【8】

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   翌日、私は正脇さんから貰ったパスチケットを握り締めて遊園地を訪れた。朝起きて身支度を済ませ、玄関の靴箱の上に置かれていたパスチケットを見た時、無性に、「遊園地、行かなきゃ」と思ったのだ。  何年振りだろうか。私は遊園地が好きなはずだが、前回いつどこの遊園地を訪れたのか、全く思い出せない。  せっかくのパスチケットだ。普段乗らないような絶叫マシンにでも乗ってみようか、それとも常に長蛇の列を成している大人気アトラクションにチャレンジしてみようか、と親子連れやカップルを見ながら考える。今朝も早くから姉の姿はなく、日曜の午前中だというのに午後からの予定も特にない。 「寂しいやつ」  そう呟いて、ベンチに座って溜息をつく。でも考えてみれば、これまで朝から晩まで遊園地に入り浸った事はないかもしれない。 「よし、今日は」  ずーっとここにいよう。家に帰ってもどうせ誰もいないし、することもないし。乗り物に乗らなくたって、楽し気な人々の姿を見ているだけでなんとなく幸せだ。お腹が空いたら売店で何か買って、園内を散歩するだけでも現実逃避が出来ていいじゃないか。よし、それがいい、そうしよう。  ――― めいちゃんかい?  声を掛けられ、驚いて顔を上げた私の目に、真っ赤な夕日が飛び込んで来た。 「え?」  さっき ――― ついさっき遊園地に到着したばっかりなのに、もう、日が暮れている……? 「どうしたの、奇遇じゃないか、こんな所で会うなんて。あ、ごめん、もしかしてデートだった?」  驚き過ぎて、私に話しかけてくるその人の言葉の内容は正直、ほとんど覚えていない。だが、その人の優しい眼差しと目が合った時、私はたった今目が覚めたような感覚になって、慌てて立ち上がった。 「あ、あ、あの、あ、あ」 「え、え、え、どうしたの」 「し、!」 「う、うん。……なんかごめん」 「新開さん!あの!私!」  心から信頼できる人間に出会ったことで、私は軽くパニックに陥ってしまった。新開水留さんは、私の生い立ちや霊能力についてもよく知る三十代の男性で、十年来の友人だ。新開さんは世に言う祈祷師、俗に言う呪い師という肩書を持ち、彼自身強い霊能力を持っている。 「おっと」  不意に新開さんの身体が傾き、彼の右手から小さな何者かが解き放たれた。 「あっ」  それは、新開さんの愛娘、今年で三歳になる成留(ナル)ちゃんだった。午前中だと思い込んでいた私の目に夕暮れ時は暗く映り、偶然出会った新開さんの側にいた成留ちゃんの存在に、全く気が付かなかった。  成留ちゃんは私の前まで来ると、右足を一歩踏み出して腰を落とし、両手を顔の横で構えながら、おどけた調子でこう言った。 「め~いちゃぁ~~~~ん」  ゾクリとした。  もちろん幼い成留ちゃんの言うことだ。A子さんと同じく「となりのトトロ」の物真似だ。成留ちゃんがジブリアニメにはまっている話は姉からも聞いていた。だが今、何故今、私にA子さんを思い起こさせるのだ。そして何故、私はA子さんを思い出すことがこんなにも怖いんだ……? 「どうかした? 顔色が悪いね」  新開さんに言われて、私は喉元につっかえている言葉が出て来ないことに苛立った。今ここで、この人に相談しておかねばならない事があった筈だ。絶対にある。それなのに、どうしても言葉が出てこない。 「あ、あ、あの……」 「うん」 「私、えっと」 「うん」 「……もう、帰ります」  ――― 違う! 「うん? ああ、もう閉園時間が近いね。ここ早いんだよね、閉まるのがね。でも良い事もあってね、成留を連れてくるといつまでも帰りたがらないからさ、それならいっそ閉園してくれた方が言い聞かせるのも楽っていうか」  ――― 違う!  ――― 待って! 「……あ」  ――― 待って!新開さん! 「何かあったんだね? めいちゃん」  私は自分がどんな表情をしていたのか分からなかった。だが新開さんにそう言って貰えた瞬間、両目からどっと涙が零れ落ちた。とっくに涙は、私の目から溢れそうになっていたらしい。 「めいちゃん、どうして、泣いてるの?」  成留ちゃんが心配し、私の太腿に縋り付いた。私は咄嗟に涙を拭い、成留ちゃんを私の身体から引き離さねばならないと思った。 「ううん、大丈夫だよ、お姉ちゃんちょっと疲れちゃったみたい」  私は成留ちゃんの手を取って、顔を見る振りをしながら引き離そうとした。しかし思いのほか三歳児の力は強く、全力で引っ張らねば離れてくれそうになかった。だが新開さんの手前そんな乱暴な真似は出来ないし、私だって成留ちゃんに離れて欲しいわけではないのだ。だが、理由は分からないが、成留ちゃんが私の身体に纏わりついているこの状態が、のように感じるのだ。 「成留。お姉ちゃんから離れなさい。人に迷惑をかけるんじゃないよ」  新開さんらしい言い方だな。三歳の子供に、それは通じないよ。 「成留」  新開さんはお父さんらしい声でそう言い、成留ちゃんを背後から抱き寄せた。 「めいちゃん!いーやーだ!めいちゃんめいちゃん!めいちゃん!」  成留ちゃんが癇癪を起し、両手で私の太腿をがっしりと掴んだ。私がもう片方の足を折りたたむようにして腰を落とすと、めいちゃんは自然と両手を離して私の胸に飛び込んで来た。すると、 「ん?」  と、新開さんが唸った。「……なんだ?どこから?」  小声で囁き、私の身体を見透かすように新開さんが目を細めた、その時だった。 「どーーん!」  成留ちゃんがそう叫んで私の胸を叩いた。 「成留!」  新開さんが大声で窘めた瞬間、私は全てを思い出した。  喉元につかえていた言葉も、今ならすらすらと言える気がする。恐々と私が視線を下げると、成留ちゃんは私の胸の真ん中あたりをじっと睨んだ後、 「わるいのわるいの、とんでけー!」  と頬を真っ赤にして叫び、最後に私の顔を見上げてニコリと微笑んだ。
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