第一章  姫幽霊(一)

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第一章  姫幽霊(一)

 ひとっ風呂浴びて湯から上がると、外は向かい側が霞むほどの雨だった。  仕方ない、止むまで二階の座敷で休むか。  階段に足を掛けた途端、番台から「十文だよ」と女将の声が掛かった。  懐から三徳を取り出し十文払い、ギシギシ音のする階段を上がった。えびす長屋の大家と武蔵屋の(あるじ)が将棋を指している。大家は顔を綻ばせて「数さん、どうも」と挨拶してくれたが、武蔵屋の主はフンというぐあいに一瞥(いちべつ)しただけで何も言わない。えびす長屋の大家は立派な名があったはずだが誰も名前で呼ばず、えびすさんと呼んでいるから数馬も忘れてしまった。武蔵屋は質屋で主は富三郎(とみさぶろう)、金に(しわ)く町内の評判はすこぶる悪い。  町内一の慕われ者と嫌われ者が将棋を指しているから、雨で足止めを食らった男たちはどういう風の吹き回しかとチラリ、チラリ二人を窺っている。  比較的空いている窓際に座ると畳が湿っていた。奥を見渡すが手脚を伸ばせる場所はない。顔見知りが「先生、そこは湿ってる、こっちに来なすったらいい」と声を掛けてくれたが横になれそうもない。 「有難うよ、なあにここで十分だ」と断って手枕で横になった。  暫くすると瞼が重たくなってきた。段々と雨音も話声も遠くになってきた。  良い気分でうとうとしていると「数さんも来ていたんだ」と聞こえた。  薄目を開けると人懐っこい忠太の顔があった。どうやらゆっくり寝させてくれぬらしい。仕方なく体を起こした時、突然耳の奥で怒号と剣戟の音がした。 「おい、今、男の声が聞こえなかったか」  忠太は座敷を見回し「これだけ居れば、声ぐらい聞こえるよ」と答えた。 「違う、外からだ。刀で打ち合う音と怒号だ」 「聞こえないよ。この雨ん中、刀抜いて喧嘩する酔狂な者は居ないよ」と忠太は笑う。  それもそうだ、空耳だったか。  将棋を指していた武蔵屋の主が階段から下を覗き「駒が見えにくい、灯りをつけておくれ」と声を掛けると「うちじゃ灯りは暮れ六つの鐘がなってからと決まってんだ。年寄りのへぼ将棋に使う油は無いよ!」と返ってきた。  小気味良い啖呵に二階にいる男たちがどっと沸いた。町内一の嫌われ者をやり込めた一言に喝采を送る。武蔵屋の主は眉間に皺を寄せて座敷を見回すが、口を開けば不利と悟ったのか何も言わない。男たちの笑いが静まると「えびすさん、今日はお仕舞にしましょう」と言うやそのまま階段を降りて行ってしまった。  二階はシーンと静まり、次に起こる事を期待して耳をそば立てている。 「おや、まだ降ってますがお帰りですか」  女将の猫撫で声が二階に届いた。 「武蔵屋さんには贔屓にしてもらってますから傘をお貸し致します」 「な、なに、貸してくれるのか」  女将の予期せぬ親切に武蔵屋の声が上ずっている。 「はい。お貸しいたしますとも……十文ですけれどね」 「い、い、要らん!」  二階で二度目の大爆笑が起った。  数馬は見るとはなしに、雨の中トボトボ去って行く武蔵屋の背を眺めた。 「お気をつけなすってえ、転ぶと亀の湯へ逆戻りですぜ」  客の一人が追い討ちを掛けると三度(みたび)どっと沸いた。  顔見知りが顎で階段の下を指した。 「ここに嫁に来た頃は、顔を真っ赤にして俯いて働いてたもんだ。尻を撫でられりゃあ、キヤャーって天井に頭がぶつかるほど跳び上がっていたのが、子どもを産んだら、素っ裸の男にも動じねえどころか、おっ立ててニヤついている変態野郎に『そんなお粗末なものひけらかして恥ずかしくないのかい、まだ半分皮被ってるじゃないか』と、おっ立っているなにを柄杓でピシッと叩きやがった」  昔話を聞かされた忠太が思わず顔をしかめながら股間を押さえた。  数馬は外を眺めた。先程より大分小降りになっている。これなら武蔵屋もあまり濡れぬだろう。ふと仏心を起こした自分が可笑しくて「ふふっ」と声が漏れてしまった。 「俺は漁火(いさりび)で一杯やるが忠太はどうする」 「お、俺は生憎用事が……」  歯切れの悪い言葉にピーンときた。  小指を立て「これか」と言うと「エヘヘッ」と頭をかく。 「煮売屋のお鶴か? それとも髪結いのお勝か」と訊くと、「なっ、なんで知ってんの」と目を丸くした。 「知らねえのはお前だけだ」と言ってやると、近くにいる男たちから失笑が漏れる。  何処からともなく(ひぐらし)の声が聞こえてきた。 「さてと」数馬はもう一度暮れかけた表を眺めながら「この雨で少しは過しやすくなるだろう」と腰を上げた。  年寄りが「これからはひと雨ごとに涼しくなる。蜩の声が鈴虫の音に変わるのももうじきじゃよ」と歯の抜けた笑顔を向けてきた。
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