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第三章 手習塾(十二)
久は目を閉じて忠太の話を考える。流れからすると二十人もの盗賊の前に立ちはだかったのは数馬に違いない。忠太の話は、まるでツネから聞いた出奔する前の数馬の姿そのものだ。旅費を稼ぐため畚担ぎまでしたなど今の数馬からは想像も出来ない。やはり何かがあったのだ。剣を捨てるほどの出来事が。
「ああー、さっぱりした」とツネが戻ってきた。
ズズズー、ズズーッと残りの蕎麦を啜りながら「忠さん早く」と催促する。
「それにしても良く食うね」と忠太は呆れ顔だ。
「忠さんの蕎麦は美味いからいくらでも入るんだよ」
途端に忠太の目尻が下がる。
「早く続きを聞かせてくださいな」久が忠太の猪口に酒を注す。
その酒を一口で飲み干した忠太は手で口元を拭った。
「命知らずの盗賊二十人。そいつ等が得物を振りかざして向ってくる。役人だって尻ごみしたくなる状況だ。そこに、たった一人で立ち向かう男がいる、誰だと思う」
「数さんって言うんだろう、もう驚きゃしないよ」
話の腰を折るようなツネの言葉に、一瞬ムッとした忠太だが、久が微笑み掛けると気を取り直して話を続けた。
「高張り提灯の明かりの中にスーッと人影が現れた。狐狸妖怪の化身かと思うほどの妖しい姿だ。夢か現かわからない。目を凝らすと白い鉢巻に白い襷、袴の股立ちを取った凛々しい若者だ。龕燈提灯の光が音も無く抜き放った刀を光らせた。盗賊の足が止まった。と、若者が斬り込んでいった。一団になっていた盗賊は、なすすべも無く斬り崩され左右に割れた。走り去った若者の後には十人以上がのたうち回っている。その時を逃さず、役人が『それーっ』と盗賊に殺到した」
「へえー、凄いねえ」
熱の入った講談のような話にツネが感心すると忠太が喜ぶ。
「さっ、ツネさんも飲んで」調子づいた忠太が酒を注ぐ。
ツネは一杯に満たされた猪口に口を近づけて「忠さん、見てたのかい」と訊いた。
「見てるわけないでしょう。店ん中で家族奉公人は震えていたもの。後で聞いた話を俺なりにまとめたの。どう、面白かった?」
当然のように忠太は言う。大分誇張はしてるだろうが、数馬が盗賊に斬り込んだのは間違いないようだ。
「騒動が終って十日ほど経って数さんは旅に出るという。今度は波田屋の慰留にも首を縦に振らない。俺も脅されていたとはいえ盗賊の片棒を担いでしまったから、何となく波田屋に留まりずらい。それに残党が居ないとはかぎらないだろう。俺が居れば波田屋に迷惑が掛かるかも知れない、数さんも松本城下を離れて暮らしたほうが安全だという」
盗賊の残党が居れば絶対忠太を許さない、草の根を分けても探し出すだろう。数馬の判断は正しいと久も思う。
「俺は数さんに一緒に連れていっておくれと頼んだのさ。断られるかと思ったら『いいよ』ってね。うれしかったねえ」
「それからずっと一緒に旅をしたのですか」久が訊いた。
「そうだよ。俺が十五、数さんが十八歳の時だ」
忠太は陽気に笑う。数馬との旅がよほど楽しかったのが伝わってくる。
「何処に行くかは数さんが決める、懐には波田屋からの餞別がたっぷりある。俺はわくわくして歩いたものさ」
そう言った忠太は「でも……」と心なしか顔を曇らせた。今までの陽気な忠太ではない。久はいよいよ肝心の話に入ると確信した。
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