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間宮さんが帰った後の店内には、静かな空気が流れていた。
入り口に置いてあるクリスマスマーケットのビラを、師匠の無骨な手が整えている。紙が擦れる乾いた音に混じって、空気の抜けるような音が鼓膜を揺らした。
「芸大の講師っていうのは、他人の道をとくのが上手いんだな」
声に反応して顔を上げると、師匠が二回目のため息を吐くところだった。
どうやら師匠は施術室の中から、俺たちの会話を聞いていたらしい。
さっきまでたくさんあったはずのビラは、間宮さんがごっそり持って行ったっせいで残りわずかになっている。
どこか寂しそうな顔で、一枚一枚ビラを揃える師匠を前に、俺はかける言葉を探した。
「そんなこと‥‥」
ない。
師匠に気を遣って言いかけた声が喉に詰まる。
師匠は俺の悩みを受け止めて、彫り師になれと言ってくれた。
間宮さんは自由に絵を描けと言ってくれた。
呼吸をするような絵が描きたい———その願望を叶えるにはどちらも出来なければならない。過去に縛られたままでは、前を向けないままでは、いつまで経っても成長しないのだ。
「確かに間宮さんは欠点に気づかせるのが上手です。でも俺が目指しているのは彫り師なので‥‥」
やっぱり上手く言葉が出ない。
ズキズキ痛む頭をさすりながら、開いたままのMacBookを見つめる。
「ケイ」
不意に師匠の柔らかい声がして、俺は顔を上げた。
「お前は、お前の好きなように生きろ」
師匠の瞳はいつになく真剣なものだった。
好きなように描け。好きなように生きろ。
急にそう言われると迷子になる。自分にとって絵を描くことは、好きなことじゃなく、生きる術だった。だから、右に行けばいいのか左に行けばいいのか、何が好きなようになのか分からない。でも、自分の願望を叶える為には、その好きなようにとやらを模索しなくてはならないらしい。
師匠の言葉に頷きながら、これは骨が折れそうだ、と、自分の頭をぽりぽり掻いた。
ひとまずクリスマスマーケットでは、Operaも間宮さんも関係なしに、自分の手が進むままに絵を描いてみようと思う。多分それが、二人の言う好きなようにというやつだ。
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