とある街のパン屋で 翌日

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とある街のパン屋で 翌日

 翌日、彼は夜明けとともにやってきた。まだ朝靄が薄白く通りを覆うなか、裏口を開けて新しい空気を入れる。昨夜の名残りのランタンがいくつも石畳みに落ちていた。遅くまで歌声が静かに響いていたこの街は、今朝はまだ眠りの中にいる。ぺしゃんこになったものを何個か拾い集めて顔を上げると、同じようにぺしゃんこランタンを大量に抱えながら、カイリさんが向こうから歩いてきた。 「おはようございます、カイリさん。早いですね」 私は彼を見上げた。相変わらず大きなリュックを背負い、薄いマントにブーツという旅人の格好だ。そしてやはり、背が高い。精霊族は男女ともあまり背の高い者はいないから、目線がなかなか合わない。短い真っ黒な髪も初めてだ。よく考えたら何もかもが初めてで、昨日会っただけのこの人に妙なお願いをしてしまった。なんだか不思議な気持ちになってしまう。 「おはよう。リエルさん。なんだか眠れなくて早く来てしまった」 白い息とともに、しゃちほこばった言葉で彼が挨拶してきた。 「私もです。それから、リエル、と呼んでください。その方が呼ばれ慣れていますから」 「…わかった。では、リエル。今日はよろしく頼む」 お互いぺこりと頭を下げる。抱えたランタンたちがかさかさと音を立てた。 ✳︎✳︎✳︎ 「あ」 「あ」 焼き上がったばかりの大きなバゲットを半分にして、ひと口、ぱくりと口に入れる。まだ熱い表面はパリパリで、中身はふわふわ。二人で顔を見合わせた。 「味がする」 カイリさんは、驚いた表情でごくんと飲み込んだ。お店のレシピノートをめくりながら、昨日との違いを確認しているみたいだ。 「リエルは、どうだ?味がわかるか?」 彼は心配そうに私の瞳を覗いてくる。 「わかる、気がします。昨日まで作っていたのと、全然違う味がします」 もう一度、食べてみる。ぱりぱりの皮が香ばしいし、なかの生地は柔らかくて口のなかですぐ消えてしまう。もっと食べたい、そう思ったのは久しぶりだ。彼に伝えると、 「本当か?それはよかった」 「作ってくれて本当にありがとうございます。ほっとしました」 こちらこそ楽しい時間だったと、腕まくりをして使った器を丁寧に洗う彼を見て、無理にでもお願いしてよかったと、やっぱりわたしのやり方が違っていたのだと確信した。 厨房の寒々しい床に差し込んでいた朝の光は、あたたかなお昼の陽光に代わっていた。生地を捏ねたり、伸ばしたり、器用に動いていたカイリさんの腕。窯の前にいたせいか、いつのまにか二人とも汗だくになっている。 一休みしましょうと言って、フロアにある昨日と同じテーブルでまたお茶をいれた。レシピがのっているノートをちいさなテーブルに広げたカイリさんは、 「リエル。パン作りでは、君はここに書かれているのを参考にしたんだね?」 「そうです。わたしは今まで料理をしたことがないのですが、挑戦してみました」 「料理をしたことがなかったのか?いままで?」 彼は驚いてわたしをまじまじと見つめた。精霊の王族は料理をする機会がほとんどないことを説明すると、彼は 「君は、王族だったのか」 とさらに瞳を大きくしながら、 「ああ、だが納得だ。君はすこし、その、ぽわぽわしているから、自国では位が高いのではないかと推測していたんだ」 「ぽわぽわ?」 「あ、いや、なんというか。その、ふわふわというか…」 「ふわふわ…?」
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