どこかの王国のとある街 夕方

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 彼は、妖界から来た鬼の種族だと自己紹介した。すこしたどたどしくつかえながら。お互い目に見える特徴は隠れているため、人間にはまずわからないだろうが、目を凝らすとなんとなくその人は頭のあたりがぽわっと違う色をしている。 「名は、カイリと言う」 「はじめまして、カイリさん。わたしはリエルといいます。……精霊族です」 「ああ、よ、よろしく。人間界にきたばかりで、勝手がわからず不躾なことをしてしまったようだ。仕事については、他をあたってみる。失礼した」 軽く頭を下げて出て行こうとするのを、わたしは引き留めた。 「あの、カイリさん。お仕事探してるんですよね。でしたら、ここをどうぞお使いください。パン屋さんなんですけれど、何を扱ってもいいのだと思います」 「は?いや、ここは君が働いているんだろう?」 「私、二週間ほどお店を開けているのですが、誰もきません。なので、カイリさんがここでのお仕事を望まれるなら、そのほうがいいのです。わたしはどこか、よそへ行きます」 カイリさんは目をぱちくりとさせる。紫色の眼は思ったより感情をよく表すみたいだ。きっと私なんかよりずっと。 「すまない、話がよく、見えないのだが。つまりここは、君の店ではないのか?」 「私のお店ではありません。それにおそらく店主もおりません。私をここへ送ってくださった方が、イヌキで買ったから自由に使っていいと、おっしゃっていました。元々パン屋さんでしたので、同じようにしているだけです」 イヌキ、ああ、居抜きということか。と呟く。今度はその瞳がすこし非難めいたものになる。 「だが、そんなことはできないよ。君だって、その手配をしてくれたという人物に申し訳ないだろう?」 「ですが、ここにいても、わたしは笑いたいのかどうかがさっぱりわからないので。もう他のところに行ったほうがいいと思うのです」 ああ、つい、朝からずっと思っていたことを口にしてしまった。 『リエル、笑いたいかい?』と聞かれたことはよく覚えている。確かめておいで、と言われたことも。けれどどうすればいいか、わからないのだ。せっかく、あの方が命を存えさせてくれたのに。わたしは、自分で思うよりよっぽど切羽詰まっていたのだろう、初対面の、しかも種族の違う人を前にそんな風に言ってしまうなんて。 笑い、ときいた時、カイリさんの眉がぴくりと動いた。アルバイト募集の紙を持った手が、ぎゅ、と握られる。彼はいったん口をつぐんで、またぱくぱく開ける。何度か繰り返してから、やっと、 「俺は、……笑いたい」 鼻筋が通ってきりりとした目つきの、真面目そうな顔からは想像もできないほどか細い声で、鬼族のカイリさんはそう呟いた。上手に笑いたい。 「……そうですか」 わたしたちのあいだに、沈黙が流れる。目に見えない糸のようなそれは、頼りなげにあたりを揺れながら彷徨っている。同時に、ぐうううう、と地の底から呻き声が響いた。 また、誰がやって来たのかとドアを見つめる。すっかり暗くなって、きらきらした光に溢れる外にはやはり、立ち止まる人影はない。私はお店の中を見回した。 「す、すまない。腹の音だ」 さっきよりもさらに小さな声で、カイリさんは額まで真っ赤にしていた。
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