第三章  手習塾(十四)

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第三章  手習塾(十四)

 漁火でわけを話すと女将の多津は、快く蕎麦を預かってくれた。 「忠太さんが沢山打ちましたので、女将さんも召し上がってください」 「忠さんの蕎麦は美味いからねえ。言われなくてもそうさせてもらうよ」  多津と立ち話を切り上げて漁火を出ると、風呂桶を抱えた老人が歩いて来る。  ハッとしたツネが「いつもお世話になっております」と頭を下げる。  風貌から日頃ツネが話てくれるえびすさんだと直ぐ分かった。 「いやいや、こちらこそ」と言ってえびすさんは隣の久に視線を向ける。 「こちらがツネさんの姪子さんで手習の女師匠さんですね」 「初めまして、久と申します。よろしくお願いします」  手習で子供たちに接しているからだろう、自分の存在がだいぶ町内に広まっているようだ。沖田の言う通り十分気を付けねばと久は感じた。ふと隣のツネを見ると何となくバツの悪い顔をしている。どうしたんだろうか。 「こちらこそよろしく」えびすさんは軽く頭を下げて亀の湯へ向った。  その背を見送るツネは複雑な表情である。 「ツネさん、どうしたのですか」 「えびすさんは全て知っている。あたしの姪じゃなく秋月藩のお姫さまだってことを。あの人に嘘は通じないのさ」 「えっ、どうしてですか? どういうことですか」 「そのわけを話すにはあたしの昔話をしなきゃならない。数さんも遅いし丁度いい。帰ったら聞かせてやるよ。あたしがどういう女かをね」  何がなんだか分らない、えびすさんに会うとわたくしの正体を知っていると言う。そのわけはツネの過去に関係があるらしい。ツネはえびすさんと深い係わりがあるようだ。  結局ツネは家へ着くまで一言も話さなかった。居間に入り行燈に明かりを灯すとペタリとその場に座ってじっとしている。こんなツネを見るのは初めてだ。  昼間に蕎麦を沢山食べたからお腹も空いていない。久は熱い茶と漬物を持ってツネと向き合った。 「お久は川越の団子屋に嫁いだあたしの妹の娘ってことにしたろう。妹は居ないけど川越の団子屋っていうのは本当なんだよ。屋号の和泉屋も本当、あたしの生まれた家さ。結構大きな店で兄弟は二人、あたしの上に兄さんが居る」  ツネは湯呑みを両手で包むようにして話を始めた。 「あたしが十七の時縁談があった。瀬戸物屋の跡取りで家柄も釣り合っている。そりゃあ両親は乗り気。でもあたしには好きな男がいたのさ。名は梅次、同い年の大工、と言えば聞こえはいいが、十七じゃまだまだ見習いもいいところ。両親に打ち明けるとけんもほろろに反対された。そりゃあそうさ瀬戸物屋の跡取りと大工の見習いじゃ、端から勝負にならない」  話すツネは俯いてしまった。遠い昔を苦しそうに話す。 「ツネさん、無理に話さずとも」久が声を掛けると「いや、聞いて欲しいんだ。お久にだけは聞いてほしいんだよ」と訴えるような眼をする。 「分りました」と久は背筋を伸ばした。  親に反対され、好きな男に逢うことも出来なくなった娘の取る行動は一つ。手に手を取って川越を後にして江戸へ向った。江戸なら仕事が沢山ある。二人で一生懸命働けば幸せになれる、そう信じていたツネだが現実は甘くなかった。 「浅草は浅草寺近くの長屋を借りた。それがいけなかったんだね。遊び場が沢山ある。あたしが家からくすねてきた金を当てにして、梅次は直ぐに職を探さない。そのうち江戸の女に目移りした。金は直ぐに無くなってしまった。金の切れ目が縁の切れ目、丁度いいやとあたしの前から姿を消しちまった」 「まあ、ひどい男」 「だろう、だが女に振られ金が無くなると舞い戻ってくるのさ。四、五日居ついて飽きるとあたしが稼いだわずかな金を持って出て行っちまう、それの繰り返しさ」 「なぜ、別れなかったのですか」久が恐るおそる訊いた。 「別れようと思ったさ。でも駄目だった。心の端っこに彼奴を待っている自分がぶら下がっているのさ。振り落とそうとしても必死にしがみついて落ちやしない」 「……」 「こう見えても川越のお嬢さま育ちだ、働くといってもなんにも出来やしない。料理屋の下働きから始まり、仲居になるまでに随分掛かった。コツコツと貯めたお金も忘れた頃に帰ってくる梅次に持って行かれちゃう。そんな生活に疲れ果てていたある日、働いている店の主が長屋に顔を出した。主は『この頃浮かない顔をしてるから心配になってね』と親身になってくれる。そういうことが二、三度続いたのさ。そして気が付けば体を許してた」  親身になり優しくするのは男の常套手段だ。弱い立場の女を自分のもにする為に。 「半年以上梅次は帰って来ない。あたしはすっかり梅次を忘れていたのさ。というより店の主に夢中になっていたんだ。そんなある日、主を送り出そうとした時、障子戸が開いて梅次が現れた。酔っているような荒んだ顔をしていた。主を睨んで『おめえは誰だ、俺の女に何をした!』とわめき散らして大暴れする。長屋の連中が何事かと集まり始めた矢先、梅次は台所の包丁で主を刺しちまったのさ」 「えーっ」 「梅次は逃げたがその日のうちに捕まった。主も命に別状はない。奉行所に呼ばれ色々訊かれた。その時の吟味方がえびすさんだったのさ」 「ではえびすさんは奉行所の方なのですか」 「今は違うけどね。まだ働けるうちに家督を息子に譲って長屋を建てて隠居したんだよ。その長屋がえびす長屋」  えびすさんが奉行所の元吟味方ならツネの過去も知っている。ツネに妹は居ない、私が姪で無いと気づいている。先程のツネが複雑な表情だったのはその為だ。でも知っていて黙っているのはなぜ? 沖田と同じ考えなのだ。わたくしを秋月藩に返すのは危険と判断しているのだ。
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