-思いがけない出会い-

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-思いがけない出会い-

(あれ? ここって先月までは確か大きな本屋さんの建物があったのに、いつの間にかカラオケのお店になってる……。  嘘でしょ……あの本屋さんは他では手に入らない珍しい漫画や小説がいっぱいあって凄く良かったのに……)  少女はお小遣いを貰ったその日のうちに意気揚々と街へと繰り出してきたが、予想もしていなかった情景に遭遇し、呆然と立ち尽くしていた。 (だいたいカラオケのお店なんてこの近所だけでもう二件もあるのに、どうしてまた新しく作る必要があるって言うのよ……歌ってそんなに人気があるの?……全然分かんないわ……)  お気に入りだった本屋がカラオケ店に変わってしまい、どうしても欲しかった漫画が買えない事に不満を漏らしている彼女の名は『藍原心音(あいはらここね)』  可愛い物を見れば眼を輝かせてついつい衝動買いをしてしまい、お洒落や恋愛にはそれなりに興味を持ち、いつも友人と他愛も無い話に花を咲かせている。  漫画や小説を読む事が何よりも大好きで多少オタク的要素が強めではあるものの、際立って目立つ容姿をしている訳ではないし、自ら好んで突拍子の無い行動を取るような派手な性格でもない。  かと言って清楚な人間を装いつつ、実は人に自慢出来るようなとんでもない特技があり、いざと言うときにはスーパーヒロインに……。  などと言った漫画の様な設定は微塵も感じられない。  そんなどこにでも居るような、極々普通の十七歳の女の子だ。  ただ一つ……。  生まれつき音を聞く事が出来ない点を除けば……。  聴覚に重度の障碍を持つ彼女は音を体に伝わる振動以外の物として感じた事が無く、物心が付いた頃は自分の周りに音と言う物が存在する事すら知らなかった。  学校では「音とは空気の中を伝わる振動である」等とやたらと小難しい事を教わったが、それは只単に知識として覚えただけで本当の意味で理解している訳ではない。  当然ながら、周りの人達が自分の意思を伝達する手段として使っている声を聞いた事など一度も無く、頭の中にその声のイメージが全く無い彼女にとっては、本などに書かれている文字は実際にどのような音で読まれているのか分からない只の記号であり、文章とは単に記号の羅列を組み合わせただけの物……そんな捉え方しか出来なかった。  そのため抽象的な表現の多い歌詞とポエムの何が違うのか、曲と言う物にあわせて詩を読む事の何が楽しいのか、それを理解するのはとても難しい事だった。 (欲しい漫画は小さな本屋さんには置いてないし、ちょっと遠いけど隣町のお店まで行くしかないわね)  少し離れた停留所を見るとバスがすぐ近くまで来ている。 (あ! これを逃したらあと30分も待たなくちゃいけない!)  心音(ここね)は慌てて走り出したが、それと同時に強い衝撃に襲われ地面へと倒れてしまった。 (いった~い!)  見るとそこには二十歳前後の青年が横たわっている。  どうやらバスにだけ目が行き、曲がり角に近づいて来た人影を見落としてしまっていたようだ。 『ごめんなさい! 大丈夫ですか?』  咄嗟に手話で謝るが相手の反応が無い。  普段の生活でも相手が謝る声や怒鳴る声が聞こえる訳ではないが、その表情や仕草からある程度の感情を読み取る事は出来るし、手話を見た時にも何かしらの反応があるはずだ。  だが今回の場合は相手がこちらを見る気配さえ伺えない。 (もしかして何も出来ないくらい酷い怪我をしちゃったの?)  彼女自身も何ヶ所か擦り傷を負ってしまったが、今はそれよりも相手の事が気になる。  痛む肘を押さえつつ倒れている青年のもとへと近付き、散らばった荷物を拾おうと周りを見渡したその時、傍らに転がる一本の白い杖が心音(ここね)の目に飛び込んできた。 (どうしよう……この人、目が見えないんだ)  痛い所を訴えていないか確認する為に心音(ここね)は青年の上半身を起こし顔を覗き込んだ。  手話を第一言語としている彼女は健聴者の社会で生活する為の方法として、相手の唇の動きから言葉を読み取る口話法(こうわほう)を習得しているからだ。 「すみません! 近くに子供か、もしくは女の人が倒れていませんか? 僕とぶつかってしまって怪我をしているかもしれないんです! 早く助けてあげてください!」  青年はぶつかった時の衝撃で相手が自分より小さな人物であると感じたらしい。  しかし今、自分の体を支えているのがぶつかった相手本人だとは分かっていないようだ。 (私は大丈夫ですから!)  自分も倒れて痛い想いをしている筈なのに……。  なのに相手が怪我をしていないか、痛い想いをしていないか、それを真っ先に心配する優しい心の持ち主……。  そんな青年を少しでも早く安心させてあげたいと思うのに、声を出せない心音(ここね)にはそれが出来なかった。  普段友人や両親と会話している手話は勿論の事、健聴者に意思を伝える為に使っているペンと紙を使った筆談や携帯でのメール画面、その全てがこの青年に対しては使う事が出来ない意味の無いものだった。  一方、正確な状況を見て把握する事の出来ない青年は、自分を支えている人が何も話さない事に戸惑っていた。  近くに倒れていると思っている相手からはうめき声一つ聞こえてこない、そんな沈黙が悪い想像ばかりを思い浮かばせ不安な気持ちにさせる。 「どうなってるんです? 相手はそんなに酷い怪我をしてるんですか? 教えてください!」  青年に焦りの色が見え、口調がどんどんと荒くなってくる。 「早く……○△☆……救急車……◎□!……誰か……#∵*!……」  唇の動きが早すぎて心音(ここね)は言葉の半分も読み取れない状態になっていた。 (どうしよう! 何とかして私は大丈夫だって伝えないと!)  次の瞬間、心音(ここね)は相手の右腕を掴み手の平に自分の人差し指を押し当て始めた。  青年にはそれが何を意味しているのか分からなかったが、その動作からは敵意や悪意と言った類の感情は伝わってこない、只、焦りの感情だけが伝わってくる。 「どうしたんです? 手がどうかしたんですか? もしかして怪我をしていて痛い……とか?」  心音(ここね)は持っている手を横に振り、何度も何度も同じ動きを相手の手の平の上で繰り返した。  青年は相手の不可解な行動の理由を考える事で、少し冷静さを取り戻す事が出来たようだ。 「もしかして……これって手の平に文字を書いてるの?」  今度は持っている手を縦に振り、また同じ動きを繰り返した。 「やっぱりそうだ、手を振るのは『はい』と『いいえ』って意味だよね? それで今書いてる文字は『ご』でいいの……かな?」  たった一文字だけだが、ようやく自分の意思を相手に伝える事が出来た心音(ここね)は大喜びで持っている手を縦に振った。  どうしてそんな伝え方をするのか青年にはまだ理解出来なかったが、何かを必死に伝えようとしている感情だけは充分に分かる。  心音(ここね)は正しく文字が伝わっているか相手の唇の動きを確認しながら文字を書き続けていった。  青年も一文字一文字確認するように、その文字を声に出して言った。 『ご・め・ん・な・さ・い』 「ごめんなさい……って、どうしてあなたが謝るの?」 『わ・た・し・み・み・き・こ・え・な・い・こ・え・だ・せ・な・い』  この時、青年は自分を支えてくれてるこの女性がぶつかった本人である事や、沈黙の時間が続いた事、そして彼女が取った不可解な行動等、それら一連の出来事の全てを理解する事が出来た。 「そうか、そうだったんだ……でも、声が出せないのは分かったけど怪我は? どこか怪我をしてるんじゃないの?……ってそうか、質問しても聞こえないんだよね、どうしよう」  心音(ここね)は持った手を横に振り、また文字を書き始めた。 『ゆ・っ・く・り・は・な・す・く・ち・び・る・よ・め・る』 「え? 僕が今何を話してるのか分かるの?」  縦に振られる手に青年は驚きの表情を見せた。 「唇が読めるって凄いね、そんな事が出来るんだ」  唇が読めるなんて凄い……。  手話が話せるなんて凄い……。  それらの言葉は日常生活の中で手話や口話法を使い話すと、健聴者からよく掛けられる言葉だった。  確かにどちらも何の努力も無しに覚えられたものではない。  口話法(こうわほう)に至っては辛い想いをし、友人達と励ましあい、涙を流しながら身に着けたものだ、褒められれば嬉しい気持ちが溢れてきてもおかしくは無い。  しかしその言葉を掛けられる時、大抵はその前に"耳が聞こえないのに"と言った意味合いの言葉が付き、心音(ここね)はいつも素直に喜ぶ事が出来なかった。  だが今回の青年の言葉からは少し違う感情が伝わって来る。  言葉とは音を聞く事、それが全てである青年にとって唇の動きで言葉が分かるなど想像も出来ない世界の事であり、それは心の底から溢れ出した素直な疑問と賞賛の言葉なのだと思う。  そんな青年の言葉に心音(ここね)は少し照れながらも嬉しい気持ちになった。 『あ・な・た・の・ほ・う・が・す・ご・い』 「僕が凄い? どうして?」 『お・と・い・っ・ぱ・い・の・な・か・で・こ・え・き・き・わ・け・て・る』  音を聞いた事のない彼女は授業で何度説明を受けても、世の中で色々と鳴り響いてる雑音と、声と言う名の音にどんな違いがあるのかが理解出来なかった。  それ故に多くの音が溢れているであろうこの世界の中で声の音だけをキチンと聞き分けられると言う事が不思議で仕方なかったようだ。 「普段何気なくしてる事だから聞き分けているとか、それが難しいとか考えた事もなかったよ」  同じ国の同じ地域に住み、同じように日常生活をしている筈なのに、聞こえない、見えないと言った、たった一つの感覚が異なるだけで感じ方や考え方が違ってくる。  今まで想像すらしなかった事柄に驚きを覚え、もっと色々と知りたい……  二人はそんな気持ちになるのだった。
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