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「遼、プロのピアニストって凄いんだね。俺、彼のファンになった」
「そうだね……」
会場のエントランスを出たあとも遼は、まるで夢を見たかのような心地をしていた。余韻は消えない。足元がおぼつかず、雲の上をふわふわ歩いているような錯覚に陥る。
あのアラベスク第1番は、反則だった。どうあがいても、杉原のことで心がいっぱいになってしまう。ピアノの演奏1つで、ここまで魅了されるなど、杉原は魔性の男だった。
横に愛する恋人がいるのに、強く胸を焦がれる自分がいた。遼は、唇を噛む。この気持ちはもう隠しきれない。その不穏な表情を気にかけた葛城は、遼の背中を撫でた。
「顔色悪いけど、大丈夫?」
「祐樹、俺、俺……実は……!」
そのとき、背後から遼の名前を必死な様子で誰かが呼んだ。
「遼、遼!!!」
条件反射的に振り返る。燕尾服のままの杉原が息を切らしていた。リサイタル帰りの観客はざわついて、視線を一斉に向けてきた。
「遼、来てくれたんだな」
「慎也…なんで」
「どうしても礼を言いたくて」
思いがけない展開に、遼はとてつもなく困惑した。まさか自分がリサイタルに来ていることに気づかれるとは思っていなかった。仮に気づかれても、わざわざここまでして自分を追いかけてくるなど、どうして予想できただろう。
「来てくれないと思ってた。ありがとう」
「せめて、着替えてからにしろよ」
未だ、通行人の視線を浴び続けている。遼の突っ込みに、杉原は、状況を把握して苦笑した。
「えっ、遼、どういうこと?2人はどういう関係なの?」
蚊帳の外の葛城は、呑み込めない様子でいる。遼には、居心地がとても悪い。杉原は、遼の隣にいた葛城に気づいて頭を下げた。
「いきなり、驚かせてすみません。今日は、演奏を聴きに来て頂きありがとうございました」
「いえ、俺、クラシック初心者だけど、とても素敵な演奏で感動しました。すっかりファンです!てか、遼とお知り合いなんですね…?」
「ああ、旧知の仲なんです。同郷の幼馴染で…」
「そうなんですね…!全然知らなかった。遼、教えてくれてたら良かったのに」
遼は、ばつの悪い顔をしていた。自分の立ち振る舞いが分からなくなる。ひとまず、作り笑いを浮かべた。
「彼は俺の恋人、なんだ。女性誌の雑誌記者で、今度慎也にインタビューする、とかなんとか」
「ああ、そうだった!俺、月刊××の記者なんです。今度、よろしくお願いします」
葛城は、名刺を渡す。恋人、という言葉に杉原の顔が一瞬翳ったのを遼は、見逃さなかった。
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