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リエルの店
『Boulangerie bleu』
uの文字を書き切って、いつのまにか止めていた息をゆっくりと吐いた。真新しい白木の板にシンプルな飾り文字が並ぶ。背後で安堵の息が漏れた。カイリさんもわたしと同じように息を止めていたみたい。
「か、かけました…。どうでしょうか?」
「うん、とてもいいと思う。大きくて、読みやすい」
カイリさんは力強く頷いて、出来上がったばかりの看板にそっと指を滑らせた。今からこれをお店の壁にかけるのだ。
カイリさんと正式に雇用契約を交わした。店長ひとり(わたし)、従業員ひとり(カイリさん)の小さな小さなお店だ。先日、二日間の約束でパンを焼いてくれたカイリさん。私は次の日も、その次の日も同じようにパン作りのお願いをした。一週間かけてお店に残されたレシピノートを全て作って、二人で味を見る。カイリさんの焼いたパンは味も形も完璧だった。かつて青の城で王族用に出されていたものと比べても遜色ない。
教えてもらいながら私も同じように作るのだが、毎回まったく違った奇妙奇天烈なものが出来上がる。その結果、やっぱりわたしは厨房で作業をするべきではない、という結論に達した。
「リエル。とても、その、言いにくいのだが……」
「…わかっています。『壊滅的』だとおっしゃりたいんでしょう?わかってます…」
ふんわりまあるい、見ているだけで食欲がわくような丸パンのとなりで、悪魔の心臓のようないびつなモノが鎮座している。こっちは見ているだけでお腹が痛くなりそうだ。そうじゃない!違うんだ!と慌てて首を振りながらカイリさんは、
「すまない。俺は、全然平気なんだ。貴方がどんな味のものを作ろうとまったく構わない。不思議と食べられる。だが、店を出すとなるとその、どうしても、味が
重視されるから」
わたしを気遣ってか、綿にくるんだような言い方をしてくれるけど要は売り物にはならないということで、それはわたしにもよくわかる。とても、とても残念。緑の王はきっと送り込む場所を間違えたのだろう。わたしではこのパン屋を営むことはできない。けれど、以前のように落ち込んだりはしなかった。
あの日、カイリさんの前で大泣きしてしまってから、少しだけ気持ちが軽くなったような気がするのだ。朝を迎えるのが待ち遠しいような、明日になるのが楽しいような、そんな不思議なきもち。
「カイリさん、やっぱり私が焼くのは諦めます。その代わり、最初にお願いしたように貴方にお店を任せたいです。受けていただけませんか?」
「リエル」
「お店はわたしがやるべきだというのは分かっています。すみません、言い方を間違えました。このお店で、働いてください。お願いします」
戦争が激化してから、精霊界での私の感情はとても曖昧で、笑うこともよくわからなくなってしまっていた。ひとり残された私を訪ねてきたあの緑の王は、最後の王族である王女を殺さなかった。
彼は哀れみに満ちた瞳でわたしを人間界へ送る呪文を唱え終わると、私にできるのはここまでだと呟いた。
あの悲しそうな表情。あれから、眠ると兄様や姉さま、父様母さまが彼と同じ顔をして現れる。みんなの笑った顔を思い出したいのに。
目の前のカイリさんは、少し薄い唇をまっすぐにひき結んでいる。偶然にもお店に現れたこのひとは、ちょっと照れ屋さんみたいだけど、真面目で、正直な人だ。何事にも熱心な彼と一緒に作業をするうちにわたしは、このお店でぼけっと座っているだけだった自分がちょっと恥ずかしくなった。だから。
「ぜひ、一緒にお店をやっていただけたら、と……」
もう一度、彼に向かって頭をさげる。
「俺は、もちろんここで働きたいと思っている。だが致命的に愛想がないんだ。きっと怖がらせてしまう」
「えーと、それは、たぶんわたしも一緒です。『笑顔がいっぱい』のお店には遠いかもしれません。でも少しずつ、慣れていけたらと思っています」
彼は俯いてしまっていた顔をあげる。そしてゆっくり店の中を見渡した。飴色になった木の床、白茶けた壁、少し歪んだ商品棚。改めて見ると、なんともかわいそうなほど寒々としたお店だった。ドアの外で揺れる看板まで物悲しい音を立てる。やっぱりカイリさん、こんな所で働くの、嫌だろうか。
けれど、大きな肩で目いっぱい息を吸った彼は「では、よろしくお願いいたします。店長」とはっきりとした声で頭を下げてくれたのだった。
そして今日、まずは新しい看板を作ってみた私たちは
店の外の石壁に『Boulangerie bleu』をかけた。
朝日がきらきらとガラスドアに反射して看板に光を散らす。
「これで、リエルの店だな」
カイリさんが楽しそうに私を見た。
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