【4】

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   私の目から見た限り、正脇さんのお姉さんは全く病人に見えなかった。入院着を着用しているわけでもなく、普段通りの服を着て、大部屋のベッドの上に腰かけて窓の外を見ている後ろ姿などはまるで、お見舞いに訪れた患者の家族のようですらあった。 「姉さん」  正脇さんが声を掛けると、お姉さんは長い髪を耳に掛けながらゆっくりと振り返った。少しだけ疲労の色を浮かべてはいるが、色白で整った顔立ちの美人だった。私は一瞬拍子抜けしたのを悟られぬよう頭を下げ、自ら名を名乗った。 「秋月、めい……さん?」  正脇さんのお姉さんはそう言うと口元に笑みを浮かべ、「め~いちゅわ~~ん」と、『となりのトトロ』に出てくるお婆ちゃんの口真似をしてみせた。 「ちょっと姉さん、失礼でしょうが!」  正脇さんはそう言って窘めるが、実際よくある話だった。私の『めい』という名前は平仮名だし、事あるごとにこうして揶揄われるのはもはや宿命としか言いようがない。だが、揶揄われて今程ほっとした事はなかった。むしろ、揶揄ってくれてありがとうとさえ思った。それほど私は緊張し、体が強張っていたのだ。 「だあって~」  お姉さんはそう口を尖らせて拗ね、「ごめんなさーい」と低い声で謝った。 「平気です、慣れっこなんで。でも、あんまり物真似、似てませんでしたね」  と私が言うと、お姉さんはパっと明るい笑顔を浮かべて、 「あー、病人にそういう事言うー?」  と声を張り上げて笑った。  正脇さんのお姉さんは、私の先輩の三つ上。ということは今年で三十三歳ということになる。年齢よりも若く見えるのは、しっかりとした芯の強さが窺い知れる妹さんとは違い、どこか天真爛漫を思わせる無邪気さがあるせいだろうか。  便宜上、正脇さんのお姉さんの事は仮称『A子』さんとする。  A子さんに話を聞いた。 「子どもはいなかったけどね。離婚の時に、前の旦那と結構ひどくやりあって。その結果何が残ったのよって考えたら、私にはなーんにも残ってなくてさあ。実際それがキツくてねー。体調を崩し始めたのは、その後くらいからかなあ。自分で思い当たる原因は、それしか思いつかないんだぁ。これはもう、先生には何度も言ってるけどねー」  通院を始めた頃は、この病院の内科を頼っていたそうだ。特にどこが、なにが、という不調の箇所はなかったのだが、とにかく体がだるくて元気が出なかったという。 「具合を悪くされたのはどれぐらい前なんですか? 一年とか?」  私が聞くと、A子さんは大袈裟に「えー?」と驚き、いつだったかなあ、と首を傾げた。 「そんなに前じゃないって聞いてるよ?」  正脇さんがそう言うと、A子さんはそれでも「どうだっけなあ」ととぼけて天井を見上げた。 「まあ、この一、二か月かなあ」 「あ、そうなんですね。今九月だから、七月とか、八月とか?」  私がそう合の手を入れると、 「うーん、そうかなあ」  と、A子さんは頼りない返事とともに俯いてしまった。 「……」  A子さんを見据える私の目付きに、正脇さんも似たような異変を感じ取ったらしい。私はなにも、怒ってA子さんを見つめたわけではない。むしろ逆だ。心配になるほど記憶の曖昧さが目立つA子さんの口振りには、それでも真実味があった。噓をついているとか、誤魔化しているようには見えなかったのだ。それが却って不気味に思えた。  私がお手洗いに行くと言って立ち上がると、正脇さんは私に場所を教える振りをしながら廊下までついて来た。もしかしたらA子さんは初対面である私の素性を訝しみ、はっきりとした答えを口に出来ないのではないかと思った。退席中に上手く説明しておいてもらえるよう正脇さんに伝えると、そのまま私はお手洗いに向かった。  途中通りがかったナースステーションを覗く。 「なんですか?」  机で書きものをしてた若い看護師の女性が、顔を上げて私を見た。ズレた眼鏡を治す仕草に若干の苛立ちを感じた。 「あのー、406号の正脇さんを訪ねて来たんですけど、私、買っておいたお見舞いの品を忘れてきちゃったんです。彼女、今見た感じだと別に悪くは見えないですし、病院の前にあった和菓子屋さんで御饅頭でもと思ってるんですけど、食事制限とかあるわけじゃないですよね? なんでもOKですよね?」  適当な噓を並べ立てると、看護師さんは思いのほか真面目な顔で、 「あー」  と悩むような声を出した。「正脇さんねえー」  そう言った看護師さんの表情には明らかに、手を焼いている、という本音が透けて見えた。 「駄目でした?」 「駄目ってわけじゃないけど」  看護師さんは周囲に目をやり、詰め所にいるのが自分だけだと分かると、立ち上がって私の側まで来た。そして小声で、こう言うのだ。 「発作がね、あるのよ。夜になると」 「……ああ、はい」  初耳だったが、知っている風を装ってみた。「でも、夜だけですよねえ?」  すると看護師さんは、眼鏡をくいっと上げながら尚も小声で、 「そうは言ってもあなた、激しいと吐いちゃう可能性だってあるわけだし、あんまり重たいものはおすすめしないわねえ」  と言う。 「長引きそうですか? 彼女」 「どうなんだろうねえ。別に、今だって大変な治療をしてるってわけじゃないのよ? 昼間なんて色んな病棟渡り歩いて患者さんに話かけてるし。だけど夜がさ、酷いもんでさ。そういうのってすぐ噂になるのよ。だから他の患者さんもそのギャップに怖がっちゃって」 「ああ、あの、例の」  カマをかけるつもりで言ってみたが、私の言葉に看護師さんは意味あり気な目で頷き返すだけだった。私は礼を述べると、そそくさとお手洗いに駆け込んだ。実は本当に生理現象を我慢していたのだ。
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