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ガラスのティーポットのなかで、沸騰したてのお湯が茶葉をくるくるとダンスさせる。お店のなかにふわりと紅茶の香りが流れた。わたしは、この香りはとても好きだ。なんだか安心する。外はとっぷりと日が暮れ、そしていよいよ煌き始めて、たくさんの人間たちが、誰かの誕生日を、それを祝える自分たちの幸せをお祝いするために、石畳みの通りをランタンを手に手に持って歩いていた。
パンをひと口分ちぎって口に入れる。二つくらい食べればお腹いっぱいになるだろうか、カイリさんは大きいし、男のひとだから、二つでは足りないのだろうか、なんて考えながらぱくぱくと口に運ぶ。ふと見ると、正面に座る彼の手が全く動いてないことに気づいた。大きくて、ごつごつとした、手。簡単な作りの木の椅子は大きなカイリさんを支えきれないのか、何度もきしきしとちいさな悲鳴を上げていた。
さっき、二人でいただきます、と言いながらテーブルについてからは、特に会話もしていない。
いま、彼は口をもごもごしながら、なんとも言えない顔つきで、パンをしげしげと眺めている。ちらりとわたしを見て、またパンへ視線を戻す。また、ちらり。
瞳はちょっと揺れている。紅茶をひと口飲んでから、意を決したように口を開いた。
「あの、ちょっといいか」
「はい、なんでしょう?」
「この、パンは、君が作ったのか?」
「ええ、あのノートを見て、お店の材料を使ってつくりました」
彼はパンに再び手を伸ばす。
「これは、わりと薄味にしているのだろうか」
「味が薄いですか?それは、申し訳ありません」
わたしもひとかけらちぎって口に入れてみるが、よくわからない。ノート通りに作ったつもりだけれど。
「薄いというか、まったく、味がしないようなんだ。俺の舌が人間界で馬鹿になったのかもしれないが」
「いえ、カイリさんのせいではありません。わたしがたぶん、下手なせいです。それにわたし、お腹に入ってしまえば同じだと思うと、ぜんぶ同じ味に思えます。今まで一つも売れていませんと言いましたが、そういえば初日に一人だけ来た人がいました」
ナニコレ。味しないんだけど。と買ったパンを全て置いて帰ったお客さん。代金をお返しすると、
「ここのパン屋、これじゃダメね」
と言いながら帰っていった。そう言われても、わたしはそのまま過ごしていたのだ。
むかしは、食べることが大好きだった気がする。甘いものも、辛いものも、ふんわり優しい味も。みんなで食べれば何もかもがおいしかったような。けど、にいさまやねえさまはもういないから、美味しいを思い出すことはこれからもできないのだ。味がわからないうえに、美味しくないパンしか焼けないなんて、やっぱりこのお店をやることはできない。
お店を辞めることを考えていると、知らない間に手が止まってしまったらしい。気づくとカイリさんが心配そうな表情でわたしを見ていた。目が合うと、また顔を赤くしながら
「だが!もちろん食べられないことはない!あ、いや、その、パンであることに変わりはない、と思う…だから、」
だからあまり気に病むことはない、これからうまく作れるようになるはずだ、絶対!といって、トレイに乗せたパンの山をどんどん口の中へ入れていった。
「カイリさん、パンを作れるのですか?」
「ああ、いやまぁ、料理が好きなんだ」
何が違うのだろうな?と首を傾げながらひとつ、ふたつみっつと味のしないパンをもりもり口に入れてゆく。気を遣ってくれているのか、その豪快な食べっぷりを見ていると、どこか、気持ちの奥のおくのほうがぽわりとあたたかくなって、すこしびっくりした。
「では、カイリさん、あした、わたしと一緒にパンを作ってくれませんか?」
気付けばわたしは、すこし強面の鬼族のおとこのひとにそう申し出ていた。
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