二人の休日

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「声を出さないでね。抵抗もなし」 耳元で囁かれる。ゆったりとした口調で、挨拶でもしているかのような明るい声だ。けれど、わたしの手首を掴む力はとても強くて、その差に足が竦んでしまう。息を詰めながら僅かに首を横に向けると、声の主と目が合った。 わたしと同じ金色の髪を風になびかせて、そのひとはにこりと口の端を上げた。美しく、人懐こそうな顔。けれどその黒い瞳は冷たくこちらを見返す。知らない、こんな男の人。けれど、この人は間違いなく精霊族だ。 「ど、ちらさま、ですか?」 「僕は緑、って言ったらわかる?」 楽しそうに問いかけられて、かすかに頷いた。緑。勝者の精霊族。 「君、同族に会うのは久しぶりだよね?びっくりしたでしょ」 「……」 「ふふ、驚きすぎて言葉も出ない?ま、そんなことどうだっていいか。じゃ、行こうか。王女さま」 「どこへ…?」 形だけの笑みを一層深めて、彼は優雅な仕草でわたしの腰に手を回した。 「人目につかないところ、がいいよねえ、やっぱり」 唇が触れるくらいに顔が近づいたとたん、首すじに小さな痛みが走る。 「だっていまから君を、殺すんだものね」 言葉の意味を理解する前に、わたしの意識は途切れた。 ✳︎✳︎ 『くび、いたいなぁ。ねむい、きょうも、ねむい。 ふかいふかいもりのなか、おうじょさまはきょうもねむたいのです』 もう。これじゃなんにも事件が起きないじゃない。王女さまが魔法でみんなを助けて、正義の味方になるお話が書きたいのに。わたしは書き物机に羽根ペンを放り出して椅子の背もたれに寄り掛かった。 ここは静かだし、とてもいいところだけど、なにもない。そして眠い。誰もいない。そして、ひたすら眠い。 父さまと、母さま、元気かなぁ。姉さまたち、また、遊びに来てくれるかな…。明日になれば、来てくれるかな。 早く戦争、おわらないかな…。そう、眠って、明日が来れば、戦いは終わっているかも…。約束どおり、みんなで迎えに来てくれるかも。 どこかで、雨が降っている。さああと間断ないその音は、わたしの意識を徐々に呼び覚ましていった。 ぶるっと肩を震わせて目を開ける。 寒い。足が氷のように冷たくて、わたしはもう一度身震いした。なぜか、雨のなかで土の上にじかで寝ていたようだ。すこし頭がいたい。首もちくちくしている。濡れた土のじめじめとした感触が嫌で身を起こそうとして、腕が後ろで縛られていることに気づいた。なに、これ。 手を動かそうとしても、ぎりぎりとした痛みが食い込んでくるだけだ。 そして思い出した。あの金髪の男。精霊族の。 「目が覚めた?おはよ、王女さま」 濡れた草を踏みしめる音とともに、あの男がこちらにやってきた。 「嫌な雨だねえ。僕、濡れるのも寒いのも大嫌いなんだよね」 恨めしそうに空を見上げて舌打ちする。金の髪からぽとりと滴が落ちた。 「…っなんで、こんなこと…!腕の縄、解いてください」 男を睨みながら、地面を這う。近くの大木へ身体を寄せて、なんとか立ち上がった。今朝、おろしたばかりのクリーム色のドレスは泥でぐしゃぐしゃだ。わたしはそのまま素早くあたりに視線を走らせた。 周りには同じような古い大きな木が果てなく続いている。そして濃く深い、緑の匂い。あの、眠りの森に似ている。たぶん街の北外れにある森だろう。一度だけ、来たことがある。あまりに前の住処に似ていて、逃げるように帰ってきた森。 この男に連れてこられたみたいだ。けれど全く記憶がない。 「なんで?なんでだって?」 不機嫌そうに眉を上げて、男は木の方へ近づいてくる。私はじりじりと後ずさって背中をぴったりと幹に寄せた。また、首に何かされてしまう。 「さっきも言ったでしょ。君を殺すんだって。今はね、雨が止むのと、僕の兵を待ってるところ」 私たち精霊族は雨が苦手だ。羽が綺麗に伸ばせないから、うまく飛べない。もうずっと羽を使っていない私でさえ背中が気持ち悪くて仕方ない。彼は苛立った様子で 木々の向こうを眺めている。 「なぜ、殺すの。わたしはもう、精霊界には帰らない。二度と」 もうなんの価値もない。あちらへ戻る方法さえ知らないのだ。そんなわたしに用があるとは思えなかった。 「帰ろうが帰るまいが、関係ない。王女さまは生きていちゃいけないんだよ。それくらいわかってるはずだろ?」 「緑の王がわたしをここに送ってくださったんです。ここで、人間界でひっそりと生きるようにと」 彼は目を細めてこちらを見る。なんとなく、誰かの面影がちらついて、はっとした。 「貴方、緑の王の……。あなた、王族なの?」 彼はまた、感情のない瞳でにこりとした。
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