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「い、ピンしてるね」
とっさに顔を跳ね上げていた。亘の指先が前髪の近くにある。悪戯が成功した笑みに、呆気に取られてから、むっとした。
「俺には似合わない。佐原だから似合うんだよ」
「そんなことないよ。ほら」
外して、無理やり亘の前髪の一部を上げてまとめる。意外と柔らかい髪に少し驚いた。折り畳みの鏡に映すと、興味深そうに赤い花を亘が突く。
亘は、どちらかというと細身で中性的だ。顔立ちも優しいから、彩美としてはさほど違和感がない。
いや、もしかしたら、自分より似合うかも、とさえ思った。
「へんだね?」
「全っ然」
大げさに否定して首を振ると、意外と意地っ張りだな、と返ってきた。
「可愛くないでしょ」
「……」
黙ったまま、亘は微笑した。口の端が綺麗な弧を描いて、彩美を静かに見つめた。なんてことのないはずなのに、なぜか心臓が跳ねて、慌てて目を逸らす。
可愛い、言われたさっきより、恥ずかしい。顔が勝手に赤くなっていくのが自覚できるほどだ。
「ねえ佐原」
名前を呼ばれて、また鼓動が不自然になった。
「な、なに?」
「俺も……言えなかったこと、あるんだ」
「……」
真っ直ぐに、亘と向き合う。机を挟む距離感が、今更近すぎる距離だと気づいた。なに、と尋ねる声は、どうしても少しかすれる。
「あのさ」
「うん」
「……数学の補講は、D組で、十四時からって言ってたよ」
「…………」
頭の中で、理解するのにしばらくかかった。瞬いて、ぽかんと亘を見つめてから、ばっと背後を振り返った。
教室の後ろにある壁時計は、午後三時十分――すなわち、十五時過ぎ。完全に遅刻。いや、すでに終わっている可能性もある。
「あ、え……ほんとに!?」
「うん。俺、今日日直で。連絡事項しゃべったから覚えてる」
「な……なんでっ」
「うーん……だから、言えなかったんだ」
「そこは言ってよ意地悪い! ていうかサボり……!?」
慌てた彩美が立ち上がるが、結局がっくりと椅子に座りこんだ。補講の出席は義務ではないが、行くと言ってプリントをもらった手前、体裁が悪い。
「堂島君、ひどくない」
「うん、ゴメン」
「素直に謝られても……」
戸惑いと疑問を浮かべつつ、彩美がどうしよう、と悩む横で、亘がごめんねともう一度謝った。
悪いことをしている、という自覚はあった。だが、どうしても言えなかったのだ。
クラスメイトとしてしか繋がってなかった彩美と、二人で話せる機会――こんな偶然は、きっと、二度とない。
彩美が教室にやってくるのは、泰良に会いにくるから。仲の良さ以上の彼女の気持ちは薄々感づいていたし、それでも些細な会話を持ち掛けることを止められなかった。
捻くれてずるい自分は、心のどこかで気づいていた。泰良の気持ちが別のところにあるのも、いつか……今の結末が来ることも。
本当は……補講の時間を伝えるだけのつもりだった。けれど、出会いを覚えていて、つい口を噤んでいた。ずるいよな、と頭の中の小さい声は囁いたけれど。
彩美に言えなかったことは、たくさんある。
実は、クリスマスなんてどうでもいいとか。
実は、勉強を好きだと思ったことは、一度もなかったとか。
亘の両親は多忙で、あまり食事を共にすることもない。プレゼントもディナーもない。代り映えのしない一日なのだ。
彼らは、成績さえよければ、過干渉も束縛もしない。下手に勉学から離れれば、代わりの時間を拘束されるだけだと学んだのは中学の時。監視も兼ねた個別指導など、やり方はいくらでもあった。
関心を買うことを諦めれば、勉強が苦にならず、労力を掛けずに点数を稼げるのだから、ある意味楽だったし、実際、羨ましがられた。
だが目立ち過ぎては面倒の方が多い。だからこそ、答案を隠したのに、見つかった時は不運すぎると、内心で顔をしかめていた。
努力を――自分のことをどこか否定していた、と自覚したのは、だからあのときだ。彩美が、模範解答に目を丸くしながら、頑張ったのだと太鼓判を押した時。
純粋に、すごいと認めて貰えたのも、また同じ。
今なら――数学が得意で、良かったと思う。黒い線一本で氷解した彩美の表情と、感謝を向けてもらえた。
クリスマスの思い出がなくてよかったと思う。サバの味噌煮が好きな彩美を、変だと否定せずに済んだ。
たった一時間足らずの間に、あふれてこぼれそうな感情は……やはり出口を見つけられないまま、亘の中で温かいスープみたいに回っていた。
困った顔の彩美に、謝罪しかできない。
ふう、と息をついて、彩美は落とした肩をクイと持ち上げた。きりりと眉尻を上げて、いい、と指を突きつける。
「内申下がったら、堂島君のせいだからね」
「悪かったって。とりあえず、石田先生のところに行こう? 俺が説明するからさ」
「まあ、一応、模範解答は欲しいかな」
彩美が手にしたプリントに、ちらりと視線を投げる。多分いらない、とは口に出さないでおいた。鞄を片手に、二人は立ち上がって、職員室に向かった。
内申の心配はどうにもならない。代わりに、違う提案をした。
「良かったら、数学教えるよ? 図形が苦手なんだっけ?」
「いやでも……」
「実はさ」
「今度は何?」
警戒心も露な彩美に、悪かったって、と告げつつ、見たことがない表情につい苦笑に似た笑みがこぼれる。
「まあ、これも言いにくかったんだけど」
「また?」
「そう」
むう、と口をとがらせる彩美は、それでもなあに、と尋ねてきた。
「俺、受験終わったんだ」
だから時間あるよ、と続ける。彩美は目を丸くした後――複雑そうに視線を落としてから、上目遣いに、そうっとおめでとう、と告げた。羨望と称賛と――少しの嫉妬。とっさに、またごめんと言いそうになった時、強く頭を振ってから、彩美は笑った。
「良かったね、堂島君」
おめでとう、と重ねられたら、返す言葉は一つだ。
「うん、ありがとう。だから……次は佐原の番だよ」
「なら……甘えちゃおうかなぁ」
にこやかに、語尾が少し弾む。埋まったプリントを前にかざしながら、ねえ、と振りむいた彩美に、亘はついと目を細めた。
冬の日差しはもう弱く、廊下の影は長いのに、とても眩しかった。
前髪に残っていた、赤い花を外す。記憶に残る同じ位置に、素早く戻すと、彩美が驚いて足を止めた。
「佐原は」
「うん?」
「可愛い」
「――」
「って、俺は思っているよ」
すぐに顔を真っ赤にした彩美が、嘘つき、と小声で亘をなじった。どこか恨めしそうに睨む彩美の事も、とても可愛いと思ったことは、やっぱり言えなかった。
今は――まだ。
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