By Chance

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 窓の外は良く晴れていた。冬の、真っ青な快晴の丁度中央を、椅子に座った人の形に黒く切り取った影。四角い枠の中にあって、絵画か写真のような構図に足を止めた。影は動かない。代わりに、雲が風に流されていく。  ふと、影が振り返って、目が合った。 「堂島(どうじま)君」 「やあ佐原(さはら)」  誰もいない教室の窓際に座っていた女子生徒――佐原(さはら)彩美(あやみ)。  教室の電灯は消えていた。そのせいで、空の光がことさら眩しかったのだと気づく。だが彩美の前にはプリントと筆箱があって、苦笑した。 「電気点けなよ。それ、やってるんだろ」 「うん。補習のやつ。いんだよ。ここ十分明るいもん」  そう、と答えつつ、「三―B」の看板のかかった入り口から入って、黒板近くのスイッチを一つ操作した。窓際の一列が、白い光でぱっと明るくなる。ついでに、黒板の日直欄の「堂島」を消して、書き換えた。週明けは永池になる。 「目が悪くなるって言われないか」 「言われない。視力だけ(・・)は好いって言われる」 上から覗いたプリントは、ほぼ真っ白だ。強く発音した自己申告通り、英数字ではなく、落書きのうさぎの方が、ずっと数が多い。 「佐原、さ」 「分かってる。これは簡単なんだって言わないでね。やばいって思ってるから」  お互い三年だ。当然、すでに受験は始まっている。推薦やAOなど、一般とは違う受験で受かった人が、一人二人と聞こえてくる時分だ。  その時期に、基礎よりやや上のレベルの問題に躓いていては、当人以上に、周りの方が焦っているのではないだろうか。特に、面倒見も人もいい数学担当で、彩美のクラスD組の担任でもある石田とか。今日は土曜日だ。午前中の授業の後、急な補講になった理由の一端を担っているのでは、とまと外れでもなさそうな推察をしたくなる。  前から三番目の、ひとつ前の椅子を引いて腰掛けた。さかさまの数列をざっと追いかけ、円と三角、反比例するグラフを読み解いていく。 「……分かった?」 「うん」  躊躇いなくうなずけば、彩美が項垂れた。だよねえ、とこぼれた声は、称賛と羨望が入り混じっていた。 「模範解答の堂島君だもんね」 「それ、まだ覚えてたんだ」 「忘れないよう、あんなの」  クラスが一緒だったのは、去年の話だ。毎年変わるクラスに、およそ顔ぶれを把握したころに来る中間考査。席が一番後ろで隣り合ったのは、くじの結果に他ならない。そして、配られた紙と、たまたま目に入った隣のクラスメイトの回答がそっくり――なのではなく、彼の解答用紙のコピーだと気づいた。氏名欄だけが、几帳面な堂島(どうじま)(すすむ)の三文字の代わりに、「模範解答」の四文字になっていた。  印刷の都合か、やや黒っぽくなった模範解答を一瞥したのちに、筆記用具以外のすべてを机の下に放り込んだ動作で、見間違いではないと確信した。  凄いなあ、とこぼした呟きを、亘は拾った。拾って、少し周囲を見回してから、黙っといて、と囁いた。  彩美は誰かに言いふらすつもりはなかったけれど、まさか口止めされるとも思っていなかった。怪訝に思ったのはそのまま顔に出て、『運が良かったんだ』と、亘の苦笑をもらった。  運だけでは満点にはならない。実際、彩美はぎりぎり親の文句が出ない、七割弱しか点数がなかった。 『勉強したんでしょ?』 『まあね……嫌いじゃないから』  なんて羨ましい、とその時も思った。彩美は体を動かすと読書が好きだが、球技で活躍できるわけでも、国語の点数が上がるわけでもなかった。 『だから別に……頑張ったわけじゃないって言うか』  彩美は首を傾げた。まるで誰かに言い訳するような口ぶりだ。亘は何も悪いことはしていない。  勉強しなかったの、という真逆の質問に、いや、と亘が言葉を濁した。教科書を読むだけで済む、なんて特殊能力でも備わっているのかと訊いたら、さすがに首を振った。  だが大して時間も掛けてないと、亘は付け加えた。どこか冷たく感じる態度に、彩美は困惑し、くるりと周囲を見回した。数学担当の石田の解説は、ちっとも耳に入ってこなかったし、そう、と切り上げてしまうには、戸惑いが大きかった。 『大変な思いをするのが、努力なわけじゃないと思うけど』 『え?』  亘は勉強した。それで満点を取った。得意なこと、好きなことに取り組んだ努力も――同じ努力だ。  胸を張れとか自慢しろ、なんて主張するつもりはないが、過程と結果が伴ったのなら、亘は別に解答用紙を隠す必要はない。  途切れがちに、ごく小さな声で説明すると、亘は真顔で黙り込んだ。怒らせたかと、慌てて得意な人がいてくれなきゃ、困っちゃうよと付けくわえた。今度因数分解、教えてね、とも。  亘は答えなかった。代わりに、聞いているの、と石田先生の指摘が飛んできて、話はそこで途切れた。  少し珍しい出会い方をしたが、それ以上は何もなく、二人はクラスメイトとして一年同じ教室にいただけだ。ただ、教科全般の成績が良かった亘は、特に遠慮のない男子たちのテストやノートのあてだった。その中に、幼馴染の永池(ながいけ)泰良(たいら)がいて、よく引きはがしに行ったものだ。泰良が無理矢理ノートを奪おうとしているのを、周りは面白がっているだけだったせいで。  かちかち、とシャーペンの芯を出す。二センチ出して、プリントに先を当てて引っ込めた。黒いかすれた点がつく。周りに染みのように細かい粒が広がったので、指で擦ると灰色の汚れになった。何の意味もない。 「佐原、やる気ある?」 「あんまない」 「いや、まずいだろ?」 「分かってる。四時から石田先生が来て答え合わせだから……それまで頑張る」 「ふうん? ここで?」 「B組で、四時からって言ってた……堂島君は関係ないから、覚えてない?」  亘は答えなかった。  現在時刻、二時過ぎ。午前中で授業は終了し、生徒は不要の居残りは禁止で、部活動も特別な事情を覗き、土曜日の午後はすべて休みが学校のルールだった。だから、校内全体が閑散としている。  補講の連絡なんて、無縁の亘は聞き流して当然だ。 「……分からないなら、まずは教科書出したら?」 「読んでも分かんない」 「じゃあ、ヒント出すよ。あと、最初からあきらめるのは良くない」  図星を指されて、彩美は渋い顔になった。苦手過ぎて、後回しにし過ぎた付けなのだ。分かっていても、手が動かない。  教科書、と再度急かされて、ようやく鞄から一冊二冊と引っ張り出した。 亘の手が目次を素通りしてページを開き、指さしたところが使う公式だった。最初の一問は、そのまま当てはめれば完成。次からが応用。亘は驚くほど教えるのが上手かった。線一本で、嫌いな図形問題の糸口を示し、解答へと導く。  なんで? と不思議な生き物を見る目の彩美に、慣れだよ、の苦笑が返ってきた。 「基本と応用の繰り返しだから。経験値を積むしかない」 「でもさ……やっぱ上手く積める人と、そうじゃない人がいるでしょ?」  ははは、とごまかされる。やっぱり、と彩美は面白くなかった。プリントは、ものの二十分で完成した。  時間が余ったな、とつい外を見る。何もない。誰もいない校庭があるだけだ。木々の葉も落ちて閑散とした雰囲気は、彩美の気分にぴったり過ぎて笑えない。  その上、空模様は下り坂だと聞いた。 「明日、もしかしたら雪だってね。そしたらホワイトクリスマスっぽくない?」 「今年の二十四は平日だからね。佐原の家、なんかあんの?」 「ケーキ買って、ローストチキン作るって」 「……楽しみじゃないの?」  うーん、と彩美は言葉を濁した。普段なら言えないが、亘からごく平坦に問われて、今ならいいかな、と一つ頷く。 「あんまり好きじゃないんだ。クリスマス」  イルミネーションも街にあふれるツリーも、全部が全部、同じ雰囲気、同じ色に染まる。家の夕食でさえ、チキンとケーキだ。 「嫌いじゃないんだけど……綺麗だとは思うよ? ケーキはおいしいし。だけどこう……強制されているみたいっていうか」  そうなんだと亘が相槌を打つ。いたって平常で、馬鹿笑いしたどっかの幼馴染とは違う、大人の反応に気分が少し上がった。 「変じゃない?」 「俺は捻くれてるから」 「そうかな」 「ひねてるよ。だから、クリスマスにニワトリがいなくても問題ないね、全然」  なんだか言い当てられた気持ちで、そうそう、と頷く。 「鶏肉は別に好きじゃないし」 「じゃ、佐原は何が好きなの」 「サバの味噌煮?」 「そこ疑問形なんだ?」  くくっと亘が笑う。笑われても、今回は平気だった。腕を振るってくれる母親には悪いが、彩美は明日のローストチキンより、昨日の和食の方が好きなのだ。何となく髪をいじっていて、前髪を押さえたピンに触る。赤い花のピンを、ずれてもいないのに直すふりをした。  目が合って、笑う。亘も笑っていた。だから、ねえ、と亘の指が机を指しても、何も準備が出来なかった。 「ここ、泰良の席だね」 「――」 「あいつもう帰ったよ。今日くっついたばっかりの彼女と」  知ってる? と聞かれて、彩美は返事が出来ない。徐々に俯いて、一番下で、微かに頷いた。知ってる、と声がかすれる。 「一緒に帰ってるの、見たから知ってる」 「まあ、本人も盛大に宣伝してたしね。明日はデートするって」 「……」  彩美は瞬いた。泣いてないことを確かめて、顔を上げる。亘はもう笑っていなかった。だからと言って、同情している様子もない。 「言わなかったんだ?」 「……言えなかった」  絶対に、と付け足す。  泰良は分かりやすい。とても分かりやすい。子供っぽくてバスケが好きで、女の子は明るくてお化粧もバッチリな、可愛い子が好きだった。  細かいことが気になって、すぐ口に出して注意する、遠慮のない幼馴染みなんて、ちょっと鬱陶しい、程度にしか思っていない。  クリスマスに憧れない彩美に、お前なんて女じゃない、と面と向かって言えるくらいに、信頼はされていても、異性としては眼中になかった。もしかしたら泰良は、彩美が傷つくことさえ想像できなかったのかもしれない。  可愛くない、くらいだったら、まだ良かった。自分の意識も性別も、丸ごと否定されて凍りついて、言葉が出なかった。 「言えなかった。なんにも」  反論も、告白も。何一つ、声にならずにただ沈黙した。ふうん、と亘が頬杖をついて窓の外を見やった。亘は隣にいなかったのに、彼の目にも泰良と彼女が寄り添って歩く背中が映った気がした。 「代わりにはっ倒してやれば良かったのに」  ぼそりとした呟きに、首を振る。怒りは湧いてこなかった。ただ……真っ白で空洞になっただけだ。知らず知らず、彩美はまた俯いていた。  泣きたいような、気がした。涙は出ないけれど、泣いたら亘は困るだろうし、涙を見せたいわけでもない。とにかく、今は何も言わないで欲しかったのに、佐原は、と呼ばれて肩が強張る。 「佐原は――可愛い」 「――」
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