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 子供の頃、「丸の内のOL」という響きに憧れていた。高校の進路指導で、先生に将来の夢を尋ねられ迷わず「OLさんです」と答え、不思議な顔をされたことを今でも思い出す。  幼い頃に両親から虐待を受け、挙句その両親を目の前で殺された私は、いわゆる普通というものに強い憧れを抱くようになった。普通の恋愛、普通の仕事、普通の暮らし。人より秀でた部分などなくていい。普通こそが何より得難い至高なのではないかと、ずっとそう思っていた。とは言え、OLという職業を夢想していた幼い私の脳裏に、具体的な仕事の内容が思い浮かんでいたわけではないし、OLさんを楽な仕事だと認識していたわけでもない。テレビやなんかでよく聞く「丸の内のOL100人に聞きました」というフレーズに、ただ漠然と恋焦がれていたにすぎないのだ。  大学卒業後、念願かなって東京の出版社に入る事が出来た。東京には数多の出版社が軒を連ねており、ある人物の影響で本好きになった私は希望を出版社一本に絞り、地元の利を生かして面接を受けまくった。だが、なんとか採用を勝ち取った出版社の名前を年の離れた姉に伝えたところ、知らない、と一撃で切って落とされた。  そんな姉に、 「お姉ちゃん、私、OL?」  と尋ねると、私の将来を心配してくれていた姉は、綺麗な顔を綻ばせて「うん」と頷いてくれた。この姉がいなければ、私は大人になることすら出来なかったと思う。血の繋がりどころか、遠縁ですらない赤の他人である私を引き取り、成人するまでたった一人で育て上げてくれたのだ。尊敬し、愛してやまない姉を少しでも安心させることが、私の長年の夢のひとつとなっていた。それだけに、うん、としか答えない姉の笑顔を見れた時、私はを手に入れたのだとよくやく実感できた。  幸せだった。出版社の編集部という職業は想像よりも激務だったし、大手ではない分、身に付けねばならない仕事の内容も多岐に渡っていた。だが、なりたい者になれたのだという達成感が、私の日々の暮らしを支えてくれた。そしてなにより、仕事で忙しくしている自分がちょっと格好良く思えたりして、それもまた嬉しかったのだ。    ある秋の日のことだ。昼休みに会社の屋上でお弁当を食べていた私に、 「秋月さん、ちょっといい?」  そう声を掛ける者があった。販売部に在籍し、今は主に電話業務に従事する正脇(まさわき)さんという名の女性である。彼女は私の三年先輩にあたる。なぜ三年という数字をはっきり覚えているかというと、私の入社時のエピソードに関係している。正脇さんは入社したての私に仕事を指導しつつ、こんな言葉をかけてくれたのだ。 「初めは覚えるだけで大変だけどねえ。なんでも言うでしょう、三日、三ヶ月、三年って。そこを乗り越えたら大…なんだって大丈夫なんだから。あなたは今日が三日目でしょ? あとは三ヶ月を乗り超えちゃえばもう、あっと言う間よー」  右も左も分からない新入社員の私にとっては、先輩から優しい言葉をかけてもらえるというだけで有難かった。まるで十年選手のようなベテラン風の台詞を口にした彼女が、 「私が、今年で四年目だからさー」  と、明るく笑った姿が印象的だった。こういう人が言葉通りに三年頑張れたのだから、良い職場に違いないと思う事が出来たのだ。あれから三年が経ち、私は今年二十六歳になる。私が正脇さんに感謝する気持ちには、いささかの変化もない。 「いいですよ、丁度食べ終わった所なんで」  私がお弁当箱を片付けながらそう答えると、正脇さんは備え付けのベンチに座る私の隣に腰かけ、 「相談があるんだけどねえ。あのー……言いにくい話でさあ、ここだけにしておいて欲しいんだけど」  とのこと。屋上には今、私たち以外誰もいない。他の従業員はみな外に食べに出てしまうか、営業部署の人間ならば出向いた先で済ませることが多いという。私は敢えて小声で話す必要性を感じないまま、正脇さんの浮かない表情を覗き込んだ。  その時、私の目に飛び込んできたのは皺くちゃのお婆さんの横顔だった。 「え」  私はゾッとし、何度も瞬きを繰り返した。正脇さんは私より四つ年上だが、今年でまだ三十歳だ。たまたま今日は疲れて見えるとは言え、本来ならお婆ちゃんどころかおばさん呼ばわりさえできない程ハツラツとした人なのだ。  ブルルル。えも言われぬ寒気が首筋を這い上がり、私は身を震わせた。 「……季節の変わり目か?」  思わず独りごちた私に、 「え、何?」  と正脇さんが顔を上げた。  その時にはもう、いつもの彼女だった。
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