女と斧

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ある農村の外れの小さな家で、ハタンゴは静かに腐りかけた木製の椅子に座っている。その家の近くの小屋には、ハタンゴと長い年月を共にしている余りに巨大な牛が虚ろな眼をして繫がれている。牛は黒黒した、普通の牛ならば一瞬で突きあげられそうな角を持っている。またその体軀には白と黒の斑模様が美しい比率で配置されていて、艶々した毛並みと共存している。牛の軀の美しい模様はハタンゴのいる崩れかけた家の醜さを一層際立たせる。やがて部屋の中にいたハタンゴは立ち上がり、牛の小屋に歩みゆき、牛の背中を最大の労りを持って撫でる。牛はそれに応答するように首を僅かに振る。そしてハタンゴは牛を引っ張って畑に出て行く。牛はその巨体を引き摺るようにしてゆっくりと歩く。ハタンゴの牛を引く手は愛情に溢れている。 ハタンゴは荷物を牛に載せて、農作業を行う。非常に手慣れている。彼は牛と二人きりの生活なので、自分の食事分だけの量を収穫すれば良いのである。そのために、ハタンゴは食糧に困窮したことは無い。それでも、無くてはならない最小限の物は村の中心地から送られてくる。自然に溶け込んだ暮らしをしている村人にとって、村の中心地で毎年遡上してくる鮭を捕ることは非常な命綱であるので、鮭を捕ることの出来ないハタンゴはあまりにも哀れであるために送られてくるのである。ハタンゴは一言も発さずに幾らかの余剰食糧を鮭を持って訪れた男の手の籠に乱雑に押し込むのだった。暫くして彼は牛に括りつけてある大きな籠に収穫した食糧を積み込んで、また元来た道を引き返して行く。道には、牛の足跡がくっきりと付いている。 ハタンゴが小さな家に戻ると、牛の積荷を丁寧に下ろし、牛に何か囁く。かなり長いことそうしている。時々笑顔を浮かべることもある。牛もハタンゴの言っている事を理解しているかの様に時折身震いしては、ぐろう、と鳴くのだ。この日は常よりもハタンゴの眼がうっとりとして、牛に触れる手は慈しみに溢れている。 この日を境に、牛は何故だかそわそわし出した。無意味な鳴き声を上げる回数が増えて、中々歩き出さない。ハタンゴは少しばかり心配になり出した。牛の軀の部位を彼方此方さすってみる。牛には何の変化も無い。一先ず、ハタンゴはそのまま様子を見ることにした。 牛の症状は一向に恢復せず、日に日に激しくなった。 ハタンゴは牛を飼う前、村の中心地で生活していた。ハタンゴは美しい娘を持つ至極普通の農民であった。ハタンゴの美しい最愛の娘は、悪しき点が見つからない程のゆきとどいた女性であった。大変な働きもので、昼夜問わず畑にいた。 「お父さんには長生きしてもらわなくちゃあ困るわ。ずっと一緒にいたいもの。」と彼女は言ったものだった。美しく清廉な微笑をその顔に浮かべて。ハタンゴのぎらぎらする斧が不意に彼の手を導いて娘の頭を割ったのは娘がそう言った日の夜だった。何かの間違いだった。そしてその傷口は口のようになった。骨が歯に、肉が舌に見えた。少なくともハタンゴには。傷口は鳴動して血を吐き、微笑を浮かべながら何かをハタンゴに話しかけたように思えた。ハタンゴは体中をがたがた震わせながら地面に座り込んだ。 ハタンゴは娘殺しとして村から追い出された。 石を投げつけられながら村を去るハタンゴの後ろを着いてくるものがいた。牛である。村人は牛を皮や肉を捕るためのものとしか考えていなかったが、ハタンゴは牛を娘の生まれ変わりと捉えて歩を進めた。村人らは村はずれにある、かつて罪人が同じように押し込められたというぼろ屋にハタンゴを押し込み、侮蔑の眼を向けながら戻って行った。 牛が不意に走り出した。畑の草木を蹂躙して。 ハタンゴは恐慌して牛の後を追う。 「まってくれモンコロよ。まってくれ」 モンコロとは無論、娘の名であり牛の名である。しかしながらモンコロは一向に静止する気配は無い。それどころか更に足を速めたようである。数秒後にはハタンゴは牛から大きく引き離されて村の中心地に入っていく牛を呆然と見送っていた。 牛は村の中心地に猛烈な勢いで突入した。 村人の一人、ニヴフはいち早く牛に気づいたが、叫び声を上げる前に牛に突き上げられて回転しながら宙を舞っていた。次の瞬間に墜ちてきたニヴフは潰滅していた。 ある人々が牛を捕獲しようと近寄り、またある人々は牛から逃げ惑っていたが、牛は容赦なく辺り一帯にいる人々を突き上げ、踏みつけた。牛の異常なまでの圧倒的巨体になすすべはなかった。牛は際限なく暴れ続ける… 不意に牛の軀がはじき飛んだ。象の猟師が象用の銃で牛の腹を射撃したのだ。 牛は血を飛散させながら、近くの民家に激突した。 ぐるおおおおおおおおおおおおおおおおおお、とモンコロは叫び声をあげた。 ハタンゴは息を切らせながらそこに現れ、潰滅した幾つかの死体と、びくびくと痙攣して口から何か赤いものを吐いているモンコロを一度に見つけた。仰天のあまり絶句した。 既にハタンゴは村人に取り囲まれていた。 村人らは無言のうちにハタンゴを散々に打ち、蹴り飛ばした。そして血と肉でどろどろとしているモンコロの軀に投げつけた。 ハタンゴは鼻血を流しながらモンコロの軀に優しく触れた。モンコロはまだ僅かに息をしている様に思えた。 その刹那、ハタンゴはモンコロと眼があったのだ。はっきりと分かった。モンコロはもう虚ろな眼ではなかった。微かに潤んだ、娘のそれであった! それに気づいた数秒後にはモンコロの眼は閉じられていた。 ハタンゴもさびしく目を閉じた。そして再び目を開いた時、牛であったモンコロは人間の姿となってハタンゴの眼前に直立していた。 「待っていたのに。おとうさんには一緒に来てもらわなくちゃあ」 とモンコロは言った。彼女の頭の大口が唾液をびちゃびちゃ飛ばして恐ろしい声で言ったのだ。しかしモンコロの顔は生前よりも美しく、白く綺麗だった。 モンコロの二つの口がニタアと笑った。手には斧がぎらぎら光っていた。 ハタンゴの頭は斧によって真っ二つに裂かれていた。
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