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ピアノの椅子に腰かけた杉原は、一呼吸置くと鍵盤に手をかけ、曲の初めの一音を奏でた。たった1つの音だけで遼は、目を見開いた。
小さな音だと言うのに、ホール全体に響き渡る柔らかな音。遼の知るあの頃の杉原のピアノとは、根本的に違う。それは確かに杉原の演奏するピアノで、杉原独自の音なのに、遼の知らない音だった。 磨き抜かれていたのだ。
杉原の演奏は圧巻の出来だった。遼は複雑な思いも何もかも忘れて、聴き入る。3年間の集大成が演奏に詰まっていた。一体どれほどの心血をピアノに注いできたのだろうか。
葛城のような素人でも、杉原の演奏は身を乗り出して聴く程だった。
2時間はあっという間だった。遼は時が経つことをすっかり忘れていた。
そうして、ついに最後の曲目になってしまった。
アラベスク第1番。繊細な音がホールを駆け抜けていく。表題通り、美しい唐草模様のような分散和音が絶妙なバランスで組み合わさる。割れ物を扱うような細かなタッチ、ときには大波がうねる様な大胆なタッチ。使われる和音によって、使い分けられていた。杉原の演奏は、レベルが格段に上がっていたのだ。
遼の、杉原との様々な思い出が自然に湧き上がってくる。この曲は、遼にとって因縁深いものがあった。
杉原が中学生の頃、初めてコンクールで入賞した曲がアラベスク第1番だった。遼は我がことのように喜んだのを覚えている。
幼馴染から、恋人になったあの日に杉原が弾いた曲、留学の直前、2人きりで行われたピアノリサイタルの最後もこの曲だった。
曲の終わりの一音が奏でられた。
段々消えていく音。間を空けて万雷の拍手が起こった。
周りはスタンディングオベーションをするほどだった。遼は、様々な思いが去来して脱力する。ただ呆然と座っていた。涙が一筋落ちる。
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