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第四章 拐かし(二)
七ツに部屋を出ると大家の治左衛門とばったり会った。風貌からえびす長屋と名がついたと思っていたら、忠太から「慈悲深い人だから自然とえびすさんと呼ばれるようになり、いつしか長屋もえびす長屋と呼ばれるようになったんだって」と教えてもらった。
「おや、これからお出掛けですか。気をつけて行ってらっしゃい」
えびすさんがニコニコ顔で声を掛けてくれた。
「はい、有難うございます」
頭を下げてすれ違う。二、三歩行き過ぎると「商いは順調ですか」と訊いてきた。
立ち止まり振り向いて「お陰さまで、この町内はいい人たちばかりで。以前居た場所より売上が上がりました」と笑顔で答えた。
「それは良かった、ところで朝比奈道場へは行きましたか」
心臓がドキッとした。えびすさんの表情は穏やかで、何かを探り取る様子は見受けられない、考え過ぎだろう。
「はい。お久さんの為にツネさんが紅と櫛を買ってくれました」
「そうですか、でもツネさんには驚かされたでしょう」
えびすさんは笑いながら話す。
「こう言っては失礼ですが、ツネさんが朝比奈家の当主のようで」
「ホーホホ、まったくです」
そう笑ったえびすさんだが、思い出すように目を細めて話し始めた。
「数さんが修行で留守の間、嫡男の省吾さんと主の藤兵衛さんが相次いで亡くなった。ツネさんは数さんが戻るまで必死で朝比奈家を守っていた。いつ戻るか分らない、何処に居るかも知らない数さんを信じて待っていた。そんなツネさんだから数さんも頭が上がらないんですよ」
成る程、そういう事だったのか。ならツネが強気に出るのも頷ける。
しかしえびすさんと話をして居ると心を読まれているような錯覚を憶える。ただの面倒見の良い大家だけで無い気がしてしまう。
「あ、そうそう、ツネさんも貴方の住んでる部屋に居たのですよ」
「そうでしたか」と答えたが、なぜそんなことを言うのか分からない。
「ツネさんは若い頃苦労した。だが、今は朝比奈家で幸せに働いている。主の数馬さんを顎で使いながらね」
そう言ったたえびすさんは軽く頭を下げると背を向けた。照もその背に頭を下げて歩き始めた。歩きながらえびすさんとの会話を反芻する。
なぜ、えびすさんは朝比奈家の話をしたのか。もしかしたら、私の正体を……。
いや考え過ぎだ。越してきてから今まで悟られるような仕草も言動もない。今日だって、ツネと久は何でも話をしてくれた。町内の誰もが親切にしてくれている。
朝比奈数馬……それにしても似ていた。思わず立ち止まり空を見上げてしまった。
「おい茂里。お前らしくない、往来で何を考えこんでおる」
耳触りな声で現実に引き戻された。ゆっくり声のする方へ顔を向けた。秋月藩士坂井十四郎の表情の読めない顔があった。
「どちら様でしょう、私は照と申します。人違いじゃ御座いません」
足早で歩き周りを見回すが、二人のやり取りを気にする者はいない。
「相変わらず慎重だな」後から聞こえた。
「私が慎重でなく、坂井様が無神経過ぎるのです。もし私を知っている人が近くに居たらどうします」
真っ直ぐ前を向いて小声で話した。しばらくそのまま進み、往来から脇道に逸れてやっと歩を緩めると坂井が横に並んだ。
「その後進展はあったのか」
期待と失望の混じり合った言い方だ。期待は久が姫様だという証拠を握れば野望が進展する。失望は、そうなれば勝負に負けて私を抱けない。
「ふふっ」と微笑んで坂井を焦らした。
「何だその笑いは」
それには答えず、「そういえば、私が勝った場合、坂井様はどうしてくれます」
坂井の細い目が光った。私が有力な情報を掴んだと察したのだ。
「何が欲しい」
「そうですねえ、何にしましょうか」
「欲しい物はないのか」
「有り過ぎて迷ってるんですよ」
「茂里ならば……」と言って坂井は口を噤む。言っては拙いと気づいたのだろう。
この体を使えば男も金も思いのまま、欲しい物は何でも手に入るはずだと言おうとしたのだ。そう思われるのは悔しいが、今までそうして生きてきたから反論も出来やしない。
「ねえ、坂井様はなぜ今回の件に加担したんですか。出世が出来るからですか」
「藪から棒に何を言う」と珍しく動揺した。
茂里は目だけを動かし坂井の顔色を窺う。息を五つする時間が経った。
「自分でも分からん」
空を仰ぎポツリと吐いたその言葉は本心から出た言葉だと茂里は思った。
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