イリヤのはなし

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イリヤのはなし

 かちゃかちゃと食器のなる音が奥で聞こえている。俺は憮然としながら、目の前で無造作に脚を組む兄を嗜めた。 「失礼だぞ。女性をあんな風に覗き込んで」 「わりーわりー」 イリヤの軽口に舌打ちしたい気分になる。 「……俺ではなく彼女に謝ってくれ。怯えていたぞ。それに、一体どうしたんだ?あれからひと月ほどしか経っていないだろう?」 妖界にいたときでさえ、兄と会うのは数ヶ月に一度だった。心配だ心配だと言いつつも、別に弟を溺愛するようなタイプではない。イリヤはイリヤで、テーブルに肩肘をつきながら俺を興味深そうに眺めている。 「な、なんだ?」 「いや?楽しそうに働いてんだな、と思って」 かわいい子じゃねえか、と目を細めるようにして言われ、頬にかっと血が上った。 「か、彼女は店長だ。最近ようやく商品が売れ始めて店が軌道に乗ったところだなんだ。そ、そうだよければ食べてみないか?」 イリヤの視線にわけもなく緊張して、聞かれてもいないことまで話してしまう。 「お前、料理好きだし、ここもいい店じゃん。ただちょっと、ていうかかなり古い作りだな。店内の備品をもう少しいいものに変えると、まだまだ客足も延びるぜ。それからもっと、外から商品が見えるように配置してみろ」 にやにやしていた割に、彼の口から出たのは実際的な経営面のアドバイスで、多少面食らったが素直に聞いておくことにした。なんといっても兄はやり手の実業家でもあるのだ。あとでリエルに話そう。 気になる点をいくつか指摘してもらっていると、ティーセットを用意した彼女がかちこちに硬い声で「失礼します」と入ってくる。アップルミントの爽やかな香りがこちらまで漂ってきた。 「悪いね、リエル。ありがとな」 「いえ、こちらはカイリさんが焼いたクロワッサンです。ぜひ、召し上がってください。とても、とても美味しいので」 緊張しているだろうに、彼女は優雅な仕草で紅茶を入れていく。焦茶色の簡素なドレス、白いエプロンに亜麻色の髪がよく似合う。青のリボンで長い髪を一つにまとめた姿はどこから見てもほっそりとした人間界の女性だ。誰も彼女を、人間界で働く精霊族の、しかも王族の一人だとは思わないだろう。出会ってもうひと月以上経つというのに、毎朝彼女と挨拶するたびに初めて会ったときと同じように胸が高鳴る。いい加減慣れたいと思うのだが、いまだに呼び方さえ定まらない。 と、湯気のたつティーカップをテーブルに置く彼女の、その華奢な背中にすっとイリヤが腕を伸ばした。あろうことか指でするりと撫でながら、 「リエル、アンタここ、なんかついてんのな」などとのたまう。 「おい!」 自分でも驚くほどの鋭い声が出てしまい、びくっとリエルが肩を震わせた。 「あ、あの、はい、あの、たぶん、羽、かと…」 「ああ、はね!羽ね!アンタ、精霊族なんだ?」 「はい。申し遅れました…申し訳ございません。ほとんど人目に触れることのないようにしてありますので」 すまなそうに頭を下げる彼女が不憫なのと、イリヤの不躾な態度に胸のあたりがざわざわとしてくる。 「リエル、いや、店長は別に隠してたわけじゃない、わざわざ言うことでもないから黙っていただけだ。イリヤ、初対面のレディに失礼だろう!さっきから、いい加減にしろ」 「カイリ、お前が怒るとこじゃねえよ」 珍しくぴしゃりとした声が飛ぶ。イリヤは 「リエル。触ったりして悪かったな。不躾だった。すまない」 「いえ、あの、大丈夫です」 「まあなんだ、最近うちの店でも精霊族を見かけたもんで、ちょっと確かめさせてもらったわけだ」 イリヤは苦笑いしながら頭を下げる。 確かめる?なぜ? 「イリヤ、それは一体…どういう」 妖界と精霊界はほとんど干渉しあわない。各々の種族が人間と関わりを持つことは多いが、我々と精霊が人間界で出会うことじたい稀だ。民間レベルで精霊族が妖界に来ることなどほとんど聞いたことがない。リエルも目を丸くしている。 「誰かを探して回ってるんだとよ。オンナらしい。ウチの客に手荒なことしてたから、つまみ出してやったけどな」 「女、を探してる…?」 リエルのことをもろに見てしまわないよう、イリヤに顔を向けたまま目線だけ彼女に走らせる。彼女は不思議そうに首を傾げていた。あの様子だと心当たりはなさそうで、なぜだか心底ほっとした。 「別にどこで誰を探そうが構わねえが店や、身内を危ない目に晒したくねえんだよ、俺は」 イリヤは立ち上がり、リエルの前に立つ。彼女にまっすぐ見つめ返されると、すっと目を逸らした。 「精霊界はデカイ戦争があったばかりだろ。ゴタゴタしてんのかもしれねえ。アンタ、なんでここに来たかは知らねえが、巻き込まれねえように気をつけるんだな。関係あってもなくても、な?」 「は、い…。ご心配を、わざわざ、ありがとうございます……」 俯いてしまった彼女をよそに紅茶を豪快に飲み干し、あっつ!と言いながら俺の焼いたクロワッサンを口に放り込む。美味いな!と言いながらイリヤは足音も軽く去っていった。不安げに見送るリエルに、ちょっと失礼すると言い残してドアをあけ、外に出る。 「おい!イリヤ!」 見ると、すでに彼は向こうの建物の屋根伝いを走っていた。くそ、と呟いて追いかける。兄は足がとても速いのだ。文字通り飛ぶように街をかけてゆく。 「イリヤ!待て!」 必死で追いかけた。ツノがあるのとないのでは差は歴然だが、人目というものを気にしないのだろうかあの男は。 「ツノ、隠されてるだけでだいぶ力が抑えられてんだなぁ」 数軒先の立物の煙突に呑気にもたれかかりながら、イリヤは待っていた。
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