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幸せを壊す足音が聞こえる
どんどんどんどん
どんどんどんどん
玄関の扉を激しく叩く音がする。もはや叩いているという表現よりは殴っていると言った方が正しいかもしれない程の音だ。
どんどんどんどん
築四十年のアパートの扉がその外からの圧力に耐えかねて、徐々に軋みを上げるのをじっと見つめる。外に居るであろう恐ろしい存在を扉越しで睨みつけるが全く効果はなく、徐々に扉を叩く音が強くなっている気さえしてくる。
俺はなるべく音を立てずに隣で俺を怯えた様子でじっと見つめてくる妻に、小さくうなずく。自分はどうなっても良いが彼女だけでもこの部屋から逃がしてあげなければ。
それは信じられない程怖がりで、小心者の俺が出したとは思えない程男らしい決断だった。
ドンッ
扉が一際大きく揺れる。
同じくらいの大きさの衝撃が、先ほどよりは少し時間を空けて何度も何度も扉を打ち付けている。恐らく手で叩くのをやめて足で扉を蹴りつけているのだろう。
玄関の振動が伝わってきているのか部屋の畳も揺れている様な錯覚に陥る。自分の心臓の音が大きく聞こえているのか、蹴破ろうとしている悪魔の足音が聞こえているのか。
背筋は総毛立ち、額からは冷たい汗が一筋流れ落ちた。
「大丈夫。君には手は出させないよ」
自分の喉から出た声は信じられない程に掠れて震えていたが、妻は俺の目をしっかりと見つめてコクリと頷き返す。
◆
俺たちがなぜこんな恐ろしい目に遭っているかというと、話は一か月前に遡る。
今年で二十八歳になった俺は可愛らしくて優しい妻と結婚をした事をきっかけに、今まで世話になっていた実家を出て彼女と二人暮らしを始めた。
医療機器メーカーで働いていた俺は朝から晩まで上司の無理難題を引き受け、営業先の病院の医師に冷たくあしらわれながらも家に居る妻の為に精一杯働いていた。きっと家で妻が待っているという希望が無ければ俺は直ぐに精神を病んで居たかもしれない。
そんな俺を妻は優しい笑顔で出迎え、時折零す愚痴に天使の様な柔らかな表情でそれを聞いていた。自分には本当に出来た嫁だ。
勤めていた会社は世間で言うところの所謂ブラック会社で、給料も安かったため神奈川にある古びたアパートの中で俺たちは過ごしていた。家具だって日常生活に最低限必要な家電くらいだったが、彼女は文句も言わず「あなたと一緒ならどこでも素敵なお城よ」と言ってくれた。
しばらくそんな細やかな幸せを堪能していた俺達だったが、ある日突然に彼女が少しだけ表情を曇らせて俺に相談を持ち掛けてきた。
「実はここ数日変な電話が家にかかってくるの」
「電話?どんな」
夜十時に仕事から帰ってきた俺はハンガーにスーツを掛けながら、妻の様子を伺う。いつもの穏やかな笑顔はそこにはなく、そんな表情を見たことの無かった俺は彼女の前に座り込んだ。
「それが私が電話に出ると凄く怒鳴り声がして切れてしまうの。なんて言っているか分からないんだけど、すごく怒っている様で…」
彼女はその電話を思い出したのか少しだけ肩を震わせている。
そんな様子に彼女を安心させようと思い自分が出せる限界の明るい声を出す。
「そんな酷い悪戯電話なんか無視しよう。ここに引っ越してきてから新しい固定電話に変えたから、きっと誰かの間違いの電話なんだよ」
「そうかしら」
「きっとそうだよ。そうだ。明日は電話を留守番電話にしておこう。俺が帰ってきたら聞くから、君は出なくて平気だよ。あまり酷い様なら電話番号を変えてもらえばいいんだし」
ね、と彼女の同意を得るように見つめれば、先ほどの緊張が少し解れたのか彼女がそっと首を縦に振った。
「私、あなたとこうやって普通に過ごすことが一番の幸せなの」
恥ずかしそうに頬を赤らめる様子に、愛しさがこみ上げるのを必死に抑えながら務めて冷静に笑顔を作る。
ああ、俺の奥さんはなんて可愛いんだ。
「もちろん、一生幸せにしてあげるからね」
俺の言葉に彼女はまた頬を桜色に染めて、伏し目がちにそっと頷いた。
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