなんて、ずいぶんと面倒な作業だけど、そういう面倒なものほど早く済ませてしまうべきなんだ。集中して一気に書き上げてしまえ。
古い履歴書を横に、見比べながら新しい用紙へ書きこんでいく。名前や生年月日は変わらない。持っている資格も、趣味や特技も変わるところはない。変わったのは現住所と、学歴欄の最後の一行、たったそれだけだった。
すごい決意をしていたのが気恥ずかしくなる。
「そうだ、ネットの求人もチェックしておくか」
わざと声を上げてノートパソコンを起動させる。無線LANが自動設定される。よく利用していた求人サイトを開き、登録IDとパスワードを打ち込む。数ヵ月ぶりにログインしようとするとインフォメーションが開いた。
このページは在学生を対象にした求人情報を掲載しています。
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一般求人の概要をご覧になる場合は → こちら
登録情報を更新する場合は → こちら
ここでも『もうおまえは学生じゃないだろう』と言われるのか。硬い息を吐いてから、一般求人の概要という方をクリックしてみる。開いたページは学生向けとはだいぶ違っていた。
ログインできていないので企業名が伏せられ、職種と条件、地方名だけの表示になっている。だが、なによりも、
(ハードルが高い)
画面には馴染みのない専門的な用語が並んでいる。専門職、有資格者、経験者の求人ばかり。これで申し込めるところなんてあるのか?
場違いなところに自分がいる感じがする。間違えて高級店に入ってしまったような、落ち着かない気分。
ほかのサイトもこうなんだろうか。去年だって百以上もエントリーしてダメだったのに、こんな情報見せられても、資格も経験もない自分にはどうしようもない。
また気分が萎えそうになる。
いや、ハローワークだけは行こう。せっかく履歴書も書き直したんだ。
パソコンを閉じ、カバンを取りに和室へ戻る。戸を開いた瞬間、正面のタンスに立て置いた卒業証書が目に入った。
立派な装丁の、なんの力も無い張り子の虎。
殴りつけたい気持ちになる。
むしろこれが災いの元ではないのか。こんなもの、無いほうがよかったんじゃないのか。
「なにをバカな……」
目を向けないようにしてカバンを拾い、書いたばかりの履歴書を突っ込んで部屋を出る。さっさとしないと、また出かけられなくなりそうだった。
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