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第1章 青天の霹靂
坂田遼(さかたりょう)は、ソファーに寝転がって、眠そうな目で漫画をぱらぱら読んでいた。少しぬるくなったビールを一口飲むと、手に油分が付いてしまうのも厭わず、ポテトチップスの欠片を口に運ぶ。
休日に過ごすこのだらしの無い瞬間は、遼にとってまさに至福。
窓から射す柔らかい春の日差しは、身体を優しく暖めた。つい大きな欠伸をしてしまう。その上、時折ページを捲る音や、体勢を変えるときの衣擦れの音以外しない。ほぼ無音の世界。そういう環境下にあるから、睡魔が遼の瞼を閉じさせようと誘惑してくる。
いっそのこと、午睡でも取ってしまおうと思ったときだったが。
非情なことにインターホンは、遼の平和を切り裂いた。耳障りな電子音が鬱陶しい。
実家から断っても定期的に送られてくる、仕送りのダンボールを届けに宅配便でも来たのだろう、と遼は合点した。もうそろそろそんな時期だった。
宅配便が人手不足で、再配達問題のことを遼は知っていたが、知ったこっちゃない、と開き直る。自分の睡眠を優先して、居留守を使うことにして、目を閉じた。
それでもインターホンは、諦めずしつこく鳴る。ついにはドアが煩くノックされてしまった。応答を急かされている。
宅配会社の人間も大分必死なのかもしれない。段々申し訳無くなってきた遼は、最終的に根負けして、ソファーからようやく立ち上がった。
とはいえ、寝起きが悪い方だから少し虫の居所が悪い。誰がどう見ても不機嫌な表情でドアを開ける。
「はいはい、お待たせしました。すみません」
来訪者は見慣れた、業者の青い制服を着ていなかった。代わりに青い男物のスプリングセーターを着ていた。予想していた人間とは違う風貌に面食らって、思わず遼は顔を上げた。
まず、男の正体を知るにあたって遼の嗅覚がいち早く反応した。非喫煙者なのに、何故か記憶していた銘柄の煙草の臭い。
視覚は数秒遅れて男のことを認知した。猛禽類を連想するほど鋭い目。鼻は高く、顎はシャープ。端正でいて、濃い顔だった。切りそろえられた前髪を来訪者は手ぐしで整えた。
「久々」
男が発声したことによって、遼の聴覚がついに海馬の奥にずっと封印していた記憶の扉を開いた。トーンの低い心地の良い声。遼はこの男のことをずっと前からよく知っていた。
ショックで、息の吸い方を忘れてしまいそうになる。ひどく動揺して、幽霊を見たかの様に、がたがたと震えだした。
「おっ、お前、し、死んだんじゃなかったのか」
「勝手に死人にするな」
「いつ帰ってきたんだ。どうしてここが分かったんだ!」
「5日前くらい。おばさんに聞いた」
自分の母親の顔が浮かんで、遼は頭を抱えた。
そして、何が何でも居留守に徹していればよかったと激しく後悔した。
こんなときに、こんな形でこの男―杉原慎也(すぎわらしんや)と再会などしたくなかった。
そもそも、一生再会できるとすら思っていなかった。
自分のことなど、とうに忘れ去られていると思っていたし、頑張ってこの男に関する記憶を風化させかけていたのだ。遼は、一歩後退してドアを閉める。しかし、叶わない。ドアの隙間と隙間の間に、巧く杉原は身体を割り込ませたのだった。
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