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夏彦くんと話したのは、ほんの短い時間だけど、すごく楽しかった。好きになった。また会いたいと、そして夏彦くんもきっと同じだと思った。
でもあの家は幻で、夏彦くんはいなくて……。
何日も何日も、悩んで、混乱して、今も悩んでる。でも、卒業式を終えて実家の自分の部屋に戻る頃には、少しだけ気持ちも落ち着いた。
壁の、おばあちゃんが描いた絵を見てると、描かれているのは私なのに、なぜかあの日の夏彦くんの笑顔が思い出される。
春の晴れた朝、軽いコートを羽織って外に出る。
夏彦くんがタワーマンションに住むって言ってたのを思い出したから。
そこはうちからも近くて、歩いて十分もかからない。できたてのマンションは高級感に溢れて、入り難い雰囲気だったが、思い切って管理人さんに声をかけてみた。
「あの……ここの一階に伏見さんって方は住んでますか?」
「え?入居者の個人情報は教えられないよ」
「そうですか……」
「そもそも一階には住居はないし」
「ないんだ……やっぱり」
諦めて帰ろうとした時、私の後ろから入ってきたおばちゃんが、声をかけてきた。
「ねえねえ、あなた。伏見さんって言ったら、それのことじゃないの?」
彼女が指差す先をよく見ると、柱の向こうの奥まった場所に鳥居の朱色がちらりと見えた。
このマンションは、エントランスのドアの手前にも来客が座って待てるようにロビーと中庭があって、テーブルとソファーが置かれている。そのロビーの一角に、背丈ほどの小さな鳥居と社、そして一体の狐の像があった。
「ここのお稲荷さんは、伏見から来ていただいたって聞いたわよ。そこの可愛らしい鳥居は、マンションを選ぶときに決め手になったのよ」
そういうと、おばちゃんは中へ入っていった。管理人さんはオートロックのドアより外に関しては我関せずというふうに、黙って座っている。
私は小さな鳥居に歩み寄って、手を合わせて目を閉じた。
「やっぱり幻だったのかな、夏彦さん」
「わお!楓ちゃん、来てくれたんだ!待ってたんだよ」
「え?」
目を開けると、ニコニコ顔の夏彦くんが、私の手をとって引っ張っていく。その先にはさっきまであった鳥居と社は見えず、普通のマンションのドアがあった。
「さあさあ、入って!ここが俺の家で、職場だよ」
「職場って……」
私のいうことを聞きもせず、夏彦くんはグイグイ手を引っ張って、奥へと案内した。そこは新しく綺麗に整ったマンションの一室だったが、それ以上に清浄な空気に満たされている気がする。
水が入った透明なガラスの皿がテーブルの上に、ポツンとひとつ置かれていた。
「ここが、俺の職場。見つけてくれて、ありがとう」
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