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再訪問
朝の九時。ドアベルが軽やかな音を立てる。
「いらっしゃいませ」
木製のレジカウンターの横に手鏡をそっと戻して、入ってくるお客さんへと目を向けた。今日も朝から、お店から人がいなくなることはあまりなさそうだ。笑顔の練習はひとまずおいて、今できる精いっぱいでお客さんへ接する。
あの、怒涛の日から二週間、売り上げも緩やかな上昇に落ち着いてきている。それまで一人も来なかったのが嘘のよう。毎日、お昼過ぎまでは忙しく、そのあと夕方の閉店近くまで穏やかな時間が続く。午後のおやつの時間がお昼を兼ねることがほとんどだ。その時間だけは外に休憩中のプレートをかけて、カイリさんと二人で一緒に食事をする。
わたしが紅茶を入れて、カイリさんが厨房で簡単な食事をってくれる。出会った日と同じように小さな木のテーブルに二人向かい合わせで座る、とても心地の良い時間だ。
「今日はやっぱりサンド類が売れましたね」とか、
「生地を少し変えてみたいんだが、どうだろうか」とか、「少しずつ、陽が延びてきましたね、」とか。
仕事の話やたわいもない会話でのんびりと時間が過ぎてゆく。カイリさんはおしゃべりなひとではないけれど、パンの焼き上がりや、生地のことになるととても饒舌だ。楽しそうに話してくれると、わたしも嬉しい。とはいえ午後の日差しは暖かく、朝が早いせいか私はいつのまにかうつらうつらしてしまう。店長、と小さく声をかけられて、ぴくりと目をあけることが何度かあり、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをした。
「わ、ごめんなさい!また、寝てました?」
「今朝も早かったからな、無理もない。いつも俺が来るまでに厨房を綺麗に整えてくれているだろう?」
「それくらいしか、出来ませんから。相変わらずわたしのパンはおいしくないですし。あ、でも、少しはうまく作れるようになりましたよね?よるごはんは自分でも上達したかなって」
カイリさんは、ちょっと驚いたように眉を上げ、
「そうなのか?この前作ってくれたものはなかなか破壊的…。だが、そうだな。たしかに以前よりは上手くなったといえる」
「……褒めてくれているのでしょうか?」
「も、もちろんだ!前も言ったが、貴方が作ったと思うとその、不味いも美味いもどうでもよくなるので…」
「どうでもいいとは…、それはいったい、どういうことでしょうか?」
「いや、その…」
嘘ですよ、と言う唇が自然と弧を描くのを感じる。また、笑えてる。
あの日、なぜかカイリさんに向かってほんとうに久しぶりに笑顔を見せた自分がいまだに信じられない。頬の筋肉が凝り固まってしまったかのように、うまく笑えなかったのに。
あれからはやっぱりまた下手くそな笑い顔しかできないけれど、カイリさんはなにも言わない。無理強いもしない。だけど、あのときかけてくれた言葉はずっと、大事な宝物だ。いまは、二人でお店にいる時間がとても、楽しく思えてきている。
ガラス窓をがんがんと叩く音で、会話が途切れた。見ると、休憩中のプレートをかけているにもかかわらず、若い男性がお店のドアをがちゃがちゃと鳴らしていた。
「お客さんでしょうか?お急ぎの方かもしれませんね」
そう言ってドアを開けに向かう。背後でカイリさんが食事を喉につまらせたような音を出した。
「いらっしゃいませ…」
「よぉ!ご機嫌麗しく、レディ。悪いな、仲良しのところ、邪魔しちまったみたいだけど」
ずいっと入ってきたのは銀髪の男の人だった。素早く後ろ手にドアを閉めて、カイリさんの姿を認めるとこちらへ向き直る。
「はじめましてだな。弟がいつも世話んなってます」
その人は屈託ない笑顔でわたしに向かって優雅にお辞儀をした。紫の瞳を人懐こそうに煌めかせながら、わたしの瞳をのぞき込んだ。おとうと?
「は、はじめまして」
お、綺麗な目をお持ちでいらっしゃる、と言いながら彼はさらにその顔を寄せてきた。ちょっと怖い。
がたがたと椅子を倒す勢いで、後ろからカイリさんがわたしの前に飛び出てきた。
「イリヤ!また来たのか!」
「おいおいおいおい!なんだその言い方?兄貴を歓迎しない弟がこの世にいるのかよ?」
「お、お兄さまでいらっしゃいますか… カイリさんの」
「そ、よろしくな。イリヤってんだ」
イリヤと名乗ったそのひとは、鬼族の印である二本のツノを隠しもせずに堂々とイリヤさんの座っていた椅子に腰掛ける。長い脚を組みながら両手を頭の後ろで組んで、お店のなかを興味深そうに見回した。カイリさんと違ってとても、とても鬼族っぽい。強そうで、怖そうだ。けれど彼の場合、人懐っこさと愛敬がそれを補って余りあるように見えた。
「こちらこそ、はじめまして。ご挨拶が遅れて申し訳ございません。リエルといいます。よろしくお願いいたします」
態度は大雑把なのに、彼の醸し出す堂々とした雰囲気に、思わず片足を後ろにして膝を曲げ正式な挨拶をしてしまう。
「カイリさんにはいつもとてもお世話になっております」
「あー、堅苦しいのはいらないぜ?リエル。こんな真面目なだけが取り柄の堅物を店に置いてくれてありがとな」
「い、いえっ。とんでもございません。カイリさんが厨房でお仕事をしてくれるので、わたしはお店ができているんです。本当に感謝しかありません」
彼の話し方にドギマギとしながらそれだけ伝えて、お茶を入れて参ります、と厨房へ逃げるように駆け込んだ。
背後で、何しに来たんだ?と詰め寄るカイリさんの声が小さく聞こえた。
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