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三十代
息子が生まれて早10年。子供の成長はすごく早い。よく食べ、よく遊び、よく眠る。……勉強という勉強をしないので時折将来の事を考えて憂鬱になるが、この子はなりたいモノとかはあるのだろうか?
俺は目指していた夢を叶えた。でもその為に歩んできた道は、子供に何かを背負わせたのではないか。夢に掛けた時間を子供に掛けた方が良かったのではないか?
良い親父になれてるのかと不安になる。もしかしたら本来構うべき時間を捨ててるのではないかと、そう思った。
良い親父の定義は何かと考える。真っ先に思い浮かぶのは自分の父親だ。幼い頃に母親を亡くして、男手一つで自分を育ててくれた父親。あれだけ活発で、あれだけ自信満々に生きてきた誇らしい親。
ああ、そう考えると……久しぶりに会いたくなってきた。もう六十に差し掛かるだろう親に、無性に会いたい。
親父に電話をすれば、子供を寝かしつけてから来いと言われた。あくまで事前連絡のつもりで言ったのだが、どうせ明日は休みなのだからと押し切られる。
妻を見てみれば、苦笑混じりに「気分転換に行って下さい」と言う。親父の横暴さに呆れたのか、断りきれない俺に呆れたのか。しかし拒否はしない。ならばその言葉に甘えようと、息子が寝たのを確認し、軽い荷物を持って外に出る。
久しぶりに会った親父は、何処か老けていた。きっと“そう感じた”だけだろう。先程の『会いたかった父親』は子供の頃は誇った父親で、何時迄も同じ人間という訳ではない。
それでも父は父だ。「ただいま」とはにかんで微笑めば、「おかえり」と優しく迎えてくれる。
「ちょっと老けたか?」
「それはこっちの台詞だ」
何気ないやり取りだ。というか出迎えの言葉のすぐ後が「老けたか?」は如何なモノかと思う。特別な褒め言葉でもあるまいにと、呆れて笑う。
俺の言葉は不思議だっただろう。何せ老けているか老けていないかの判断を下したのは、“今”と“十数年前”の見比べだ。実際には以前に会った時と変わらないし、当然親父も疑問を浮かべている。
「で、突然どうしたんだ? 何の理由もなく来る訳でもないだろうに」
「あー、その……何だ? ……うーん、言葉にすると恥ずかしいんだけどさ」
照れ隠しにと頬を掻き、はにかむ様に笑って目を逸らす。直視すると言葉に出来ないから、親父を視界から外し、口を開いた。
「……良い父親って何だろうなって思ってたら、真っ先に浮かんだのは親父だったんだよ。けど、あー……直接その『有り難さ』って伝えたこと、無かったなって思ってさ……。だから……」
でも目を合わせず言うものでもないだろう。気恥ずかしさは我慢する他ない。
ヤケクソ気味に視線を前に向け、その感謝を言葉にした。
「育ててくれて、有り難うございます」
「───」
今の俺は、一体どんな顔をしてるだろうか。改めて言葉にする事に気恥ずかしさを感じて強張っているか、だらしない笑みでも溢しているのか。それとも“大人”になったと、真面目な顔でいられているだろうか。
内に秘めてるのは全てだ。もしかしたら、表面上は全て混ざって複雑な表情になっているかもしれない。
気持ちを落ち着かせる為に一度目を閉じる。視界は暗くなり、鼓動の音が耳を刺す。その音が小さく、そして頻度が遅くなっていき、落ち着いたと確認した事でゆっくり目を開けた。
目の前には、嬉しさを噛み締める様な、今まで見た事のない笑顔を浮かべる親父の姿がある。
「……親父?」
親父は俺と同じ様に目を閉じて数秒、噛み締める様な先程とは違い、少し煽る様な笑みで口を開いた。
「何だ、自分が「しっかりとした父親だろうか」って心配にでもなったか?」
「ぅ……なんで分かんだよ」
「そりゃお前の父親だからな。会話の流れからして、そう思っただけだ」
……まあ、確かに。露骨に『良い親父』とか言って、『悩みの相談』と推測して繋げれば、間違いなく自分が良い親父かどうか。或いは良い親父になるにはどうすればいいかって思い浮かぶ。
とは言え、こんな改めて言葉にするのが恥ずかしい台詞を受けてその推測を立てられるのは、流石“大人”というべきか。それとも“親”と言うべきか。
振り返ると、やはり偉大な父親だと思う。それに比べて自分はどうだろう? 悩み、不安を掲げ、見えない先を、戻れない過去を考え続ける。
生まれてから3年の記憶は、大体の人間は覚えていない。一番古い記憶でも4、5歳の時。明確に思い出せるのは小四の10歳の記憶だ。そこで浮かべていた親父の笑顔を思い出し、『良い親』の定義が何かと考えた。
俺にとっての『良い親父』が俺の親父だったから、直接その人物に問う事こそが最善だと判断した。
「取り繕え」
「……は?」
「悩んでも、不安を浮かべても、これは間違いじゃないと孫に笑顔を見せろ。考え過ぎる“お前”には、それがちょうど良い」
………。
「悩むな、とは言ってない。最終的に下した決断を自信満々に見せろと言ってるだけだ。……つーかな、“良い親”なんて定義は子供にとってそれぞれだろ? 悪ガキに対して“良い”を下したところで、そりゃ悪ガキにとっては“悪い”だ。善性と悪性は必ず反発する。だからお前がやりたい事をやりゃいい」
「……俺の判断」
「気持ちの取り繕いはイコール思考の取り繕いじゃない。お前が子供の為にやった事なら、そこに嘘はないだろ? ……安心しろ。自分の子供もいつか大人になる。自分の為にやってくれた事を考えてくれる。いつまでも『守る対象』じゃないんだよ」
……そっか、そうだな。今はまた助けられているけれど、この人から自立して、自分の考えで妻と結婚し、子供を産んだ。
そして自分の子供もまた、自分の下から旅立つ時が来る。今与えられるのは、自分の考えに自信を持ってくれる事だ。俺が不安を抱えていてはそれも台無しになる。
存分に悩んで、それでも下した結論を自信満々に言い放つ。気圧される情けない親の姿が子供にとって“良い親”と判断されるはずもない。決して嘘などない、取り繕いをしよう。
親父はやはり偉大な親父で、自分も前を向けるようになった。まあ、極端な話、大した変化があった訳ではない。心の奥底では未だに迷いがあるし、不安もある。
でも子供に不安を見せまいと子供の為に奮闘する自分の姿は、やがて仕事にも影響を施し、自信満々である姿がどれだけ“良い”結果を生むのかと考えさせられる一幕となった。
そうして、終える三十代。
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