第三章  手習塾(十五)

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第三章  手習塾(十五)

 ツネは辛く悲しい過去を淡々と話す。  事件の後に店の女将が長屋に乗り込んできた。「亭主を寝取りやがった恩知らず」と大声で喚き散らす。殴られても悪いのは自分だとじっと耐えた。ツネは長屋にもいられなくなり身を隠すように浅草を離れた。 「それからのあたしは落ちるとこまで落ちてしまった」  自嘲気味に笑うと「何をして暮したと思う」と訊いてきた。久は首を振った。 「夜鷹さ」 「よたかってなんですか」 「男に声掛けて、河原でも林ん中でも茣蓙を敷いて体を売る商売さ」  ツネはどうだ驚いたか、という表情をする。久はまともにツネの顔を見られない。 「あれは粉雪舞う寒い日だった。熱もあり体もだるいが、もう二日もろくなものは口にしてない、少しでも稼ごうと夕方商売に出掛けたんだよ。提灯を持った男が歩いてくる。あたしは『チョイと旦那、遊ばないかい』と声を掛けた。男の足が止まって提灯の灯りであたしを照らす。まるで品定めするみたいにね。これは脈があると思い一歩踏み出したら、ふらふら~としてね。それからは憶えちゃいない」 「た、倒れてしまったのですか」 「気がついた時は暖かい布団の中、えびすさんがあたしを覗いていたのさ。なんと声を掛けた男が元奉行所吟味方のえびすさんだったのさ。体が良くなるまで面倒をみてくれた。えびす長屋の一番奥に住まわせてくれて働き先も世話してくれた。小さな料理屋だけどなんの心配もなく働くことが出来た」  そういう偶然ってあるんだ。いや偶然ではなく神仏が導いてくれたのかも知れない。ひょっとすると自分が此処に匿われて居るのも神仏のお陰かも知れない。そう久は感じた。  月日は経ち、ツネはえびすさんから朝比奈道場に住み込みで働かないかと打診された。勿論今の奉公先には、代わりの者を世話して迷惑の掛からぬようにするという。ツネにしてみれば命の恩人からの頼み事だ。断ることは出来ないし断る理由もない。 「よろしくお願いします」と頭を下げた。  長屋から朝比奈道場へ移る日にえびすさんから不思議な事を言われた。 「どういうわけか長屋の一番奥に住む者は不幸なわけありの女ばかり。でも出て行く先には必ず幸せが待っている。ツネさんもきっと幸せになれるよ」  こうして朝比奈道場での生活が始まった。当時の朝比奈道場は半年前に奥方が病死し、道場主の朝比奈藤兵衛と嫡男省吾、次男数馬の男三人での生活だった。 「数さんは丁度十歳、そりゃあ可愛い子だったよ。今と違い性格も良くてね。長男の省吾さんは数さんと五つ違い、将来の朝比奈道場を背負って立つ男だ、剣術の腕は折紙付きさ。加えて錦絵から飛び出したような男だから町内の娘が黙っちゃいない」  ツネは目を細める。 「ここでの生活が合っていたんだろうね。こんな事言うと怒られるかも知れないけど、終の棲家を見付けたような気になったんだよ」  穏やかな顔になっている。江戸へ出て来て一番楽しい日々だったのが窺える。 「ふふっ」とツネは照れたように笑うと、話そうか話すまいか迷っている様子。 「聞かせてくださいな」久が催促した。 「絶対内緒だよ」とツネは顔を赤らめる。 「ある夜更け、藤兵衛さんが寝床に忍んで来たのさ。あたしを女として見てくれてると思ったらうれしくて。こっちから抱きついちまったよ」  成る程顔を赤らめるはずだ。 「そういう生活が一年程続いたある日、えびすさんに呼ばれた。横には藤兵衛さんも座っている。剣術の達人が落ち着かなくそわそわしている。何だろうとチョッピリ不安になったら、えびすさんが、藤兵衛さんの後妻になる気はないかと言ったのさ」 「えーっ」 「嬉しかったよ。うれしくて涙が止まらなかった。でも、でもね、相手は江戸で有名な剣術家だ。あたしは駆け落ちした男に裏切られ夜鷹にまで落ちぶれた女。えびすさんに拾われていなければとうに野垂れ死んでいた。どう考えても吊り合わない。昔を知ってる者が現れたら迷惑が掛かる。『朝比奈藤兵衛は夜鷹を後妻にした』と噂になったら申しわけない。だからどうしても『はい』とは言えなかった」  切なげに語るツネに、久は掛ける言葉が見つからない。  またとない話を断ったのだから、もう此処にはいられないとツネは覚悟した。その日の夜、暇をもらおうと藤兵衛のもとへ伺った。  藤兵衛はツネが口を開くより早く「申しわけない、煩わせてすまん」と頭を下げた。  そしてゆっくり顔を上げると「だが、これからも忍んで行くぞ、いいだろう」と悪戯っ子のような眼差しでツネの反応を待つ。  ツネは何だか可笑しくなって「待ってます」と言ってしまい二人で大笑いした。  当時を思い出したツネはまたも顔を赤くしてクスクス笑う。 「次の日の朝、えびすさんがやって来た。あたしの顔見て『何時もの元気な顔だね』って胸を撫で下ろした。後妻話を断ったから出て行くんじゃないかと心配して様子を見に来てくれたんだよ。あたしはね、安心して帰るえびすさんの後姿を眺めていたら、引っ越す時に言われた不思議な言葉を思い出したのさ。『長屋の一番奥に住む者は不幸なわけありの女ばかり。でも出て行く先には必ず幸せが待っている』っていう言葉をね。だからえびすさんの背に『もう心配ありません、あたしは幸せです』って叫んだのさ。するとえびすさんは振り向いて何度も頷いてくれた……何度もね」  そう話したツネの瞳から大きなしずくがポタリと落ちた。
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