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変化
それから一週間後。
『Boulangerie bleu』の古びた店内は、開店と同時に外で待っていた人で溢れた。いつもはだだっ広く感じるスペースにいきなり十数人が入ってくる。
私はおたおたしつつ身につけているエプロンドレスから青のリボンを取り出して、肩まである髪を後ろで一つにまとめた。三角巾を綺麗にかぶる暇もなく、パンの載ったトレイが差し出される。
「これ、三つずつに分けてカゴに入れてくださる?」
「このチーズの入ったパン、もっと欲しいの。いつ焼けるかな」
「あ、この紅茶の茶葉もちょうだいね」
「はい、はい!ありがとうございます」
「申し訳ありません、しばらくお待ちくださいませ」.
「そちらはあと1時間後に追加が焼き上がります…申し訳ございません」
とにかく突然現れたたくさんのお客さんに、間違いなく商品を受け取ってもらうので精一杯の状態だった。特に、「白パンにハムとチーズ挟んだやつ」が欲しいと言われることが一番多く、何度厨房に確認しに行ったかわからない。その度にカイリさんは正確に、あとどのくらいで何ができるかを私に伝えてくれた。
「すまない、店長。俺も表に出られるといいんだが、窯から手が離せない状態なんだ」
カイリさんもひとり窯の前でてんてこ舞いの様子だ。いきなりたくさんこられたお客さんのことを喜びあうこともできずに、お互いの持ち場に必死だ。
「こちらは一人でなんとかなりますから、気にしないでくださいね。もう少し、頑張りましょう!」
焼き上がったものを次から次に商品棚へと並べる。間を空けずにお客さんはやってきて、「友達に聞いたの」「酒場の店主がうまそうに食ってた」などと言っていろいろと買っていってくれる。例の、管理組合のひともお友達と来てくれていたようで、宣伝の効果というよりも口伝ての効果というべきなのかも。
厨房の窯の火はずっとつきっぱなしで、午後遅い時間には三日分ほどの商品量が捌けてしまった。
やっと客足が途絶え、すっかり空になった商品棚を見回す。お昼も食べずに閉店時間を迎えてしまうなんて、初めてだ。一旦外へ出て、看板を裏に返してから誰もいなくなった店内へ戻った。どっと疲れが襲ってくる。精霊界での義務的な仕事とは大違いだし、森の中ではそもそも人など来ない。こんな晴れ晴れとした気分は初めてだった。
カイリさんの焼く美味しいパンを人間界の人にたくさん食べてもらえた。今日、やっと、お店をやってて良かったと思えたかも!
そこへ、カイリさんが顔を出した。
「リ…いや店長。粉がもうない。明日の朝では間に合わないかもしれない」
「カイリさん!すごいです!ぜーんぶ、売れました!カイリさんのパン、全部売れちゃいましたよ!!」
わたしは手を叩いて彼のそばに駆け寄った。
「ああ!今日は本当にすごかったな。作った広告を見て来てくれたんだろうか?朝から忙しくて」
空っぽの棚を見る彼も、顔を上気させて興奮気味だ。
「お疲れ様です。ほんとうに!試食でお渡ししたあのサンド、あれのおかげかもしれません!お友達を連れてきたり伝え聞いて来てくれた方も多かったんです!」
そうなのか、と納得いったように店内を再び見回したカイリさんは、あれ、と言ったように一瞬動きを止める。振り向いてもう一度、わたしの顔を見つめて瞳を大きく見開いた。
「君、その……」
そう言ったまま固まってしまった。見上げていると、ゆっくりと彼の頬に朱がのぼる。
「?どうしましたか?あ!お疲れですよね…。お昼もなしで、申し訳ありません…いま、お茶をいれますから」
「あ、いや、それは構わない。それより……」
カイリさんはわたしの瞳から目を離さずに、口の端をゆっくり上げる。唇が優しく弧を描いてから、
「とても、いい顔をしている。リエル」
「あ」
私の肩にそっと手を置いて、ガラス窓のほうへと優しく押し出す。夕方の光が映し出しす自分の顔は、あのころと同じ、はじけるくらいの笑顔だった。思わず頬に手を当てる。
「想像以上に、笑った顔がとても素敵だな。貴方は」
ぽんぽん、と肩をたたかれる。嬉しいのと、恥ずかしいのと、ごちゃ混ぜになった感情が胸でくるくるとまわる。
「あ、りがとございます…」
それだけ言うのでなんだか精いっぱい。夕陽は柔らかく、お店のなかに差し込んで私たちを照らしていた。
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