どこかの王国のとある街 夕方

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 薄いマントの上から、お腹の辺りを押さえているカイリさんは、今や首すじも赤い。わたしは、棚に並んだままのパンたちに目をやった。 「あの、カイリさん。お願いがあるのですが、このお店のパン、食べていただけませんか?たくさん、売れ残ってしまったので…」 というか、いっこも売れていないので。 「いや、あの、すまない。持ち合わせがあまりなくて…。人間界というのは、何をおいても金が必要なのだな」 彼は残念そうにお店のなかを見回す。私は、レジカウンターの引き出しにしまってあったノートを取り出してきた。『業務まにゅある』と書かれたもので、お店の業務の流れなどが載っているものだ。 「いえ、お代は結構です。お店を閉める時間ですし、そういうときは売れ残りを安く提供していいと書いてあります」 そのページを開いて見せる。背を向けて出て行こうとしていた彼はこちらに顔を向け、目を瞬かせた。また、瞳の紫色がすこし明るく煌めく。お腹に手を当てながらマニュアルノートを覗き込んだ。 「確かに。だが…」 ちょっと決まり悪そうなカイリさんに、私はトレイを差し出した。 「本当に、これは廃棄するだけですから。今から私も食べようとしていたんです。ぜひ持っていってください。そこのテーブルとイスはお客さん用なので、よければ座ってください」 彼にトレイを押し付け、わたしは自分でもいくつか選んで、皿にのせる。本当に、ありがとう、と丁寧に頭を下げてから彼もトングを手に取った。 「実は、三日前に人間界に来てから、何も食べていなかったんだ。本当に感謝する」 「こちらこそ、捨てるだけのもので申し訳ありませんが、食べていただけて感謝しております」 わたしも両手を揃え、頭を下げた。お互いに顔を見合わせる。カイリさんの眼がすっと細められ、口の端がゆっくり弧を描いた。これは、この表情は、なんだろう。 首を傾げながら思わず唇の辺りをじっと見つめる。すると彼は、慌てたように口に手の甲を当て、顔を背けた。 「すまない、怖がらせてしまっただろう?気にしないでくれ」 「いえ?怖くはないですが…」 「いや、自分の笑い顔が異様であることはわかっているんだ。いつも、子供は泣くし、ご婦人は眉を顰める。兄弟たちにも不評だ」 私は、そんなことはないです、と言いかけたけれど、なんとなく、彼には届かないような気がした。 「あの、こちらで召し上がりますか?よかったら、お茶を入れてきます」 「なにから何まで、すまない。ありがたく頂こう」 すっかり恐縮している彼を残して、わたしは奥の厨房へお湯を沸かしに行った。
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