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瞳に映る歌…両手に触れる虹
触手話を覚える事は予想以上に大変だった。
まず指点字で指の動きとその動作が表す日本語の単語を説明し、実際に握り合った両手の中で手話を繰り返し、口話で間違ってるかどうかの確認をする……。
日本語と指点字と手話が複雑に絡み合った会話は、興味の無い者ならばすぐに投げ出してしまうかもしれないほど面倒な事のように思える。
しかし『言葉とは相手に想いを伝えたい気持ち』なのだ……二人の心の中には嫌だと言った感情は少しもなかった。
一日に覚えられる手話単語は少ないかもしれない……実際に手に触れて読み取れるようになるのは一日に一つか二つくらいが限度かもしれないが、それでも二人は満足だった。
少しずつでも相手の言葉が分かりやすくなっていく……少しずつだが愛する者が住む世界に近づく事が出来る……それはとても幸せな事だと思え、この先もずっと続くであろう時間が二人は待ち遠しかった。
…………………。
…………。
……。
それから幾つもの冬を見送り……幾つもの春を迎えた、とある雨上がりの日曜日。
一輝と心音は公園の散歩道を仲良く歩いていた。
二人の間には学生の頃のような緊張感は微塵もなく自然な雰囲気を纏っており、一見しただけではそれほど大きな変化は無いように思えたが、楽しそうに歩く一輝の腕の中には、ぬかるむ地面で滑らないようにと抱きかかえられた一人の女の子の姿があった。
春の風が優しく温かい香りを運んで来てくれる季節に、二人の元へと生まれて来てくれた女の子は『風香』と名付けられ、今年の春で三歳になっていた。
風香が不意に空を見上げ拙い手話で心音に話しかける。
『ママ~、見て見て、綺麗な虹~』
『うん、すごく綺麗ね、ふうちゃんにはどんな色があるのか分かるかしら?』
『え~っと……ん~っと……赤色と~、黄色と~、青色~!』
『そうね、でも他にも四つ色があって、全部で七色もあるのよ』
『へぇ~、すご~い』
嬉しそうな表情のまま風香が歌を口ずさむ。
「虹さん虹さん綺麗だね~♪ どうしてそんなに奇麗なの~♬ 赤青黄色と、あとは分かんない~♪」
「あはははは」
腕の中ではしゃぎながら歌うその歌詞に、一輝は思わず笑ってしまった。
「風香、今の歌は誰かに教えてもらったのか?」
「ううん、ふうちゃんがいま作ったの~」
「凄いな風香は」
「パパにも教えてあげるから一緒に歌お」
風香が身振り手振りを交えながら一輝に歌を教え、それに対して一輝も笑顔で答えている。
「「虹さん虹さん綺麗だね~♪」」
嬉しそうに歌う娘の姿を見ていた心音は、歌に対する明確な答えを見つけたような気がした。
もちろん二人の声を聞けるようになった訳ではないし、音程やリズムを感じ取れるようになった訳ではないが、今ならばハッキリと答えることが出来る。
(私は今まで何を悩んでたのかしらね……子供の頃からずっと歌の何が楽しいのか分からないって思ってたけど、難しく考える必要なんて無かったんだわ……だって風香がこんなにも嬉しそうだし、歌っている時はこんなにも素敵な笑顔を見せてくれるんだもの……他に答えなんてないじゃない)
心音にとって”歌”とは、もう自分自身が歌ったり聞いたりしたいと言った想いも、必要性もない物になっていた。
歌……それは愛する娘を幸せにする素敵な物……。
歌う事……それは愛おしい娘を笑顔にしてくれる楽しい事……。
歌に対する認識はそれだけで十分だった。
心音が優しい眼差しを向ける中、風香が一輝に何かを一生懸命説明している。
「虹さんの事を、ふうちゃんがパパに教えてあげるね」
「ははは、風香は優しいな」
「んとね~、えっとね~……虹さんはね、お空の上に浮かんでてね、歩いていくとお姫様の国に行けるの~」
「それはすごいな」
「でね、一番上が赤色で~、真ん中が黄色くて~、その下が青くてすっごく奇麗なの!」
「へぇ~、そんなに綺麗なんだ」
「うん! すごくすごくすっご~~~く綺麗なの!」
抱きかかえている一輝の腕から落ちてしまうのではと思われる程の勢いで風香が話をしている。
その動きを感じ取りながら一輝は心音と同じ想いを感じていた。
(風香をこんなにも楽しそうにしてくれるんだから、答えは出てるじゃないか……虹とは風香を幸せな気持ちにしてくれるくらい綺麗な物……それ以上の答えはいらないな……)
風香の歌や笑顔は二人の心を幸せで満たしていった。
心音は音を聞けるようになった訳ではないけれど……。
一輝は光を感じる事が出来るようになった訳ではないけれど……。
愛おしい娘の笑顔を瞳に映す事で心音は”歌の楽しさ”を……。
はしゃぐ娘の重みをその両手に触れる事で一輝は”虹の美しさ”を……。
二人は確かに感じる事が出来たのだった。
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