12人が本棚に入れています
本棚に追加
トドメが、同僚から伝え聞いた噂。彼が、同じ会社の若手女子社員と親しそうに話しているのを見た、という情報。自分が見ただけではない話を鵜呑みにするのは愚かなことかもしれないが、その話は不安ではちきれそうになっていた私にトドメを刺すのに十分だったのである。
ああ、彼はもう自分を見ていない。
メールや電話が途絶えたのはきっと、彼なりの無言のサインであったのだと。もう一緒にいられない、心は離れている、それを察してくれ――まったく男性というのはこう、どうして言葉にも出さずに理解してもらおうとばかりするのか。
いっそ、はっきりと別れを告げてくれた方がマシだ。そう泣き出したい気持ちで思っていた矢先――久しぶりに入った電話が、家に来るという言葉であったのである。緊張し、どこか暗く沈んでいるようにも聞こえる声。ああついに、来るべき時が来てしまったのだと、そう思った私。
――さよならを、言われるんだ。
祖父から貰って来た本を広げ、大好きな読書をして気を紛らわせようとしたが――無理だった。
時計の針が止まって欲しい。今ほどそれを強く願ったことはない。チクタクと進む音が忌々しくてたまらない。こんな時に限って、時計に眼を向けるたび針はぐんぐんと進んでいくのだ。
――私、本当に何やってるの。バイバイされるのわかってるのに……ちゃんと化粧してそこそこの服着て、あの人を待ってる。あの人に見せる最後の姿が、情けないものであったら嫌だって凄く思ってる。
ボロアパートの一室。本がいっぱいのこの部屋を、凄い凄いと子供のように褒めてくれた少しだけ年上の彼。大したお金はないけれど、それでも精一杯作った麻婆豆腐を彼が美味しい美味しいと食べてくれたことをつい昨日のように思い出してしまう。
この部屋に、彼が来ることは今日で最後になるのだ。
ああ、どうせなら自分から別れを言い出せる度胸があれば良かったのに。どうして、この日を迎えなければいけなかったのだろうか。
まだ、愛している。
いや、本当は――まだまだずっと、愛していたい人だったのに。
「!」
ピンポン、とやや場違いなほど間の抜けた音。うちのインターホンは少し壊れ気味で、音は鳴るが随分と音程が外れているのだ。だから、となりの家と間違えるなんてこともない。自分の家の音だ。あの人が――やってきたのだ。
――行かなきゃ。
ああ、足が重い。
手に持っていた本をどうにか本棚に戻すと――私は体を引きずるようにして玄関へと向かった。
最初のコメントを投稿しよう!