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杉原は、大学2年の頃に、国内最高峰のピアノコンクールで金賞を取り注目されていた、才能溢れる天才ピアニストだ。
日本だけではなく、世界で羽ばたくべきだと、通っていた音楽大学の教授に推薦された。そうして、3年前、音楽の本場である海外に留学することになった。
家が近所同士。幼い頃からの親友で幼馴染。なおかつ恋人でもあった遼はそんな杉原をずっと憧れ、1人のファンとしても応援していた。
杉原が遠く離れていってしまうことは、無論、凄まじいほどの寂寥感があった。それでも、自分の気持ちを押し殺してでも、杉原の夢を優先した。杉原の弾くピアノも、杉原と同じくらい好きだったのだ。
杉原が留学する直前に、2人きりで行われた最後のピアノリサイタルを遼は、鮮明に覚えている。大曲から、小曲、とにかく何時間にも渡って演奏された。どれも舌を巻くほどの出来だったが、1番遼の印象に残ったのは、やはり、最後の曲目だった。
近代派を得意とする杉原の十八番、ドビュッシーのアラベスク第1番。杉原の無骨な手の見た目から考えられないほど、ピアノの特性を知り尽くし、作曲者の意匠を極限までに反映した繊細な音が奏でられた。
遼はそのときの音も、彼の表情、彼の所作、遠く離れてしまう恋人の全てを耳と目をフル稼働させて、海馬に焼き付ける。そうして、杉原が弾き終わると遼は手が痛くなるほどの拍手を送った。
「こうして、弾き終わると凄く寂しい」
「俺も寂しい」
「遼、俺、留学するの辞めちゃおうか」
その言葉を受けて遼は思わず、杉原に駆け寄って抱擁した。これほど、寂しい抱擁は今まで無かった。それでも、無理に笑顔を作る。
「でも、俺お前のピアノもめちゃくちゃ好きなんだわ。今も凄いけど海外で一皮剥けて更にすっげーピアノ聞かせてよ。だから、俺なんかのことなんか気にせず夢に邁進して欲しい」
「そっか、ありがとう」
最後のキスは、切なかった。
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杉原慎也という男は、ひどく薄情な男だった。海外に飛び立って以降、現地に到着したという旨のメールが届いた以外は、一切これっぽちも音沙汰がなかったのだ。1日ならまだしも、3日、1週間、2週間何も無いのは流石に堪えた。忙しいにしても何かがおかしい。
不安になった遼から何度、メールをしても、テレビ電話を鬼のように掛けてみても応答がない。交流のあった、杉原の両親にまで安否を問い合わせてみたら、時々心配を掛けないように、生存確認するような、短文のメールが届くだけなのだという。
理由が分からなかった。なにか、彼にあったんじゃないのか、と不安になった。
1ヶ月、3ヶ月、半年。連絡もなにも来ず、音信不通のまま。気が狂いそうになる月日が経った。遼は必死でアルバイトでお金を貯めて、杉原の留学先に単身乗り込んでやろうか、と意気込んでいたのだが。
インターネット上のクラシック音楽情報サイトに、期待の新星として特集され、掲載された杉原の記事を見つけた。慌てて、記事の日付を見ると、最近のものだった。
写真の中で柔和な微笑を浮かべる杉原の顔がある。
それを見ると安堵する以上に急に憎らしく、そして虚しくなった。記事の本文は読めずに、遼はそっとブラウザを閉じた。
信じたくないことだったが、自分はとうに忘れ去られてしまったのだ、と。
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