クロノスタシス

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クロノスタシス

地に堕ちる赤が、一瞬止まって見えたんだ。 クロノスタシス 見たこともない文字の上を、カサついた指が滑る。 ラテン語だろうか。どことなくヘブライ語にも似ている。解読どころか、文字の判別すら難しい。一文字一文字が記号のようで、けれど確かにそれぞれ違う形を持って羅列している。 ただひとつこれが日本語でないことは明らかだ。大学では一応言語学を専攻していた僕にも、これがどこの言葉であるのか判別は出来なかった。 うーん…でも。 あの瞬間彼が話したのは、確かに日本語だったよな…?フードを深く被っていて顔はよく見えなかったけれど、「アンタに決めた」って。確かにそう、言ったんだ。 そうして彼はふと取り出した小さな刃物で自身の指先を少し傷つけると、コンクリートの地面に一雫、その血を足らした。 大きな時計塔のある広場。行き交う雑踏の中で、やけに鮮やかすぎる一滴の赤が引力に逆らわず灰色の地面へと向かう。 まるでスローモーションのように。 僕はその光景を見るともなく見つめていた。そうして血がまさに地面に触れるかというその瞬間、気が付いたら此処に居た。さっきまでの喧騒など嘘のように静かな場所。 辺りには誰もおらず、ただ白い壁と吹き抜けの中庭があるそこはまるで南国のホテルのようだ。状況が全く掴めず暫く呆けていた僕だったが、さわさわと吹く緩い風に誘われ少し庭に出て上を見上げると、一面に痛いくらいの青が広がっていた。 もう一度、部屋の中をぐるりと見回す。すると呼応するかのように庭にある色とりどりの草花がさわさわと音を立てて揺れた。 本当に、何処だここ…。あれ。 部屋の隅に扉を見つけた僕は一応外に出てみようと、細かい装飾が施された取っ手を掴んだ。 …うん。開かない。押しても引いてもびくともしなかった。一応引き戸なのかと引いてみたり、もしかしたら自動ドアなのかもと近くにそれらしきボタンなどを探したが見つかる筈もなく。 早々に諦めた僕はふうっと短い溜め息を吐いて、壁一面を覆い尽くす程大きな本棚と丸いテーブルに山積みにされている大量の本らしきもの、そして座り心地の良さそうな椅子に目を写し、今に至る。 何が起きたのか、ここが何処なのか、これは夢か幻か…。恐らく何時間か経過したであろう今でも何もはっきりしない。 それでも、不思議と嫌な感じはしなかった。 あぁ、落ち着いている。落ち着き過ぎている。 僕は昔から感情が欠如している、なんて他人から指摘されることがしばしばあったけれど、それは痛いほどに自覚しているつもりだった。 自分のことながら自分のことがよく分からない、なんてことは日常茶飯事である。 だからといってこの状況で、こうも泰然自若として落ち着き払っている僕はやっぱり人間ではないのかもしれない。 さわさわと草が歌う。まるで子守唄のように。僅かなその振動を鼓膜に感じながら、僕はゆっくり瞼を下ろした。僕の体重を受け取った背もたれがぎしりと鳴って少し曲がる。心地好い風が肌を撫でては過ぎていく。 夢なら夢で、心地好いからもう少しだけ。 もしこれが現実だというのなら、起きてからどうするか考えよう…。 …気持ち良いな。ここ最近よく眠れていなかったから、今ならよく眠れそうだなんて呑気なことを考えながら。
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