記憶

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記憶  地方裁判所から私服姿で出てきた男がいる。彼は被告人でも裁判官でもなく傍聴人であり、たった今小さな裁判の傍聴をしてきたのだ。彼は毎日のようにこの裁判所に通い、メモを片手に傍聴する。特段の理由があるわけではなく、十年前に一度なにとなしに傍聴したところ、非常に居心地よく感じたのだ。被告が裁判長にすでに過去となった罪を裁かれるのがある種清々しいのだった。傍聴の後に手に握られたメモには、被告の罪と罰の全貌が、崩れかけた文字で緻密に記されている。彼はすでに裁判傍聴で午前中を潰しており、昼食さえも裁判所の食堂で食する徹底ぶりである。 傍聴を終えて現れた彼は、ベージュのコートにメモをしまいながらとげとげした並木のある道を歩き、最寄りの駅へむかった。先ほど食堂で食したラーメンが、中年の彼には少しばかりこたえているようだ。荒れはじめた胃を抱えながら、彼は混んだ電車にいそいそ乗りこみ、片手に吊革を握り、そして片手にメモを握りしめ、被告人の罪状とモニターの路線図とに交互に目をやっていた。 下車した彼はかなり疲れていた。日が暮れかけているが、夕食のための食材を買う様子もなく、へなへなと自宅へ帰った。自宅は、一人で住むには少々広すぎるくらいの一軒家で、二階建てだったが、彼はほとんど二階には行こうとしなかった。実際一階だけでも生活するだけの設備が整っていた。彼はとがめる人がいないため部屋を汚くしていた。彼はコートを掛けると、今日の裁判に関するメモを小さなテーブルの上に置いた。そこにはすでに膨大な量のメモが乱立していたが、彼にとってはこの上なく整理されているのだった。 机のまわりも酷い有様で、家具が目に入らないほどの書籍が山積みにされていた。まるで家具を覆い隠すように形成された山である。彼自身も、その下にどんな家具が隠れているか忘れてしまっているのだ。 今日とったメモに再び目を通す。覚せい剤取締法違反。傍聴を趣味とする彼にとっては、あまりにありふれた罪名だった。自分が嫌になりそれを忘却するために覚せい剤に走った。これもありふれた動機だった。過去を忘却するために乱用するとは情けない。全く理解できない。彼は強く思った。全く理解できない。情けない。だが、思うだけだった。これだけメモの山を築いたといっても、念じるように、思うだけ。ひたすら他人の罪をみては、書き写し、念じていた。全く理解できない。情けない。その集合が、この山だった。 メモを山へ投げ込み、彼は布団に潜り込んだ。今日のメモの内容は既に記憶から抜け落ちていた。過去の自分の忘却のために乱用するとは情けない。全く理解できない。この思念だけが彼の頭を支配している。記憶は常に現実から明日へ伸びていた。 朝。彼はきっかり7時30分に起きる。だがそのとき、ささやかな、しかし彼にとっては重大な事件がおこった。彼が起きる時のわずかな振動によって、メモの山が崩落したのだ。テーブルの一部が久方ぶりに露わになったが、彼は呆然とそのままの姿勢でいた。わあ、崩れた。彼は小さく叫んだ。彼の思念の蓄積を視覚化していたものが一瞬にして崩れた。彼の心に暗雲が立ちこめる。やがて布団に流れ込んだいくつかのメモを無造作に移動させ、ベージュのコートを着込んだ。長いこと服を着替えていないので、彼の躰からは酷い匂いがした。コートのポケットをまさぐったが、メモはない。昨日使い切ってしまったのだ。崩落した山の中からひとつメモを取り出し、彼は慌てて家をとびだした。 歩き慣れた道を歩き、同じ電車に乗り込んでいる彼は、何も考えていなかった。今日も裁判を傍聴し、その罪に震えるのだ。 とげとげした並木道にさしかかるころには、雨が降り出していた。彼はすこし小走りになりながら裁判所へ向かう。そしてもはや顔なじみとなった守衛に会釈しながら小奇麗な床をあるいていった。 今日の事件は少しばかり刺激的だった。死体遺棄。通常では傍聴できない程人気のある事件だが、今日はなぜか空いていた。彼は常より増した傍聴のたのしみに顔をわずかにほころばせながらエレベーターへ乗り込む。乗り合わせた女性はわずかに顔を引きつらせていたが、彼の目は微塵も興味を示さなかった。 いつもは人がたくさん並んでいるはずの法廷の前の扉は、不自然なほどがらんとしていて、裁判が行われないのかとすら疑ったが、しかし、張り出してある紙には死体遺棄という罪名と被告の氏名とが……。彼の目が微弱な反応を示した。被告の氏名が彼の名前と全くおなじだったのである。すごい偶然だ、と彼は思った。何年間も傍聴をしてきて、同姓同名が裁かれるのははじめてだ。今日はほんとに特別だ。新品のメモがないことだけが心残りだが、それだってまるで書けないわけじゃない。彼の心はこれまでないほどにときめいていた。 十時きっかりになって、大きくて茶色な扉が開いた。解放された法廷の傍聴席に歩いていくのは彼だけだった。死体遺棄という罪の重みから考えれば、もっと人がいて然るべきだった。だが、それ以上人が入る気配もしなかった。静かな法廷だ。彼は興奮に震えている。これまで見たことのなかった重大事件を独占できるという、やや裁判所における厳粛さに欠ける心持ちが興奮を産んでいるのだ。弁護士が入ってきた。彼は身を引きつらせる。一語一句聞き逃してはならない。引き続いて現れた被告人を見て、彼は声をあげかけた。被告人は、彼と同じ顔をしていたのである。 彼の額にはだらだら汗が噴き出していた。この男は何者だ? まるで複製のようなその被告に彼はなぜか憤りのような感情をおぼえていた。お前は絶対に来てはいけないのだ。なぜここにいる? なにか恐ろしいことが起こるのではないかと思い、彼は彼そっくりの男に激しい拒否反応を示していたのである。即座に席を離れたかった。しかし、すくみ上がった足はぴくりともせず、小刻みに揺れているだけなのだった。この裁判所は、今や牢獄のように思えた。彼は酷く悪い予感を抱えながらペンを片手に硬直していた。 裁判長が被告の名を呼ぶ。ヤマウチリュウヘイ。間違いなく俺の名だ。傍聴席のヤマウチリュウヘイは被告を凝視する。そして被告人の応答する声。「はい、間違いないです」ヤマウチは叫びだしたくなった。わあ、俺の声だ。こいつは俺なんだ。お前はなぜここにいる?俺はなぜここにいる? 裁判は進む。傍聴席のヤマウチを取り残して。脂汗が何日も洗濯していない下着について、酷く不快だった。裁かれている自分の姿を直視できるようになった時には、すでに弁護士が話し始めていた。 「被告は妻との関係が悪く、妻はほとんど家へ戻らなかったわけであります。従って、被告は子供の世話が難しい状況にあり、」頼りない弁護士だ。咳払いばかりしている。 頭の奥が疼くのを感じた。なにか、思い出してはいけないものを押さえ込んでいるように、圧迫感のある痛みが訪れている。一筋の光がさすように、ある女の顔が浮かび上がりかけるのだが、ヤマウチの無意識は必死にピントをずらしている。彼は頭をおさえてうずくまった。他人の罪がびっしり書き込まれたメモが床に落ち、異様なほどの音を響かせた。 「弁解の余地はございません。妻が家へ戻らなかったといっても、その原因は私にあります。失業して、毎日家にいるにも関わらず子供の世話もろくにできず、そのための努力もしないとなれば、誰だって別れようと思うでしょう。事実上の離婚に近かったのです」 誰がしゃべっている? 俺だ。ヤマウチが顔を上げると、被告人は声を詰まらせて懇懇と話していた。圧迫されたように痛む頭の奥から漏れ出ている光が、ますます強くなっているのを感じた。 「子供に食事を与えなかったのも、故意に与えなかったのではありません。ほっておけば死ぬと分かっていながら、分かっていたのに、どうしたらよいか分からなかったのです。心のどこかで、妻のせいにしていました。妻が家を出たのだから、妻が子供を世話すべきだと。愛が全くなかったのです。親としての愛が」 いつもの傍聴者ヤマウチならば、死体遺棄という罪にたいして言及しておらず、むしろ虐待死の説明をしていることをすかさずメモに書いているところだが、彼は床に落ちたメモを拾い上げるそぶりすら見せなかった。頭痛は、激しさを増していた。 「マチコには申し訳ないです。マチコは愛息を置いていくほどの精神状態でした。部屋が日に日にゴミだらけになってゆくのですから」 マチコ。妻の名だ。覚えている。頭痛が押さえ込んでいる光が、箍が外れるように発散し、眩むような光がヤマウチの頭を満たした。枯木のようになった子供の乾ききった眼。髪を乱して眼を泣きはらしたマチコの顔。今裁かれているのは俺だ。俺なんだ。見ると、裁判長の顔は、醜く歪んだ子供の顔だった。乾ききって、ベビーベッドに臥して死んでいた息子。「判決が確定するまで、少々おまちください」ヤマウチは悲鳴をあげ、前のめりに倒れ込んだ。 目を開けると、テーブルが見えた。その周囲には崩れたメモの山。自宅だ。時計に目をやると、十一時。裁判はどうした? そう思った刹那、ヤマウチは見た。メモの山で隠していたテーブルの上に、やぶけた多数の袋、そして白い無数の粉があるのを。そして言った。「俺は、ずっとこれを隠していたんだ」粉は、ヤマウチが日頃の裁判傍聴で飽くほど見た、覚せい剤だった。ヤマウチは立ち上がる。その顔は、裁判を終えた被告人のように、なにかを諦め、受け入れたことによる複雑な表情をたたえていた。彼は階段を上がって行く。そこには真実があるはずだ。 二階の部屋にあるものはベビーベッドのみだった。俺は息子を死なせたのに、こいつだけは何故か捨てられなかった。でも記憶からは消したつもりだった。彼は少し笑うと、呟いた。 「全く理解できない。情けない」
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