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第三章 手習塾(十三)
波田屋の店先でみんなに別れを告げた二人は越後方面へ向った。城下を離れ行き交う人も疎らになった田舎道、茶店で足を休めていると旅姿の侍三人が現れた。三人の話声が聞くとはなしに耳に入ってきた。
「幾ら何でもやり過ぎよ。あの六人は闕所のうえ追放だ。嫁に赤ん坊もいる者もおる」
「首を括った者もおるらしいぞ」
「お主も若い頃は傾いておったが、今では三人の父親、立派に藩の御役に立っておる」
「立派かどうかは知らぬが、まあそれなりにな。若い者は元気があり過ぎるのだ。あの六人は刀を抜けば相手は逃げると思っていた。だが意に反し、波田屋に逗留しておる若造は向ってきた」
「少々腕に自信があるものだから自慢したいのだろう、俺は強いんだと」
「盗賊どもにたった一人で斬り込む程の腕の持ち主、大ごとにせず収められたはずだ」
「まったくだ、人助けではなく人を不幸にした。どちらが傾奇者か分からんぞ」
明らかに数馬が傾奇者を懲らしめた事を話題にしているのだ。
忠太が数馬の顔を覗くと血の気の無い青白い顔で、きつく引き結んだ唇が震えている。これ以上話を聞かせるわけにはいかない。忠太は強引に数馬の手を引いて茶店を後にした。
「それからの数さんは、口数も少なく思い詰めていたなあ。旅は始まったばかりなのに、橋の上で川面を飽きもせず眺めたり、立ち止まって畑を耕す百姓をじっと見詰めたり、頭がおかしくなったのかと心配した」
久は考える。よかれと思ってした事が思いもよらぬ結果を招くことはある。懲らしめはしたが、傾奇者が不幸になることは望んでいなかっただろう。むしろそのことをきっかけに真っ当な人間になるのを期待したはず。しかし自分の行いが人を救わず不幸にしてしまったならば……剣の道を究めようとする若者には辛く悲しい出来ごとだったに違いない。
「急ぐ旅でもなし、足の向くまま気の向くまま。越前は東尋坊っていう海に面した断崖絶壁に行ったんだ。二人で荒波を眺めていると数さんが突然『やめた、やめた』と言って腰の刀を海へ放り投げようとする。俺は慌てて止めたんだが数さんは『いいんだよ』と言ってにっこり微笑んだ。何日振りだろう数さんの笑顔を見たのは。そう思ったらもう止めることは出来なかった。刀は宙を舞い海に落ちて行った。ついでに木刀も投げようとしたから俺は慌てて『捨てないで、俺が杖代りに使う』って叫んだら笑って渡してくれた」
「へえー、あの木刀、忠さんが持ってんだ。今でもあるのかい」
懐かしそうにツネが言うと「あるよ、長屋の心張棒にしてる」と忠太は答えた。
「数さんは、刀捨てた時に背負っていた色んな物も一緒に捨てたんだ。振り向いて俺の顔を見てニタッと笑うと、それまで『忠太さん』と呼んでたのが『おい忠太、いくぜ』と口調がガラリと変わった」
「背負っていた色んな物ねえ」とツネは溜息と共に吐き出した。
子供の頃から一緒に生活していたツネなら背負っていた物が分かるはず。江戸で有名な剣術道場、父も兄も立派な人物。嫌でも二人に追いつかねばならない。加えて昌平坂学問所へ入れるほどの秀才と期待された。少年には茨の道だったのだ。
「その日を境に数さんは変わっちまった。いや、俺は本当の数さんになったと思っている。だから、それからの旅はそりゃあ楽しくて、気づけば江戸までついて来てしまった。早いものだね、江戸に落ち着いて五年も経っちまったよ」
忠太の長い話が終った。
もしかすると十五歳で出奔した理由は剣術修行ではなく、剣を捨てる旅だったのかも知れない。数馬はのしかかる重圧で押し潰される自分が見えていたのだ。何処で捨てようかと悩みながらの旅だったのだろう。傾奇者はきっかけに過ぎない。おあつらえ向きの断崖絶壁で自分を苦しめている重荷を投げ捨てたのだ、綺麗さっぱりと。
ツネを見ると謎が解けてホッとしたような、安心したような、それでいてチョッピリ寂しい顔をしている。しばらくは三人とも口を噤んで押し黙ったままだ。
表通りからざわめきが聞こえ「今帰ったぞー」と数馬の大きな声が届いた。
忠太は「絶対内緒だよ。分ってるね」と念を押す。ツネは直ぐに銚子と猪口を片付ける。久は「御苦労さまでしたー」と声を張り上げて表へ行った。
数馬は人足と一緒に荷車から天神机を道場へ運び入れ、四半刻後に仕事は終了した。久は人足と話をしている数馬を呼び人数分のおひねりを渡した。
「これは支払いとは別に皆さんへのお礼です。軽く一杯出来る程度ですけれど。渡してください」
「めんどくせえなあ、お久が渡しゃいいじゃねえか」
「駄目です。こういうものは当主からきちっとお渡しすべきです」
「そういうもんかねえ。じゃあ渡してくらあ」と汗を拭いてる人足に向う。
「今日は御苦労さん。何かあったらまた頼むぜ。少ねえけど一杯やってくんな」
声を掛けておひねりを渡すと「こりゃあどうも」「有難うござんす」と礼を言われ、数馬は満更でもない表情だ。久と数馬は荷車を曳いて帰る人足を見送った。
久が改めて「御苦労さまでした」と頭を下げた。
「どうってことねえぜ」と数馬は照れる。
「数さん、亀の湯で汗流したらどうだい」ツネは桶と着替えを用意している。
「おう、そうするぜ」
威勢よく答えた数馬が「あれ、何で忠太が居るんだ」と目を丸くした。
「数さんが遠くまで行って働いてるって聞いたから、蕎麦食べて貰おうと思ってね」
「俺の為に蕎麦打ってくれたのか、ありがてえ。湯上りに食わせてもらうぜ」
「あら、ではこれは要りませんね」と久が言う。
「なんでえ、それは?」
「湯上がりに漁火で一杯と思ったんですけれど」
「漁火だと。い、行ってもいいのか?」
「お蕎麦はどうするのです、折角忠太さんが数馬さまの為に打ったのに。明日になると味が落ちますよ」
数馬は子供のように困った顔をする。久はこらえ切れずに大笑いしてしまった。
「数馬さまが湯に入ってる間に、漁火に持って行って頼んでおきます。飲み代は蕎麦打ちのお礼も含んでますから、忠太さんと二人で行ってください。ただし飲み過ぎないように」
「ありがてえ、さすがお久だぜ」
数馬はツネから桶と着替えを受け取ると忠太を促していそいそと歩いて行く。
西の空が赤く染まった夕暮れ時、久とツネは二人の背を見送った。
「おい忠太、おめえ少し酒臭くねえか」
「そんな事ないよ。気のせいだよ」
「そうかあ」
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