【5】

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【5】

   私はお手洗いの個室に入ると腰を降ろし、自分の耳に掛けたリミッターを少しだけ緩めた。両膝の上に肘を乗せ、組み合わせた両手の上に顎を置いて目を閉じる。深く長く息を吐き、意識を手中させる。大して距離が離れているわけじゃない。ほんの少し聞き耳を立てるだけで……ほら、聞こえる。 『ああーあ、本当に嫌だ。あの人が来てから当直がしんどくてかなわないよ、ったく』  先程の看護師さんの声だ。私と別れた後も、他に誰もいない詰所の中で、A子さんに対する不満が抑えきれずにいるのだ。病院にもよるだろうが、当直業務自体は珍しいことではないと思う。問題は、A子さんの存在だった。 『単純に怖いんだよ。なんなんだよ、あいつ。早く専門病棟移れよ』  ぼそぼそと悪態を付いているに過ぎず、同僚に対して愚痴を聞かせるような音量ではない。だがそれでも、私の耳にははっきりと聞き取る事が出来た。が、もちろん心の声が聞こえるわけではないし、黙って考え事をされてはお手上げである。  お手洗いを出た所で、点滴のついたスタンドを押して歩く女の子とすれ違った。中学生くらいだろうか。上下ピンク色のパジャマを着ていることから入院患者と思われた。歩行の邪魔にならないよう横にズレると、女の子は俯いていた顔を少しだけ上げて会釈してくれた。私が同じように返すと、すれ違いざまに突然声をかけられた。 「406号の正脇さん。急いだほうが良いと思います」  私はギョッとなって女の子を見つめた。 「……え?」  しかし女の子は私を見ず、前を向いたまま辛そうな顔で浅い呼吸を繰り返していた。 「この病院にいたって治らないと思う。一刻も早く転院した方がいいです」 「え……と、ごめんね、正脇さんの事、何か知ってるの?」 「毎晩、毎晩、発作を繰り返しています。夜になるといつも怯えて、部屋の隅に蹲って泣いています」 「あなたも、正脇さんと同じ病室に?」  女の子は首を振り、 「あの部屋には今正脇さんしかいません。皆怖がって、病院側に部屋を変えてくれと訴えていましたから。私はった飯が食べられないから、詰所の近いここに」  女の子の指さす場所にも確かに病室はあるのだが、正脇さんのいる406号室からは大分離れている。いくら夜中に発作を起こすと言っても、具体的な詳細を知り得る距離ではないだろう。例えば、その場に居合わせでもしない限りは。  私は思い切って尋ねてみた。 「見たのね?」  すると女の子は頷いて、こう答えた。 「怖い、怖い、怖い、怖い。何度も何度も、一晩中泣きながらそう呟いています。とても危険な状態だと思います」  喉元までせり上がる恐怖を呑み込みながら、 「あなた、お名前は?」  尋ねると、女の子はその時初めて私の顔を見た。背格好は中学生くらいだが、顔立ちは完成された美しさだった。上下揃いのピンク色のパジャマに身を包んだ少女は、儚げな、まるで真白い花のようだった。すると女の子は右手で顔の右半分を覆って、口元に薄い微笑みを浮かべた。なにか意味があるのだろうとかと見つめていると、 「行きますね」  と言ってお手洗いの方を向いた。そうだった。話しかけられたとは言え、女の子はお手洗いに入る所だったのだ。  別れてからしばらく歩いて、もう一度振り返ってみた。だがそこに女の子の背中はなく、点滴スタンドを押して歩く音だけがお手洗いから聞こえてくるのみだった。結局、その女の子の名前は聞けず終いだ。
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