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普段と全く分け目を変えた髪型、伊達眼鏡、自分ではあまり選ばない系統の服装。
「今日の遼、なんかお洒落だね」
「デートだから、ちょっと張り切ってみた」
「似合っているよ」
本当は、杉原に自分の姿を認識されたくないが為の、ちょっとした変装だった。
杉原から渡されたリサイタルのチケットは、同僚に譲渡した。葛城の貰ってきたチケットは、後ろの方の席を指定していた。杉原のチケットとは席も違うし、服装も相まって、ステージ上からでは、自分を認識されない自信があった。
リサイタル当日が来てしまった。
未だ、遼は、自分のしてしまったことを、葛城に話せていない。運命はなんていたずら好きなのだろう。まさか葛城と杉原に接点が生まれるなど、思いもしなかったのだった。そうして、自分がこの場に出向くことになることも。
重りが胃の底にあるように、ずん、と痛かった。
会場は、満席だった。女性ファンも多かったが、老若男女問わず様々な観客が来ていた。
杉原の演奏が万人に評価されていることの証左だった。
それを見て、遼は杉原が本当にどこか遠くに行ってしまった気がした。
遼は、二人きりのピアノリサイタル以降、一切彼の演奏を聴いていない。避けていた。だから、彼の今の実力は分からないし未知数だった。
横の葛城は、プログラムを眺めていると、1つ気になるものがあったのか指を差す。
「俺、ほんと、クラシック疎いから大抵の曲分かんないんだけど、この曲、なんかの映画で聴いて好きだったな」
「あっ…」
ドビュッシー『アラベスク第1番』
リサイタルの最後の曲目だった。意図された選曲なのか、どうか分からなかった。心が痛くなって、遼はつい胸を抑える。
そうこうしていると、客席の照明の明るさが落とされた。開演時間になって、舞台袖から燕尾服の杉原が出て礼をする。
遠くからでも、杉原が口を硬く一文字に結んで真剣な顔をしているのが分かる。どこか、緊張をしていることが遼にも伝わった。遼の手が、思わず握り拳をかたどった。
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