最終話 これから

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最終話 これから

 ブルーのリボンで、髪を括る。 エプロンの白いリボンを背中で結ぶ。 『Boulangerie bleu』の看板を表に出して、一日がはじまる。 朝の若々しい日差しを反射して、窓ガラスがきらりと揺れた。 「いらっしゃいませ。おはようございます」 「おはよう、リエルさん。今日は頼んでいた焼き菓子、取りに来たの」 「はい、ご用意できてますよ。少々お待ち下さいませ」 「お願いね。こっちの紅茶ももらおうかしら」 はい、と元気よく返事してカウンターへ向かう。ひとり、ふたりと訪れるお客さんの相手をしているうちにお昼を迎える。午後の休憩前に、また誰かやってきた。小さな男の子、おつかいを頼まれたらしい。 「こんにちは。ええと、バゲットと、丸パンみっつ、くださいな」 わたしは、焼き菓子用の新しい棚のとなり、空っぽの錆び付いた棚を振り返ってから、男の子に謝った。 「ごめんね。パンは、このお店には置いてないの」 「ええっ!? このまえ、ここでおねえさんから買ったよ?丸いパン、ふわふわの、おいしいの…」 ないの?と、残念そうに聞かれて、ごめんね、とまた答える。 「パンのお店は、お菓子と、紅茶のお店になったの。おねえさん、パンがうまく焼けないから。ほんとうにごめんね。でも、ありがとう。パンを買いに来てくれて」 お詫びに仕入れたクッキーをたくさん渡して、お店を出る男の子に手を振る。小さな背中を見送ってから、ちょっとだけ、ため息をついた。さあ、休憩時間の札をかけよう。 ✳︎✳︎ 時間をきちんと測って、大きな窯から鉄の重たいトレイを引き出す。香ばしい匂いが厨房に広がった。 今度はいけるかも。 そそくさと分厚いミトンを外して、一列に並んだ丸パン、ではなく四角やら、三角やら、かろうじて丸い形を保っているのやら、とにかく焼き上がったものを眺める。相変わらず壊滅的。けれども、今度は。 熱つ、あつ、とやりながら半分にちぎったものの片方を口に入れる。外はこんがり、中はふんわり。 「おいし…」 表面はちょっと焦げてしまったかも。でも、 「カイリさん、これなら食べられます!」 思わず口に出してしまった。 答える声のない、がらんとした厨房。窯の熱さだけでは、この薄暗い場所をあたためてはくれない。 わたしはもくもくと残りのパンを口に入れる。ふわふわ。ふんわりとしたバターの味は、なぜか別の味に変わっていく。 「しょっぱい…」 知らないあいだにぽろぽろ落ちる涙で、味はもうよくわからないけど、それでも最後まで食べ続けた。 あれから一度だけ、イリヤさんがお店にやってきた。快活さと口の悪さは相変わらずで、仕事相手に会いにきたついでだそうだ。 「あいつのツノは妖界でも特別なとこじゃねえと治んねえらしくてさ、療養中ってやつ?」 「そうなんですね…。少しでも早く、お元気になることだけを、お祈りしています」 「あそこから出たら、また仕事探すっつってたわ」 「……はい。どこでも、カイリさんなら、大丈夫です」 「……あんた。それ本気?」 イリヤさんは大仰にため息をついて、ま、いいや、と帰っていった。 『やっぱりあいつには妖界で、元気にやっててほしい』 わたしのせいでカイリさんは怪我をした。イリヤさんの言葉がずっと刺さったままだ。 ✳︎✳︎  つい数日まえまで、ぶるりとした寒さを運んできていた夕暮れの風が、今日はかすかな春の匂いに変わる。 街の通りに、ランタンの光がひとつふたつ、灯り始めた。また、この街はどこかの誰かのお祝いを始めたようだ。 ドアのガラスの向こう、集まり始めるたくさんの光。 きっと明日の朝はまた、たっくさんのランタンの成れの果てがその辺に転がるんだろう。わたしは苦笑いをしながら、カウンターに座って光の列を眺めていた。 台の上には、同じランタンがひとつ。リエルさんもおいで、とお客さんが置いていってくれた。広場にこれがたくさん集まると、すごく綺麗なのよとうっとりした顔で誘われて、ちょっと嬉しかった。街の中に少しずつ、溶け込めている気がして。 けれどやっぱり。そんなに素敵なものは、あの人と一緒に見たい。ひとりだったら、綺麗なものほど悲しくみえてしまう。わたしのなかにぽっかりと空いた穴を埋めているのは、思い出してきた家族の記憶と、生真面目なカイリさんの姿だ。会いたい。けど、会えないたくさんの人たち。 ランタンを置いたまま、二階へ上がろうとエプロンを外す。こつこつ、とガラスを叩く音に、ドアへと顔を向ける。見慣れた大きなシルエット。 駆け出そうとして、またバランスを崩してしまう。ほんとに、なかなか慣れないんだから!よろめきながらドアを開けると、がっしりとした腕に身体を支えられた。 「店のなかでそんなに走ったら、危ない」 「…はい。ごめんなさ」 謝るより早く、厚くがっしりとした胸に抱きこまれる。不思議な動物のブローチピンがきらりと光った。 「求人の件…なんだが」 まだ募集しているか、と聞く懐かしい響き。だいすきな、カイリさんのこえ。 「はい。はい!まだまだ、ずっと募集しています」 「……よかった。店長」 ぽろぽろ、どころか、ぼろぼろぼろぼろ、あとからあとから溢れて止まらない涙を、何度もなんども優しく指で拭ってくれる。無骨な、大きな、大好きなカイリさんの手。 「店長、笑ってくれないか?」 紫の瞳を懇願するように揺らして、わたしの顎にそっと、指をかけた。 「店長はいやです。なまえ、よんで」 りえる、リエル。 額にそっと口づけを落としながら、囁く。鼻すじへ、頬へ。何度も。 小さな街の、小さなパン屋。 片羽と傷のあるツノ。少しだけ欠けたもの同士の二人を、いくつも行き交う橙のランタンが柔らかく照らしていた。 fin ✳︎ここまでおつきあいいただき、ありがとうございました!
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